<23> 愛情

幾つの頃から始めたのか、修道院のみんなが寝静まった真夜中、院長室でテーブルを挟んで向かい合った。月のある夜には天窓からの明かりだけを頼りに、ほかは小さな蝋燭かときどきはオイルランプを使って。

眠い目を擦る自分に、しゃきっとしな、というババァも少し眠そうだった。胸の前で手を組み、目を閉じて、ふたりで聖詞を詠む。聖典の序文から最後までを二週間掛けて詠み、また序文からを繰り返す。風と雨のひどい嵐の日にはオンボロ修道院がぎしぎし軋む音の方が大きい。そんな呟き程度の音量で、ふたりの声が混じった。

気を抜くと逆から詠みそうになり、ババァと同じ詞を一字一句間違えないよう集中する。違うよ、と頭のどこかで誰かがいう。


逆だよ、逆回しだよ。その聖詞は、人間が詠むものじゃない——


幼い頃には、気分が悪くなったときも倒れたときもある。何ヶ月かぶりにスープに入っていた肉を戻したときは生理的な涙以外の涙も止まらなかった。でも止めたいとは思わなかった。祈祷のあとはボードゲームをしながらババァがいろんなことを教えてくれたからだ。

ここで教えたことは、と毎回前置きする。誰にも話してはいけない話。

真実は、知っているというだけで命奪われるモノだから。他の誰をも危険な目に遭わせてはいけない。

じゃぁどうして自分には教えてくれるの、とは聞けなかった。知りたいから。聞きたいから。例え命狙われようとも、知らなくてはいけない。今度は。今度は騙されたくない。漠然とした不安、焦燥に満たされる自分に、また誰かが問う。


どうしてその人が真実を語っていると思えるの——


マルベリは嘘に囲まれて生きた。

半分以上秘匿された聖典、それらしく作られただけの神様の彫像、聖女と勇者の偽の役割。

善と悪の二分する世界で人間は善で魔族は悪。この世界を魔王から守るために王国は最前線で戦っている。

ほかの国々をも守るために、世界中の人間のために戦っているのだと。

お前は。レイグノース三代王の口癖だ。世界の希望。魔王を斃し、世界に安寧を。そのために、そのためだけに生まれた。

父王は、愛情を与えない方が渇望を生むと知っていた。兄である王太子に向けられる柔らかい視線の幾らかを得たいがために、七つか八つのときから、私は魔獣討伐にも魔族討伐にも赴いた。返り血が髪も聖衣も朱く染め、死臭が何日も鼻をつこうとも。焼けば青く光る骸に、殺めたのが人ではない証左を求めても。

成果を報告するために謁見する父王の眼差しが、いつか優しく緩むことを願って。

それが策略だとどうして知れただろう。父王の言葉も周りの者の態度も私をうまく扱うために細心に整えられていたと。

聖衣や聖具として身に付けるもの、王城で取り囲む侍女たちが隠し持つ魔導具に、意識を混濁させる作用があるとどうして知れただろう。聖典、魔王、聖女、自らの力。深く考えようとすると頭痛がした。生まれた時から刃も毒も弾く魔法の防壁を無意識に備え、病気も怪我もしたことがないのに、精神は蝕まれ、思考が奪われているとどうして気づけたというのか。民を守るための戦いに明け暮れて疲れているからといわれれば、信じる以外どうできたというのか。彼と出会ってから侍女の数が増えたのも私を心配してのことだと疑わなかったのは、懺悔すべき罪だろうか。


だから、愛情を与えた。今度は愛情を以て操ろうとしている——


マルベリが欲した愛情を、再び現れた少女に与えた。

今度は魔族がうまく使い、望みを果たすために。魔族の望みは封印の解除による魔王の復活。封印を施した者ならば封印を解除できると考えるのは道理。

ババァはいつも話終わって寝る前、自分にまじないを掛けた。魔封じの腕輪をぴかぴか光らせ、頭に手を乗せる。聖詞らしき詞を唱えると、手の平と頭の間に熱が生じる。熱は段々と降りてきて、それが光の輪だと分かる。身体に沿って足の先までいくと光は消えた。

まじない。純粋魔族のババァは魔力を封じられ、魔法が使えない。これはまじないだから、大丈夫。そう教えられてきた。そう。ババァもまた、自分に嘘をついていた。


「ババァは、自分を利用するために育てた?」

透けた身体では手を組むこともままならない。諦めてテーブルの上に置こうとしても、すり抜けた。仕方なく身体の横でぷらぷらさせる。震えが誤魔化せるとも思えないが。


「アンタに、<世界を正す者>に会うことができたら、すぐにでも魔王様の復活をお願いしたい。そう話した者がいてね」

ババァは目を細めた。信頼する誰かのことなのだろう。

「『それはその方が判断なさること。左様なことを仰るのであれば、私は貴女様の元を去らなくてはなりません』とまぁ、こっぴどく叱られてえらく落ち込んでいたよ」


本当におかしそうにくつくつと笑った。

王国の聖典では秘匿されている<世界を正す者>の存在を知っている者など限られている。神聖語で会話するふたりを思い浮かべたが、黙っておく。


「アタシもその方の判断に逆らうつもりはない。ただ、アタシが公平を欠く育て方をしてしまっていたのなら、罰は受けるべきだろうねぇ」

魔族に肩入れするよう育てたと示唆している。だが先ほどの話の、落ち込んだ者も落ち込ませた者も人間だ。ババァは人間に対する恨みつらみを吐いたことはない。魔王を封印したマルベリにすら敬称をつける。


穏やかな茶色の瞳をじっと見つめる。まじないといいながら赤く光っていた瞳が、今は薄暗い室内で黒っぽい。尋ねたいこと言いたいこと、たくさんあるのに口を開けない。意識だけを飛ばしているというのに喉がカラカラで喋れない。

すっと向こうから目を逸らされる。頬の緩んだ柔らかな笑みは、どこか諦めているように見えた。

テーブルの上、純白の聖衣を軽く叩き、こちらに寄せた。


「ボリスに届けさせよう。そのまま付き従えさせればいい。アレはそう育てた」

「自分はっ」

「<力は血に宿り、記憶は魂に宿る>」


ババァは自分の言葉を遮り、聖典の一節を詠む。魔族の詞で。

目を瞠る。聖詞に導かれて脳裏に過った音に集中が妨げられる。修道院に飛ばしていた意識が戻されそうだ。ヴァーレリー・バール、と一度だけ教えられた本当の名前を叫ぶ。ババァは、もう来るんじゃないよ、ときっぱり言った。そして思わずといった風で聖詞をひとつ呟いた。


<私に罰を与えてください>


暗転した視界にその詞だけが反響する。人間と魔族の聖詞に共通するただ一つの詞。おっちゃんが選定の儀の説明前に呟いた詞だ。

彼らは神様の遣いの前で嘘をついた。おっちゃんの説明はほとんど本当だったが、少しでも嘘が混じるのは嫌だったのだろう。ババァの嘘はきっと沢山ある。守るための、嘘が。



意識は王宮に戻れど、動けないでいた。

曇天で天窓からの明かりの鈍かった修道院の院長室よりもさらに暗い倉庫の壁をぼんやりと眺める。唇が震えるのを堪える。泣いたりするもんか。無造作に置かれた魔封じの腕輪が、もう役目を終えたから外れたのだとしても、今すぐいなくなる訳じゃない。でもせっかく会えたのに結局ほとんど話せなかった。愛情を疑っただけだ。マルベリのときに与えられなかったものを与えてくれた、それだけで。

厳しい言葉で生きる術を教え、神様の御意志を伝える聖典のすべてを教え込んだ。聖女マルベリの記憶に触れないように、わざと魔族の聖詞で。

新しい仲間の成長を共に喜び、仲間を失えば共に悲しんだ。毎日の食事、畑仕事、仲間の世話。見上げる目線が見下ろす視線に変わっても、街から森から、修道院に戻ればそこにババァはいた。

心を砕いて子どもを育てることを、愛情以外のなんと表現するのか自分は知らない。


「ざまぁねぇな。愛してくれた人を、自分のために失ってばかりだ」

マルベリは愛した勇者を殺め、エタは愛した育ての親の命を削り続けた。

ババァがまじないといって掛けていた魔法は、この姿を変化させるものだ。周囲を誤魔化すため、己自身を誤魔化すための。魔封じの腕輪の能力を超えた魔力の放出で魔法を使っていたのなら、寿命を縮めていたと考えていい。

ババァに与えられた知識とマルベリの頃の経験から導いた結論。ふたりでやっと一人前か。魔法を会得すれば、何でもできると思っていたのに。


「遠いな。誰の姿も、遠い」

くぅ。慰めるように腹が鳴った。目覚めてからロナに淹れてもらった茶を飲んだだけだった。木箱から飛び降りる。

「腐ってても仕方が無い。ふんっ」

両手で頬を張った。頬と手のひら、どちらからか大きく鳴った。両方がじんと熱い。苦しいから、辛いから。目を背けて逃げても何も解決しない。どんな時でも自分を助けられるのは自分だけだ。

「よし。とりあえず吹っ飛ばそう」

すぐ横の壁の向こうに人がいないのを確認して、魔力を込めた。



・・・・・・・・・・・・・・・



大柄な魔族も飼い慣らした魔獣も楽々歩ける広い通路。壁の上方、人間にはとても手の届かない位置に魔導具ではなく松明が、一輪挿しのように取り付けられている。長すぎる距離を置いて取り付けられたそれらは、照明として優秀だとはとても言い難く、真下以外は影が床に溶け込んでいる。

魔王城に入ってから目の前を染め続ける赤い色、薄暗い通路では見分けの付きにくい点々と続く赤い染みが蛇行する先にひときわ大きな扉があった。人間の背丈の何倍も何倍もある扉、金属の鈍い光沢を持つ扉には、下から上に向けて絡まる蔦が彫り込まれている。上方には人に似た何かも見えるが、高さと暗さで判然としない。よく似た意匠だ。だが、彼の声に、蔓草への感想は口に出す前に頭から消え去った。


——血の跡がこの中に。扉の向こうには、恐らく魔王が


床にしゃがみ込んで血の跡を確認した彼が云った。

騎士を名乗る魔族はたった二人で、すでに数を減らしていた王国の精鋭騎士三十人余りを屠った。深手を負った一人を逃がすため、もう一人が盾として立ち塞がった。討ち取ったときには傷を負った魔族の姿は見えなかったが、残された血の跡はここまで私たちを案内してくれた。


——触れないで。私が開けます


この扉は人の力では開けられない。聖錫の力で開けるのだと、私には分かった。

だから、云った。

いつも一歩前で私を守る背中に。

後ろで生唾を飲むような音がする。みな、緊張している。王城を出立したときに三百名いた精鋭騎士のほとんどを失っている。勇者と、聖女である私以外は、騎士団長含む騎士四人と魔力の切れた回復司祭と魔術師の六人だけだった。

魔王城に入ってからは、精鋭とはいえただの騎士では魔法も剣も魔族にはろくに通じず、勇者の一撃の隙を得るためのおとり役でしかなかったが、この先はむしろ邪魔にしかならないだろう。

魔王には普通の剣は通じない。普通の魔法も通じない。通じるのは聖剣と特別な聖魔法のみだ。

彼の背中がぼやける。焦点が合わない。呼吸が。吸っているのか吐いているのか、分からない。鼓動が激しく頭まで響く。

二人の力が及ばなかったら。ここまでに散らした命が、全部無駄になったら。帰ってこない夫を息子を待つ街の人たちに、謝ることすら許されなくなったら。


——あ・・・


不安が、口を突きそうで。背に触れようと上げた手は、そのまま宙を彷徨う。

ここで怯えて。彼の士気を挫いて。一人でここまで来たみたいに。やっぱり傲慢なお姫様だ。私は。

かぶりを振って下ろそうとした手は、けれどその前に、振り返った彼と私の間に挟み込まれる。


——大丈夫。君は僕が守るから。世界も君も、僕が必ず守るから

不安にならないで。

彼の声が上から降ってくる。初めて会った時よりも幾分も低くなった声。大好きなその声は、いつも真正面から聞こえていて、大きな人だと知っていたのに、本当は知らなかったことに気づいた。

固い鎧のせいで抱きしめられなくても、グローブ越しでも、温かい手が背中に熱を伝える。


——止めて。まだ、終わってないのに、泣きそうになってしまう

いつまでも抱きしめていて欲しい。

鎧なんて脱ぎ捨てて、聖衣なんて脱ぎ捨てて。

勇者でなくても、聖女でなくても。

もう戦いたくない。女王なんてなりたくない。国も世界もどうでもいい。今すぐ、君と——貴方と。



逃げたい。



この役目をもらって、考えたことがなかった。

人びとのために。王国のために。世界のために。

どうかしてる。

恋に溺れて、どうかしてる。


腕で、彼を押し戻す。

腰に差した聖錫が、しゃらりと音を立てる。

出番を、強請っている。

熱を消した瞳で、頷き合う。

大丈夫。

私たちは、大丈夫。


しゃらり。しゃらり。

鳴らしていない音が、響く。

頭の片隅で、しゃらりしゃらり、いつまでも響く。

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