<19> 目覚め

——君はさぁ、他のご令嬢が良かったんじゃないの?


出立式典後のパーティを抜け出して、王城の芝生に転がる。

純白の聖衣に草の汁や泥が付こうが構いやしない。雲が流れる動きを目で追う。

鳥の囀りと、風の静かな囁きが、争いなど無い遠い世界に連れて行ってくれる。

あまり人の来ない庭園奥の芝生、お気に入りの場所。ここで寝っ転がって空を見ると、悩みなんて無くなる気がした。

同じように抜け出したのか、いないのに気づいて探しに来てくれたのか。

彼は黙って、隣に転がった。


鳥が二羽、円を描くように飛ぶ。甲高い一声を上げて、視界から遠ざかっていく。

その後ろで、乗れるようなはっきりとした形の雲が、緩やかに形を変えていく。動きながら細く伸びていく尾びれは徐々に置いていかれる。

音もなく這う風は、髪の一筋も浮かせることはないが、少し湿った匂いを届けた。


しばらく二人で空を見上げて、先ほどの式典で私が父王に強請ったものについて尋ねた。

何も望まない。私は民の安寧を望む。

そう決められた科白を、違えたのだ。

声に混じるかもと思うほど、心臓が耳の奥で鳴っていたけれど、少し離れて転がる彼は気づかないようだった。



魔王城までの道中は、一般騎士、傭兵を含む王国軍が掃討戦を展開している。

森を切り開き、道を作り、魔物を斃し、監視と常駐のための砦を築く。何年も掛けて行われてきた事業だ。

魔王城とこの城を結ぶルートに五つの砦を築いていく計画の、すでに四つの砦が昨年までに完成している。五つ目の砦も周囲の掃討と合わせてほぼ完了。異常ともいえる上向きの士気が下がらないうち、一週間後に魔王討伐の本隊である勇者、聖女と三百名の精鋭騎士が王城を出立する。


当代王の嫡男、王太子であった兄が魔物の掃討戦の中、命を落としたのは先月のことだ。兄は現場の士気を上げるため、四つ目の砦に出かけた。最前線である五つ目ではないと油断していたのかもしれないが、剣と魔術の腕前も魔物との戦闘経験もあった兄が、あっさりと彼岸に渡った。

突然魔族が率いる魔物が森の奥から姿を現し、砦に向かって駆けていた王太子の馬を射貫いた。王太子は落馬の際に利き手を傷つけ、ろくに応戦もできぬまま魔族に命奪われた。

亡骸と共に帰城した騎士は伝え、父王は皆を下げた後で泣き崩れた。


数年前に病により子を望めなくなった父王にとって、もはや私が唯一の子だ。

レイグノース正統の後継者である私を戦場に送ることに異論も出たが、聖錫を扱える聖女は私しかいない。魔王を斃せるとすれば、聖剣の勇者である彼と私だけなのだ。

他の誰かが扱えたって、譲るものか。彼の背中を守る役目を。譲るものか。

そして、兄の敵を討ち、見事役目を果たして戻ってきたとき。

父王は報償を与えると約束した。



——私は、勇者との婚姻を望みます。



台本にない言葉を発した私を、父王は厳しい表情の上に剣呑な光を宿して見据えた。兄から王太子位を継いですぐ。何より魔族との戦いは正念場を迎え、今この時も最前線で命を張る兵たちがいる。

それでも。

戦いを終わらせるために彼も私も命を賭ける。平和な世界にふたりで立つ夢を抱くことをせめて。

許してはもらえないのだろうか。

私の発言に場が乱れたのは一瞬だった。それから何の位睨み合っていたのだろう。父王は表情を緩め、よかろう、と一言で済ませた。



迷いもあった。

次期女王である私との婚姻は、すなわち王配になるということ。その次代の王の父親になるということだ。

そんな重みを彼に背負わせたいのか。

報償として望むだなんて、そんな物のような扱いを彼にしていいのか。不安に思うくせに、離したくない。抗えないのが分かっていて、確認しているようで、命令している。卑怯者。



——貴女以外の何が必要でしょうか。

彼は、身を起こす。

私が身を起こして彼を見つめると、彼もこちらを見つめた。

出会った時から高かった背は、もう頭一つ半は高く。見上げると頸が痛いと言ってやってからずっと、膝を曲げ腰を落として目線を合わせてくれる。座っていても、少し遠くから。決して見下ろしたりしない。

まだ誰のものでもない王女に、望むことすら不敬である聖女に、触れることはできるはずなく。

また、こちらから触れることも、できるはずもなく。

けれど、身体的な触れあいがなくても。その目は雄弁に語る。

私の目も雄弁に語れよと思う。あぁ目でなく、口できちんと語っていたか。

彼が欲しいのだと。


旅から戻ったら。

魔王を斃した勇者と聖女として、皆に祝福されて。

二人はずっと幸せに暮らしましたとさ。

そんなエピローグを思いながら、彼の目に、私だけを見つめる新緑に、笑んだ。





——これが本当の魔族の力・・・

綺麗事の砂城崩折れるつわもの

稚児の弄花ろうかの如き屍うずたかく。



——この扉の向こうに・・・

泥濘ぬかるみが塞ぐ後背。

立つ者の業は道義を正さず。



——・・・・!

朗々たる読誦の反響。

落涙も許されぬり人形哀れ。



——・・・化物め・・

繰り糸を握る者のみの凱歌。

引き千切るえにし自らに結んで。



目の前を染める赤に朱く塗り潰される意識。

目の奥を染める黒に玄く埋め尽くされる精神こころ

夢も現もひとつ画に奪われ、生を恐れる哀れな骸。

切れた糸で自らを縛して。

やがて手に入れる永久とこしえの安寧。

誰に抱かれる事も無い一人横臥。

共に見た空に描く未来さきは昏く閉ざされたまま。







「・・・レ」

声が、出た。

あの日出せなかった声が。

けれど天井に向かい伸びた手は空白に阻まれる。

「ぁいたっ」

全身に籠もっていた力が抜けた。私のものではないみたいに、天から手が降ってきた。額に打つけた手の甲も、額もどちらも痛い。記憶の中よりも低い声に、私は少し戸惑う。

「どこだ?ここは」

塔の部屋ではない。ふかふかしたベッド、清潔な枕、暖かい掛け毛布。暗いのは天蓋付きだからか。

額を右手首で摩りながら呟き、違和感に動きが止まる。

隷属の腕輪がない。左手もだ。そのまま手を首にやる。魔封じの首輪もない。両足を上げる。軽い。思考低下と魔力吸収の足輪、重りの付いた枷も無い。

頭に掛かっていた靄は消え、体を覆う魔力は充実している。これなら、きっと。

ベッドから飛び降り、カーテンを開ける。眩しさに目を窄める。

「彼の処に」

「おや、お目覚めで」

だらりとソファに座った侍女姿の中年女性が姿勢も正さず、にたりと笑んでこちらを見た。

「噂通り元司教とデキてたんですね、え、ばばしばばっ」

「しばば?」

女性はずるずると白目を剥いて椅子から滑り落ちる。突然の出来事に目をしばたかせる。

「おーい。しばば?」

横にしゃがみ込んで突っついてみた。動かない。意識を失っている様だ。



「ですから。これこの通り、指示を頂いております。エタ様の、侍女として、お仕えするようにと、騎士団長閣下に」

「だから。殿下が不在につき許可はできない。何度言わせれば」

廊下、というか扉向こうが騒がしい。しばばさんは置いとこう。

「あのー」

薄く扉を開ける。護衛だが見張りだかの騎士と若い侍女が揉めていた。左右で三つ編みを団子状に纏めてある焦茶色の髪。瞳も同じく焦げ茶色。中年侍女と同じ、長袖白シャツに紺のベストとスカート、白の腰巻きエプロンという侍女姿だが、襟元の開き具合、スカートの丈、糊の利いたエプロンなどなど。侍女としての意識の高さだけでなく美意識が伺える。

ん?この侍女。

「エタ様!お目覚めでしたか。私、ギュンター閣下の命により」

「あ、それは後で聞くんで。あれ、退けてくれる?」

扉を大きく開き、騎士に見えるように指し示した。中年侍女はまだ動かなかった。



「何で突然倒れたんだろう」

恐々部屋に入ってきた騎士は中年侍女を抱えると、目も合わさずに出て行った。若い侍女は当然のように入って来て、扉を閉めるとこちらを向いた。

「エタ様、<隔絶>か<遮音>お願いできますか?」

「あー、はいはい。ん?」

腕をぐるりと回す。部屋全体に簡単な結界を張った。外部からの攻撃は弾き、内部の音は漏れない。

「エタ?・・・あー!」

毛足の長い臙脂色の絨毯に座り込む。記憶が混濁してた。今の自分は、ババァに育てられたエタだ。

魔王封印から百五十年。<王国>を興したレイグノースは滅び、アルムスターが治める。

魔族は往時の力を失い、奴隷として使い潰されている。シスター・ババァは自分エタマルベリである事を知りながら、力を封じ育てた。力と記憶が対応しているからだ。幼児おさなごが背負うには重すぎる運命、いや盲従による愚かな行動を、精神が成長するまで封じた。


「くっそ。ババァの癖に。愛情が重い」

「そりゃあ、本物の聖女様ですからねぇ」

「で。どうやって潜り込んでんの?ロナ」


座り込む自分に合わせてロナも諸膝を付き、深々頭を下げた。そのまま起き上がってこない。心配になり手を伸ばすと、ようやっと身を起こした。

「我々はずっとお待ちしておりました。グレイ様を信じ、貴女様のご帰還を祈り、ここまで。長かった」

ロナは涙ぐむ。その涙の如何ほどを信じられるだろう。

待望していた?この愚かしい娘を。

この力は人間を救う為に与えられたと信じ込んだ私が何程の魔族を屠ったか。築山は一晩二晩で語り尽くせぬほど。

或いは復讐の為に帰還を願っていたのだろうか。


ぎゅうっと目を瞑った。

柔らかな手が優しく髪を掬い、耳元でぱちんぱちんと鋏が鳴る。細い首筋に掛かる真っ白な髪が床に落ちても、真っ赤な液体は一滴も流れなかった。ふんわりした太陽の匂いが水気を吸い取る布からした。湿りを帯びれば古布の黴と汚れは鼻を突くが、そんなもの微塵もなかった。青いワンピースは古着だと言ったが、きっと大切な品物だ。

それから体に合わせた大きさの新しい下着。幾つか準備していたのか、シスターに訊いていたのだ。

この細やかな気遣いすら欺き利用する為というのなら、何をも信じられるものか。

決めた。いや、ずっと決めていた。

今度こそ思う通りに。真っ正直に行こう。彼に顔向けできるように。



目を開く。やや大袈裟に頭を振った。

「嫌だ嫌だ。猜疑心に取り憑かれれば一歩も先に進めない」

「疑う事を知らず利用されるよりはマシですよ。私とてエタ様の顔を見て話をするまでは、あの方さえ裏切って復讐を果たしてしまうかもと自分自身に脅えておりました」

「そんな素振りは無かった」

「貴女が素直で家族思いの普通の女の子だったから。あまりにも」

「普通、か」


ぱん、と両手で頬を挟んだ。

生まれた時から普通ではなかったマルベリは利用され尽くして生涯を終えた。ババァは知っていたから、きっと普通に育ててくれた。知識も技能も与えてくれたけれど、それよりも家族と愛情を与えてくれた。


立ち上がり両手を広げた。顔を天に向け、鼻から大きく息を吸い込む。

あの戦いで野に晒された数多の屍は土に還った。事切れる瞬間、鳥が食む瞬間、風に攫われる瞬間。一瞬一瞬は積み重なり、魂は新しい生を迎えまた死を迎え、循環する。

同じ一瞬は何処にもなく、刹那を遺そうと工夫を懲らそうが、真実とはほど遠い一面を掬うだけ。淑女の裏にある涙を繕う白粉が忘れられれば、切り取られた微笑だけが残る。大聖堂に掲げられた画のふたりがどれだけの罪を犯したかなど見えはしない。

しかし百五十年留め置かれた罪人もこうして再び地上に降りることを赦された。


大きく左右から、両手を体のうんと先で組む。間に、今は何処にあるかも分からない聖具の持ち手を想像する。頭の上、ずっと上。天に。一度だけ、振る。



しゃららん。



神様が与えた金属の音が響き渡る。

それは確かに存在する。手に取って揮えと、お前の望みを果たせと。

道は示された。

ロナは先ほどよりずっと長く、平伏した。





「あの後、どうなったんだっけ?」

ロナは手早くお茶の準備をすると自分もテーブルについた。薄らと覚えているのは、おっちゃんを助けたところまでだ。平凡な侍女を装った目前の魔族は、掻い摘まんで説明した。

聖女選定は他の候補者がいなくなったこともあり終了した。おっちゃんを刺した女はナイフで自ら付けた小傷から毒が廻り死亡、前後不覚に陥った女二人は選定妨害により王都から追放処分された。

カテナは、休暇を取った騎士団長が領地に連れ帰った。あの日から十日経過している。また手から溢れた。



「目覚められたのは彼方此方に報告されているでしょうから、そろそろ外がうるさくなりますね。パウラ様にご連絡をしますから、その後結界外して貰えますか」

「あ、うん。うん?」


ソファの上胡座をかいて両手でティーカップを持つ。正しい所作など無視していいだろう?だって今は修道院育ちの孤児エタなんだから。

過ちは過ちとして今を生きる。神様はそれを是とした。

それでいいんだ。マルベリとは違う、封印の聖女になるんだ。

その決意と共に。

魔法の使い方を、忘れた。


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