<34> 反乱

ぼうとする時間が増えた。

抗えど抗えど逃れようもないと頭より先に心と体が理解してしまった。


「よくない傾向だねぇ」

滲む涙を指先ですくい取り、丁寧に舐る。目元が乾く頃には正気を戻すだろうか。

まだまだ僕のすべてを教え込まなくてはいけないというのに、顔に触れるという近しい行為ですら意識を呼び覚ませなくなった。


広いベッドの上には彼女と僕のふたりだけだ。

王城から領地に連れてきた花嫁候補といえば領民も喜ぶだろうが、五年前からもう十回かそこら繰り返してきた花嫁選びの中身を知れば、頭のおかしな領主の治める土地などこぞって捨てるに違いない。


ここでは五大貴族ギュンター家当主というよりは領主として過ごす。

年に二度か多くても三度の帰還。領地にいる間に代理領主の統治を書類で確認し、気になることがあれば現地に赴く。

誤魔化しや搾取があればどうなるかは代理領主には説明してある。例え魔族奴隷の一人であっても不正に失われてはならない。

公正は僕自身のためでもあるのだけれど、代理領主は僕に対してある種の信頼を置いてくれている。もちろんギュンター家に起きた不幸、つまりは僕の身の上に幾ばくかの憐憫を抱いているのも理由の一つだろう。



「あ、ある、べると、さ、ま」

ようやくお姫様のお目覚めだ。

目蓋を開ける、つまり身体的には起きている風に見えたとて、それが本来の意味での目覚めにならない事など、精神に変調を来している者を観察するまでもなく誰しも経験したことがあるだろう。

体を起こしてもまだ頭が働かない状態が常よりも長く続く。それが今の彼女で、僕の手元から去っていった女性たちが起こす変調の第二段階だ。


「声がおかしいね。喉を痛めたかな?」

顎から頸筋を辿る指先に、彼女は僅かにも動くまいと体を硬らせた。

こちらに来てから一週間あまり。地下以外ではどのように振る舞っても傷付けはしないと幾度も説明しているが、心と身体が覚え込んでしまった恐怖からは解放されない。


伸ばす指を増やす。

五本と手の平で顎の下に少し力を入れれば。

彼女は顔を引き攣らせるどころか、期待を孕む恍惚とした輝きを見せた。

「僕は君を大切にするといっているだろう?回復薬を持ってくるよ。服を着ておいて、ね?」


背を向け、ベッドから降りる。

溜息はまた彼女を刺激するから飲み込んだ。

正直なところ期待外れだ。魔獣を相手取り戦える娘ならば、僕の欲求をすべて受け止めてくれるのではと。いや、期待した分、今までよりも苛烈になっていたのかもしれない。


何をしても耐えられると、彼女の前に連れてきた貴族のお嬢さんや村娘たちよりも手酷くなっていたとも考えられる。地下室での出来事は僕自身半分くらいしか覚えていない。


鬱屈した魂が流した血潮がどろり感情と混ざり合った溶岩、真っ赤に煮えたぎる体液が噴出したがって僕を駆り立てるあの部屋では、理性も知性も捨て去ってただの獣になる。ひとたび鮮血の臭いを嗅げば、憎しみを晴らすだけの獣に手加減などできるはずもない。


痛めつければ痛めつけるほど愛おしくもなる彼女を、地下室から出れば血も汚れもすべて洗い流し、素肌と髪に香油を擦り付け、二階のこの寝室でゆったりと休ませる。

眠るお姫様を眺めるとき、美しい娘を介抱したいがために暴虐を尽くしているではないかと疑念が苛むが、微かに震える両手を見詰めながら思考はまた次の責め苦に移っている。

それでも。彼女で上手くいかなければ次はいっそ。





通いのメイドがまだ来ない時間だからといって屋敷の中を裸で彷徨くのはまともな人間のやることではない。

例えば父母が生きていたら。兄が存命で本来継ぐべきだった家長と宰相位を継いでいたら。

僕はもう少しまともに生きていられただろうか。与えられた力に見合う真っ当な生を。


回復薬を保管してある書斎を出て、廊下を歩きながら考えていたアルベルトはひとり肩を竦めた。

「何のために?」

つい口をつく。

かつての氷の聖女、王国を守護してきた王妃パウラに匹敵する力、もはや今となっては凌駕さえする力を、どう使うことが正しいというのか。正解どころか僅かな糸口さえ手に入る前にこの力を以て悲劇は起こり。

「戻れない。その積もりもない」

誰が何のために与えたか。

何年も王城にいれば、特に内政のみならず外部からもたらされる情報を精査する職務のひとつである騎士団長職に就いて理解できないほどの節穴ではない。

「殺める力で護れるものか」

神様であろうと悪い冗談を聞く耳はない。




りりりん。玄関ベルが鳴る。

短く三度は非常時の合図。

そろそろ始まるかと思っていたが、こちらの状況も芳しくない中、煩わしい。

自室よりも玄関のが近い。着替えに戻るのも面倒だ。<幻影>の衣服を纏う。

重厚な玄関扉を開ければ、ギュンター代理領主の一人の木っ端貴族がいる。一杯引っ掛けてきたような赤ら顔にはち切れそうな腹、この日のために誂えたのか銀刺繍が襟と裾に入った赤銅色の真新しい服。

背後に武装した人間五十人ほどを連れている。

鎧姿の男たちはすでに剣を抜き、矢を番えている。後方で詠唱に集中する魔術師は魔法の種類を気取られないよう視線の通らない位置に立っている。素人の寄せ集めではなさそうだ。


帯剣もしていない主の平服姿を見止めた木っ端貴族は目を細め、両手を広げて愛想良く。

「美しいご令嬢を連れ帰りごゆるりと過ごされていたご様子。状況は飲み込めないでしょうが、なぁに、死体になってからご説明差し上げますよ」

「君、しばらく見ない間に太ったねぇ」

「先日ッお戻りの際にご挨拶に伺いましたがっ」

だからその時点から太っただろうと揶揄したのだが、血走った目と脳味噌には通じなかったようだ。


「さしもの騎士団長も丸腰ではこの人数を相手にできまい。我々の嘆きと怒りを思い知るがいい!さぁお前たち、無辜の人間すら魔族として奴隷に貶め使役する王国を打倒するために、まずは王国の守護者を血祭りに上げよっ」

半分裏返った声で命じるから、僕の方で応じて遣った。

指を鳴らす乾いた軽い音に合わせて木っ端貴族の両側に控えていた、兵たちの指揮階級の者から火柱が上がる。


「うぁあつぃつぁあああ」

炎に挟まれた代理領主は悲鳴を上げてこちらに蹌踉ける。半歩後ろにいた男たちが燃えたのだから逃げるのならば前だろうが、殺そうとしている相手の側に来てどうするのか。


「って、ひぃえええぇぇ」

泡を食って走り逃げる。

「茶番か喜劇か知らないけど、あんなのに従って世直しなどあり得なくない?」

「我らが真に従うはより尊いお方だっ。有力貴族だけで行う政を正し、奴隷を解放し、貧民を救う。

古き血と尊い血が交わり新しい世を創る。我らが主が新しい世界を創るのだっっ」

「なるほどねぇ」


怖気づかずに応えた兵に感心したように頷いたアルベルトの手には、魔力でできた鎖が握られていた。一つの輪が大人の人差し指と親指で作った輪と同じ大きさの鎖が、差し出すように開いた手の向きに従って、周囲をすり抜けて兵の元に伸びていくと、反抗を許さない速度で三重四重に縛り上げた。

手元の鎖を軽く引けば、縛られた男はアルベルトの背後まで吹っ飛んで石畳に叩きつけられた。銀髪を振り、ちらり視線を遣る。骨の何本かは折れているだろうが、息はある。


「お喋りな兵士を一人生かしておけば、証拠には十分って訳だ。君たちの主は彼が教えてくれるそうだから。後は」

詰まらなさげに鎖を後ろに投げ捨てると今度は、幾らか勢いの弱まった二本の火柱に向けて落ち着けとでもいうように指先を下に振った。

風に押されて炎の勢いが増す。距離を取っていた兵たちはさらに避ける。しかし予想に反して火は消え、立ったまま焼かれた二人の兵士は原型を留めぬ姿で崩れた。


「得物は、まぁ使えなくもないか」

騎士団長は焦げた臭いを撒き散らす遺骸に近づき、側に落ちていた剣を拾った。熱せられた持ち手を素手で掴むと、じゅうと小気味よく水蒸気が上がる。刀身に左手を這わせば赤く変化していた部分も鈍い銀色を取り戻した。


「ここからは魔法は使わない。身体強化は。悪いけど使わないと並以下なんだよねぇ、僕さぁ」

言いつつ、先ほど後退った者の一人に肉薄すると、頭と身体の接続部に剣を差し込み、すぐに引き抜く。

開いた喉笛から呻き声を漏らしながら兵はどさり倒れた。血が石畳の隙間に沿って遺言を書く。

「室内派だから。さ。掛かってきなよ。偶には身体を動かさないと」

言葉を遮って投げつけられた火球を一太刀で割る。分たれた炎は後ろで爆ぜた。


「鈍っちゃう」

振りかぶり得物を投げつける。

直線上にいる兵たち二人を貫いてまだ止まらない剣は、魔術師の額に剣の鍔を引っ掛けてやっと動かなくなった。


己を鼓舞する叫び声を上げて、三人ほどが襲いかかる。

丸腰相手に何を恐れることがあろうかと、部下の騎士ならば訓示の一つでも垂れるところだが職務外で余計な教示もないなと、相手の勢いを生かして顔面に蹴りをめり込ませつつ巡らせる。

アルベルトが一人に相対したのを見て、後の二人が剣を振った。

同時に掛かるのが有利なのは連携が取れている場合だけだ。意思の疎通も図れていないのに、誰かの動きに合わせて半拍ずれた攻撃を入れれば。

「避けられて互いを斬り合う羽目になる」

蹴りの反作用で素早くしゃがんだ騎士団長が避けた剣は、攻撃した二人の肩と頭にぶつかる。騎士団の模擬戦でもよくある状況だが、実戦は真剣だ。

二人は血飛沫を上げて縺れ倒れた。

仕事ではないのだから、指導する必要はないな、と職業病を自嘲する。


「あぁ、何かおかしいと思ったんだ」

次いで掛かってきた兵から奪った剣で三人ほどを斬り捨てたアルベルトは、右手で額を撫で、手の平に血が付いたのを見ると整えるように銀髪を掻き上げた。今度は左手で右腕を触る。やはり血がべっとりと付いていた。衣服には血の跡などないというのに。

討伐の際には危険を省みない見物客が現れる美麗の騎士団長は、一糸纏わぬ己を思い出し、ひとり笑い出した。


ひひひっあーはっはっは。

腹に手を当て、体を折りたたむ勢いで突然笑い出した敵を相手に好機と捉えるでもなく、むしろ慄いて兵たちは後退した。

まだ十人ほど倒されただけ、数的有利は明らかに兵たちにあったが、この男の前では魔獣討伐や他領との諍いに従軍した経験のある彼らとて烏合の衆と変わらぬという事実に気付かされてしまったからだ。


「あー可笑しい。コレが本当の丸腰」

なんてね。

目尻に溜まった涙を指先で拭うと、魔力で作った光の槍を、目に入った頭めがけて投げつけた。当たった部位を失った体は呻き声を上げることもできず、ただ二度ほど痙攣して動かなくなった。ちょうど小動物がそうするような動きを真似て。


何が起きたのか。

仲間の血が流れるさまに気を取られた兵たちは、それでも心得のある者らしく、すぐに視線というには開きすぎの目を戻した。剥いた目には非難が混じる。

魔法は使わぬといったではないか、舌の根も乾かぬうちに。

「ま、いいたいことは分かるよ。でもさぁ」

片手を上げる仕草に連動して、散開し、覚悟を決めて攻撃に移ろうとした残りの兵士から青い炎が雲一つない空に向けて一斉に上がる。

「殺し合いに、約束なんてない」

悲鳴すら許されずに兵たちはこの世から姿を消した。ただ立っていた場所に黒い跡だけが遺されていた。





「なぜ・・・いや・・・何が・・・」

魔力の鎖に動きを封じられた男は、転がったまま一部始終を見ていた。息をする毎に節々が痛み、咳と共に吐く血で顔が石畳に張り付く。手足と肋骨の幾らかは折れ、全身を熱による発汗が濡らす。鎖がなくとも動けはしなかったが、生きているだけマシと思えた。

騎士団長とはいえ魔術師一族出身のたかだか二十歳の若造に、熟練の兵士を含む五十名があっさりと斃された。

作戦会議は楽観的な空気が支配していたというのに。所詮は五大貴族家に与えられた名誉職とは言い過ぎだったが、事実の一端を表しているのだろうと安易に考えていた。

屋敷には護衛はおろか執事やメイドも常駐しておらず、たった一人殺めるだけ、連れ込んだと噂のご令嬢も始末したとしても、相手は二人の簡単な仕事のはずだった。

人数差の利点を生かすために前庭での襲撃を選んだ。屋敷に逃げ込まれれば火をつける手筈で、逃走防止に後方には別働隊三十人が魔道具の結界を張っている。

そうだ。異変に気付いて応援に来る時機はすでに逸している。別働隊はどうした?



「あ、やっと来た。この荷物もお願いするよ」

屋敷の裏手からやって来た男に、アルベルトは手を振った。魔力の鎖を解除し、自分の方を向いている兵を蹴り転がした。

「見覚えあるかな?」

縄と猿ぐつわを手に兵を見下ろしていたのは、最終の作戦会議にいた別働隊の指揮兵だった。鎧は身に付けておらず、皮の胸当てだけの軽装だ。この姿はまるで。

痛む身体を捻ってもう一度騎士団長の方に向こうとするが、兵の思考はそこで途切れた。薬を染み込ませた布が鼻と口を覆っていた。

「種明かしくらいさせてくれればいいのに。まぁいいや。明後日までに首尾を報告に来てよ」

「御意に」

借り物の影だがよく働く。

ギュンター侯爵家の影はあの事件でアルベルトを敵と見做し、幾度も暗殺を仕掛けてきた。もう殆ど残っていないはずだ。

また御礼の品を贈っとかないとな。

アルベルトはカロッサ大司教とディストロ当主の顔を思い浮かべた。

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