<18> 魔の森
「ひぃいい」
奴隷の一人が悲鳴を上げる。恐怖に後じさり、木の枝にでも引っかかったか背負子ごと倒れた。助けなしに起き上がるのに難儀する重さの荷物を背負って尻餅をつくとは、余程この世に未練がないらしい。
北の地に似つかわしくない太い樹に茂る葉が、昼でも陽の光の届かない薄闇の世界を作る。地は落ち葉や倒木の茶、苔と地衣類の緑がやはり暗い色調で描かれている。
一条光射す場所が向こうに見えた。魔獣が暴れて木を薙ぎ倒したのでなければ水場かもしれない。そんなことで気が緩むほど疲れていたのだろう。あるいは、それを待つ魔獣が邪知深かったか。振り向いて手招きした騎士が驚く表情もなしに見えなくなった。
蔓草と同じ色合いで樹上にぶら下がっていた、てらてらと湿度持つながいながい体が、ゆっくりと木の間を縫い進んでくる。大人六七人分の長さの中ほどに膨らみを抱き、まだ足りないとばかりにちろちろと青い舌で次の獲物を選ぶ。最も近くにいた、剣を抜いた隊長の方に幅の広い顔を向けると這っていた上体を起こす。細めた目が笑っているようにも見えた。
「アロンクィンか。有名どころだな」
常に乱れている紺色の縮れ毛を肌に張り付かせ、隊長は独り言ちる。目は背丈よりも上にある大蛇の顔面を油断なく捉える。左右に均等に置かれた体重と僅かに節を取る左手は次の動きを待つ。
蛇の口が微かにすぼむ。塊が飛び出し、音がした。隊長はそれに合わせて息を短く吐き右前に一歩。着いた軍靴で地を抉りさらに速度を上げ、前に跳ぶ。蛇は半拍遅れ、頭を突き出した。そこには誰もいない。毒液を吐き出す瞬間の硬直が時間差を生み出していた。特性を熟知した隊長の動きは確かなものだった。
だが、森の地面に平らな場所などない。着地した左足が落ち葉に滑り、その先の木の根にぶつかり、平衡を崩す。すぐ上には蛇の腹が見える。魔獣は自らの体を重力のまま落とせば、新しい獲物が手に入る。
後ろのお荷物を庇うため補佐に遅れた。無意識に軽い舌打ちが漏れる。次は隊長が踏み潰される瞬間が勝負か。
しかし俺の構えが変わる前に、強化魔法を纏う左足は踏みとどまる。縮れ毛を振り乱し、勢いで曲げた膝を反発させ同時に両手に握り変えた剣を地面すれすれから上方に振り抜いた。きらり魔力が半円を描く。蛇の体は二つに分かれ、腹に響く音をさせて地面に落ちた。
軽くなった体に気づかず、より激しくびちびちと獲物を求める頭に剣を突き刺し、体重をかけた。毒牙にかかれば厄介極まりない。完全に沈黙するまで縫いとめておく。
隊長は一度剣を振り血を飛ばすと、切り口に刃を立てる。
「まだ間に合う。ルッツ、押さえろ」
「うぇい」
返事をしながら、素早く蛇の体の方に取り付く。革製のグローブの替えはあったかな、と荷物を思い返す。隊長の動きに合わせて力を込めると毒蛇の青い体液が滴り落ちる。毒腺は首の辺りにあるはずでこの体液には毒は含まれていないが、気分の良いものではない。
隊長の刃は切り口から横向きに長い胴を捌いていく。手慣れた仕草はさながら料理人だ。膨らみの手前で止めると合図を寄越す。切り口を持って上半分を捲っていくと、小気味よい音をさせて切り残しが裂けていく。
「お、いたいた」
身を剥いで内臓が見え、丸呑みにされた斥候役の仲間が透けた。隊長は剣を逆手に持ち替え、胃袋の手前から慎重に切り裂く。どろりと垂れた液体に地面から蒸気が昇る。魔力で仄かに光る騎士の一部分が出たところで、もう一人の騎士と奴隷が引き摺り出した。
第三砦から第四砦まで、予定では三日のはずだった。魔王城に繋がるこの森の番人とも云われるアーベルが隊長ならば楽なもんだ、と第三で見送られたのは何だったんだ。
「へばったか。ルッツ。見た目よりは軟弱だな」
揶揄う風で仲間を、魔族奴隷すら、気遣っているのは初日に覚えた。反発もふわり逸らす余裕は、実力から来るものだというのも。野営の寝ずの番はしないといいつつ、遠くで鳴く魔獣の声に最初に気づき、動き出したのも隊長だ。
くぉー、こー、といった鳥だか鳥型魔獣だかの声が反響する。耳を澄ましてもどの方向から聞こえるのか分からない。それに気を取られれば今度は泥濘に足を取られる。咄嗟に手を突いた樹木には擬態した蛾が止まっており、生命を潰した感触と鱗粉のざらつきを新しい手袋ごしに残した。
「ふむ。少し行き過ぎていたか」
大蛇から助け出した騎士を奴隷に背負わせ、代わりに食糧などの荷物を引き受けた隊長は、振り返るのもままならず、前方を向いたまま左手を指した。古い石積みの建造物が見える。
ひとつ後ろを歩く奴隷に向かってサインを送ると、尖った耳をぴくつかせて喜んだ。更に後ろに伝播する。最後まで気を抜けないから声は出さないが、飛び上がりたいのは皆同じだった。ここでは騎士も奴隷という職種も、人間と魔族という人種も関係なく、魔と戦う仲間で有り得た。
たった八日間の行程で人の内面を変えるのであれば、聖なる森と呼んでもよいだろうに。感傷的になる俺もやはり疲れていた。
塔では周辺の警邏に出ている者以外が総出で迎えてくれた。
物資の受け取りを担当の騎士が行い、奴隷が運び込む。大蛇の体内から助け出された騎士は別の奴隷が引き受け、医務室に連れて行かれた。
残りの騎士三人は荷役用の部屋へ案内された。着替えと木桶一杯の湯と使い込んではいるが清潔な布、それから温かいスープが供された。森の冷涼な空気と汗は想像以上に体を冷やしていたようで、スープが胃袋から体全体を緩やかに温める。そして、魔獣や動物の鳴き声の響かない、壁に囲まれた安全な部屋は緊張感を奪ってしまう。少し微睡むつもりがすっかり眠ってしまい、目が覚めたのは夜だった。包まっていた毛布から頭を出し見廻す。もう一人の騎士は不在で、アーベル隊長は窓際に座り、革袋から喉の奥に液体を流し込んでいた。
四角い窓の向こうには闇が広がる。黒よりも濃いどろりとした澱みを内包する闇はこの身の内にも広がっている。光射す場所が見えれば脇目も振らず、駆け出してしまうくらいの闇は。
「ゾラティスで傭兵をしていたそうだな」
上衣の前をだらしなく開け、鍛え上げた胸元を晒した縮れ毛の男は、傍らに置いた革袋を投げ寄越す。中身は薄めた酒だ。水物は特に重くかさばるから輸送できる量は限られている。しかも医療用としても使うため、嗜好品として消費できる量は少ない。だが、命懸けの戦場でこれくらいの楽しみがなくてどうして遣ってられるのか。
「ガキでも雇ってくれるのがそれしかなかっただけだ。どぶさらいから魔獣相手まで色々覚えたさ。碌でもない」
見栄もあり、傭兵といっただけで実体はほとんど野盗だった。
ゾラティスはカロッサ系の伯爵だか子爵だかが治める地だ。隣はデリウズ系貴族が治め、境界、川の取水権や漁業権、領民の引き抜き合いなど、まぁ仲が悪いこと。頻繁に領兵同士の衝突も起きる。
その小競り合いの現場で正規の領兵が立ち去った後、死体を漁る。奴らはどぶさらいと呼んだ。兵士や騎士になりたければ血と死に慣れろ、ともっともらしいことを宣って死体から金目の物を剥ぎ取る。それから少数で動く修道士、行商人は魔獣に襲われたと思えと、荷物も命もいただいた。数人の護衛しか連れていない訳ありのお嬢様は馬車も含めていい稼ぎになった。普段よりも小遣いが増えたのを覚えている。
仲間割れで頭目が変わってからは多少傭兵らしくなった。魔獣の交配の季節にはゾラティス北部の村に常駐した。侵入を防ぐ柵を作り、交代で見張りに立った。初めは怖がっていた村人も何匹かの魔獣を仕留めた俺たちを信頼してくれるようになった。その村にいた数ヶ月だけだった。生きている実感を得たのは。
ごくりと鳴らして、独特の粘り気も薄められた酒を飲む。水とは異なる熱が広がる。ふいに、浴びるように飲んで店の裏壁に凭れた俺に被さった影を思い出した。
『・・・の、機会をあげるわ』
男の声は、女の話し方でそう言った。
男との出会いは傭兵時代よりもっと前に思われた。懐かしい、差しのばされた手。
隊長は窓を少しだけ開けた。森の冷気が通る。酒精で暖まりかけた体と、半年前に馳せていた思考が冷まされる。
「騎士も然程変わらないだろう。特に王都では」
思ったよりも寒かったのか、一度体を震わせるとすぐに窓を閉めた。
「そうかもな」
独り言に独り言で応える。飲み干した革袋を投げ返すと、中身のないそれは思うほど飛ばず、二人の間に落ちた。
明日早朝第五に向けて出発する、騎士はルッツと俺の二人だ、と呟く。こちらの目を見ず、闇の広がる外を見詰めながら。それから隊長は物憂げにうねる髪を掻き上げてベッドに転がった。すぐに寝息が聞こえた。
王都は王国にある都市の中で最も北に位置する。王都より北にあるのは森とその主たる魔王の城のみだ。百五十年前に魔王は封印されたが、魔王討伐という巨大事業はより以前から行われてきた。王都をこの場所に築いたのが一つ目の段階だとすると、魔王城に至る森を切り開き、五つの砦を設けたのは次の段階だった。
狼、大蛇、熊といった獰猛な獣が巨体化した魔獣たちは簡単に森を明け渡しはしなかった。人の屍だけが積み上がる日々。それでもこの地に人間の明るい未来が来ることを信じて、騎士も兵士も傭兵も戦った。
多大な犠牲を払い造られた馬車道。その道を勇者と封印の聖女、数百名の精鋭騎士が征った。
それも昔の話で森は往時の姿を取り戻しつつあった。昨年までは第三砦まで馬で進めたのが、今は第二砦ですら荒れ道に慣れた小型の馬でなければ行けない。魔獣との遭遇数、魔物の目撃数、戦闘での死傷者数。いずれも増え続けている。
王国各地での魔物の発生数と相まって、魔王封印の弱体化は真実味を帯びており、この森自体と終着点である魔王城を監視する砦の役割はより大きくなっている。砦に近づくことが容易でなくなったが故に、砦の重要性は増したということだ。
砦に常駐する人員は、王都を囲う城壁に設けられた四つの門——北、南、南西、南東——近くにある騎士駐屯地より選ばれる。王城のように召使いなど雇い入れることもできないため、下働きは奴隷を使っている。
また食糧などの物資の補給も荷運びに奴隷を使い、王都の騎士が行う。警備兵などの中途半端な人員を使うくらいならば、鍛えた騎士と、いざという時には使い捨てできる奴隷が最も効率的なのだ。
魔族を統べるものの監視のために、魔族奴隷を使う。皮肉か、矛盾か。意図の有無により、それは意味と行末を変える。
第四砦を出発して二刻ほどだろうか。魔王城に近づくほど深くなる森の中では陽の傾きなど分かるはずもなく、時間の経過は自らの感覚と夜になれば鳴き出す猛禽類頼みとなっている。
魔の森の番人といわれるアーベル隊長——今は騎士二人だから隊長もおかしな話だが——を先頭に、三人の奴隷と最後尾を守る俺が、黙々と歩く。魔獣を警戒し、注意すべき事物があればハンドサインで報せるから、油断なく周囲を見つつ、十歩ほど先を歩く奴隷の手元にも目を遣る。
この辺りは森というよりは山のようで、起伏も激しい。地面の隆起、倒木や巨大な岩、それによって新たにできた川など、前回通った道はすでになく、何度も第五砦まで足を運んでいるアーベルですら方向を見失いそうになるという。
はははっ、と薄暗い森に不釣り合いな朗らかな声が突然響いた。魔物よけの為に一切の声を出さずにここまで進んできた隊長にしては迂闊だと思った。が、階段状にある三つの巨大な岩を登りきれば、俺自身も笑い声を立てていた。
視線の先にあったのは、空だ。
そこは隆起して一帯より高くなった場所だった。地面は続いておらず、反転して道を変えるしかない。しかし陽射しの眩さに道を戻ることを躊躇ったのか、隊長は振り返らない。
「あぁ、いい眺めだ」
崖の端に立つアーベルは遠くを見遣る。その顔の先には第五砦の頭があり、定期連絡の煙が上がっていた。ゆっくりと近づく。
「第五砦にはたどり着けませんね」
「見えているのに、な・・・」
毒蛾の鱗粉を振りかけた短刀を素早く、脇腹から押し込んだ。鍛えた堅い肉は刃の受け入れを拒み、油断していても逆らう力に顔が緩む。しかし毒は直ぐに回る。切っ先に傷付けられた時点でもう終わりだ。
振り返り見開いた隊長の白目は血走り、髪と同じ色をした黒目の焦点が徐々に呆けていく。軽い咳に血が混じり、唇の端から垂れる。荷物の重さに耐えられなくなった足が震え出した。
刃すべてを、まるで誂えた鞘に納めるように身体に押し込み一歩下がる。アーベルが刺された脇腹を押さえるよりも早く、崖の方に背を蹴飛ばした。
木々の枝が折れる音の最後に一際重い音が空気を揺らす。耳に届く前に、戸惑う奴隷が駆け寄り、声を上げた。
「ルッツさま!」
「それは俺じゃぁないな」
詠唱は完了している。手の平から吹き出した炎で、奴隷の顔を掴む。肉の焼ける匂い、髪の燃える臭い。そこだけ薄くなった空気と煙を吸い込む。それは酒よりも余程、俺の内側を熱くする。炎は背負った荷物に移り、奴隷は火の玉になった。喜悦に顔が緩むのを押さえきれず、笑い声とともに崖下に蹴り落とす。先に落とした隊長と一緒に燃えてしまえ。
残りの奴隷は荷物を放りだして逃げだした。第四砦に逃げ込まれれば厄介だが、奴隷が証言したところで誰も信じまい。崖下に降りて死体を確認するべきかと荷を降ろしたところで、魔獣の甲高い声が聞こえた。警戒度の高い猿型の魔獣だ。一匹二匹ではない。
崖下から先ほどより大きく煙が上がる。奴隷が背負っていた酒に引火したのだろう。アーベルとそう違わぬ位置に落としたはずで、二人ともしばらくすれば丸焼けになる。免れたとしても、傷を負った者が魔獣跋扈するこの森から生きて出ることは叶わない。匂いに誘われた魔獣が意識ごと喰らってくれる。
「任務完了、だ」
これでようやく、復讐の舞台に立つことができる。腹の底から湧き出る笑いをかみ殺し、元来た道へ歩き出した。
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