<33> 神弄り

魔力が魔法に変換される光に、思わず目を閉じた。

防壁を周囲に張るべきだったが、手を掴む男とエタとの距離はゼロに近く、反応するには突然すぎた。

荒れ狂う嵐に剥ぎ取られる木の葉のように廊下を舞う自分と大司教が脳裏に浮かぶ。壁にぶつかり床に打ち付けられて転がれば、無事に済むまい。


だが、衝撃の代わりに金属的な甲高い音が鳴った。

異変に目を開けて見上げた鳶色の瞳は、やはり静かな怒りを湛えたまま、捻り上げた手を更に高く上げると乱暴に振りほどいた。

二三歩後ろに蹌踉けたエタは右手を押さえて呻く。何が起きたか分からなかった。


炎魔法、少なくとも一抱えはある火球が発現し、ふたりを吹き飛ばす或いは相手を焼き尽くしたとしてもおかしくなかった。

それが。

何も起きなかった。

想像が現実となって欲しかったわけではない。しかし何故・・・



「神の力は、神を信じぬ者には無力だと知らなかったのか?」

エタの魔法が消えようとも、大聖堂最高位の衣を纏う男から殺意は消えていなかった。地を這うような声で、答えを、魔法が消えた理由を云い、静かな足取りでエタに近づく。

歩は音を立てず、ゆっくりと石造りの床を踏み、一歩が刃そのものとして新聖女である少女に突きつけられる。


あり得ない。

神様が創った世界で、神様を信じないなど。

否定する者はいる。

目に見えぬ存在を、人の手の届かぬ御力を、否定し、信じる者を愚者と嘲弄する者はいる。しかしそれは、存在の懐疑は、僅かにでも認めている証左だ。

完全に否定することなど、人の身であり得べきことではない。


「来るな・・・」

二歩目を、エタに届く歩みを刻む足が上がる。

男の足が刻むのは、エタの身体、力、あるいは命。

震え、逃げもできず、目は男の足元に注がれたまま。

封印の聖女として生まれ落ちてから誰の刃も通さなかった守護は、この男の前では一切無力となり、細い頸に両手を、いや片手で十分なか弱さの。



——お前は、己の名を呼んだこともない、ただの一度も、呼ぶこともなく

伸ばされた手が白い頸を掴み、体を持ち上げた。

歪んでいる。男の顔も私の顔も。

なぜ、縊り殺そうと女を掴む者がそのような顔を。

憎しみだけに満ちているのが相応というのに。



頭を過った像が重なる。

魔力を吸い取られ、魔法を封じられた女は誰からも身を守る術を持たなかった。

途切れていた守護。

私は、塔で。

身を守る術を何も持たずに。

愕然と、重ねる。

男の目、男の殺意、男の伸ばされた手。

エタの逃れようとした足は縺れ、背中から。

石床に頭を砕かれようと無防備に。

速度を上げて倒れ。


背後から、受け止められた。



「怯え、恐れるがよい。力の及ばぬことを。そも天命だと何をも従え何をも制することを赴くまま為せるとは傲慢なこと極まれり」

騎士に支えられたまま小刻みに震える少女に憤りを打つけ、王国の聖職者の頂点である大司教ジークハルト・カロッサは踵を返した。


「猊下」

立ち去るカロッサ大司教に頭を下げ近づいた男の声に、エタは聞き覚えがあった。

「後ほど連れて参れ。聖女教育は聖女付司教筆頭たるお主の役目だ。ギレスよ」

「ご意向承りました」

視線の先には、聖女選定の儀で同席したかつて司祭だった男がいた。



・・・・・・・・・・・・・・・



あねさん、お帰りなさーい」


刈り揃えられた芝生の上に降り立って羽を仕舞ったロナに、満面の笑みを浮かべた灰色髪の女性が駆け寄った。

離宮の一階から繋がった煉瓦のテラスにはテーブルが出され、主である王妃パウラが寛いだ姿勢で朝のお茶を楽しんでいる。

同じテーブルに座り、パウラに話しかけられる度に真っ赤に頬を染めてしどろもどろに受け答えするのは王宮から逃げてきたドーリス・メルト子爵令嬢だ。


「侍女仲間を迎えるのに主の側を離れてどうするの。あなた、真面目にやる気あります?」

「大丈夫ですよ。ドーリス様の侍女たちもいるし、ラーラはパウラ様から離れないですし」

「・・・彼女は少し離しましょうか」

王妃から二三歩という近い距離からうっとり眺める赤茶髪の侍女を認め、ロナはげんなりした。


「それより、どうでした?」

ぱつぱつの侍女服を着た女性は焦げ茶の瞳を爛々と輝かせて、ロナを見た。

ミアというこの平民はロナよりも背が高く、見下ろす格好になるのだが、こちらで匿ってからというもの、姐さん姐さんと古くからの馴染みのように慕ってくるからまるで嫌な感じがしない。

平民街と貧民街の境目あたりの食堂で働いていたそうで、行儀作法はともかく、配膳や片付けの他に調理の手伝いもできて助かる存在だ。


「エタ様は・・・」

「いえ小娘はいいんですよ。どっちにしても、どうしようもない訳でしょう?じゃなくてぇ、ほらっ」

ミアの焦げ茶に、ボリスの茶を思い出したロナは意識せずとも口角が上がってしまった。慌てて取り繕うとするが、目の前のミアが見逃してくれるはずもなく。


「あーー!もうイチャついてきたみたいですよーー!パウラ様ぁーー」

離宮中に鳴り響くような声で振り返ってみなに報告する。

年頃のお嬢さんである子爵令嬢は我が事のように嬉しそうな顔をするし、こちらに来てから険が取れた子爵令嬢の侍女たちまで微笑ましいものを見る顔をするから、ロナは居たたまれなくなった。

そんな中、主であるパウラだけが静かにティーカップを傾ける。

ロナは苦笑が漏れるのを我慢すると歩み寄り、主のすぐ側で腰を折った。


「パウラ様。わたくしロアンナは、ボリスの求婚に応じて参りました。正式な婚姻の儀式などは『世界をあるべき姿に正してから』尊い聖職者により執り行っていただけるとエタ様は仰いました」

頭を上げてもパウラは何も云わない。そっと目を閉じると俯きがちに溜息をひとつ溢した。

主らしくない反応に、ロナが心の中で首をかしげたとき、パウラは身体ごとロナに向き直り、両手を取った。

「おめでとう、ロナ。・・・プレゼントよ」

「ひぃやぁぁああああ。つめ、つめたい、冷たいぃ」

主の魔力が他人の背筋を這い回って嫌がらせする様は幾度も——とんでもないことだが幾度も——見たことがあったが、経験するのは初めてだった。

つい昨日魔力の作用についての説明のためとはいえ、エタに対して同じ事を遣った自分を責めている間に、主の悪戯は終わった。


「私だけが残されていくのよ。あぁ可哀想なわたくし」

脱力して空いている椅子に座ったロナに、さらりと銀色の髪を掻き上げたパウラはその手を片頬に当て品を作る。

立場上どうにもならない主の恋心に胸を痛めてきたロナとしては、そちらが片付くまでは自分のことなど捨て置いてしまおうと考えていた。

想いが瞳に宿らぬように氷を演じ続けた主と、公の立場に私心を持ち込まなかった主の想い人を、すぐ側で長年見てきた身としては。

だから、返事は保留にして、素っ気ない態度を取って。


仲間内で結ばれた姉ラーテルナと義兄さんの、周囲に対する心配りは今でもロナにとって、恐らくパウラにとっても、憧れであり、恋愛観の礎となっている。

愛し合っているからこそ、他者の前ではそれまで以上に素っ気なく、しかしさり気なく気遣っている絶妙な距離感。意見をぶつけ、時には殴り合い寸前まで——大柄の義兄の胸ぐらを背伸びして掴む姉の姿は格好良かった——やり合えど、方向性が決まれば動きはリンクする。

ボリスと私もあんな風に・・・

って、ペルル様とパウラ様のことを考えていたはずがどうしてまた。


瞬きする度にボリスの熱を持った茶色の瞳がちらついて、ロナはまた緩みそうになる口元を片手で覆い、主の視線に気付かぬ振りをしようと顔を背けた。

「私、ロナの幸せな姿を見られてとっても幸せよ。でもあんまり目の前でにまにまされるとねぇ。嫉妬しちゃう。あの人が迎えに来てくれるの待っていたら、私おばあちゃんになっちゃうでしょう?」

「いえパウラ様。施療院といえば若くて真面目な修道女が多いと聞きますから、朴念仁も絆されているでしょう。諦めるというのもよい選択肢です」

空いたティーカップに茶を注ぎながら、赤茶髪の侍女ラーラは真顔で言い切った。


ラーラとミアは聖女選定の途中でエタに対して暴力行為を行い、反撃を受けて自我を失いかけた。二人の精神を救ったのは、ペルル元聖女付司教筆頭だ。

ペルル自身もエタを庇って大怪我を負った身でありながら、北部施療院への移送前に二人の治療を施した。ベッドに横たわったまま二人を治したあと意識を失い、そのまま移送されたためパウラとは最後の挨拶も交わせなかった。

しかし何も云われずとも、ペルルが救った者を危険に晒すわけにはいかない。

放っておけば王都追放処分、罪人としての追放処分ならば奴隷落ちまでセットと考えていい。

騎士団の動きから自身の、離宮へ幽閉される流れを読んだパウラは、先んじて二人を離宮へ匿っておいたのだ。



「ラーラ。パウラ様が呪詛の道に堕ちたらどうしてくれるの?」

「ロナ様はパウラ様のことを私に任せてさっさとお嫁に行ってくださいな」

ロナがじっとりとした視線を遣ると、顎を上げて正面から受け、言い放った。

ロナはパウラの侍女ではあるが、侍女というだけではない。

護衛であり工作員であるロナの代わりを、魔力も体術も一般人であるラーラができるはずがない。

先ほども空を飛んで戻ってきたのだ。

それを見た上でこの宣い様。崇拝するパウラにすら遠慮も追従もない。

パウラとロナが主従で頭を抱えると同時に好感を抱いたところだ。



「十数年も側で仕えながら主の心情を察しない男など、価値はありません」

「頑なねぇ」

想い人への悪口であるが、自身も感じたことがあるのか、パウラが他人事のように応じた。

「私はパウラ様の幸せなご尊顔をお側で拝見し続けたいだけですので、あのような男など認められません」


「あんた、思ったよりもイイ男だったっていってたじゃんか」

ミアも参戦して混ぜっ返す。黄色いご令嬢ドーリスとその侍女たちも含めて、全員の視線がラーラに集まった。

「まさか、それで」

「いえ、回復していただいたときに傷が消えた本来のペルル様の顔が・・・とても優しく微笑まれて・・・男の方ですのに、慈愛に溢れて・・・いえ、違うんです!」

必死に言い訳するラーラは、焦るほどに頬が上気していく。

あぁこれ昨晩見た。

ロナは頬杖で仰いで、また主が拗ねるな、とやはり他人事のように思った。

「こうやって天然に誑し込んでいくんだわ。私なんて、私なんて・・・」

知らん顔のロナの横でパウラが震える。

八つの時から片想いなのよ、とは、さすがに口には出さなかった。



ドーリスの侍女の一人が耐えかねて吹き出し、みなで笑う。

テラスのテーブルで気持ちの良い朝の陽射しに当たっていると、王宮から出られなかったのが嘘のようだ。

ふと、隣のベランダから聞こえなくなった主従の笑い声を思い出し、ドーリスは自分だけがこの場に逃げてこられた幸運を感謝するとともに、同じ形で王宮に呼ばれた二人のご令嬢、カーラ・フリック伯爵令嬢とアンゲラ・バルフェット公爵令嬢に心の中で謝った。

あの方たちともこうして。笑い合えれば、いいな。



・・・・・・・・・・・・・・・



昏い。昏いの。

灯をつけて。

私の侍女はどこ?

あの子。小さな子供の頃から側にいたあの子。

いつも私のことを考えて。

いつも私の味方をしてくれて。

お母様から叱られた時も、お兄様のお友達から意地悪された時も、社交で呼ばれたお屋敷の部屋に閉じ込められた時も。

あの子の方が年下なのに、いつも抱きしめて頭を撫でてくれるの。

ねえ。あの子は、あの子は。



『カーラさまに幸せになっていただきたいと、私の願いはただそれだけです』

一枚の便箋、一行の手紙。

宛名も封蝋もない手紙を別の侍女が持ってきて。

あの子は。


『お前が殿下に色目を遣っていると皆がいう。噂にでもなれば、ふしだらな侍女を持ったとあの二人に笑い者にされるわ。それとも、私を踏み台にのし上がろうとでも思っているの?』

言い訳など許さなかった。

『お前などもう要らない。何処へでも行ってお仕舞い』

幼い頃からフリック伯爵家に、私に仕え、親はすでにないあの子には帰る家などない。


私のそばに居てと、私が願ったから。

帰る家がないのは私の所為なのに。

私が要らないと言えば、行くところなど、ない。

だから。

生きていくところを無くしたから。

だから。

あれほど祈っていた神様に逆らってでも、私の命令に従って。

あの子は、いなくなって。



侍女の一人が嘘だったと白状した。

私の信頼を一人で受けるあの子が妬ましくて。

皆で口裏を合わせ、あの子を悪者に仕立てて。

私から、奪った。


そう。

じゃぁ、お前たちなどもっと要らない。

でも頸にするだけでは、ダメ。

あの子が感じた絶望を味わわせてから。

一人ずつ。

一人ずつ。

苦しめて、苦しめて。



侍女たちは入れ替わったけれど、あの子はやっぱりいない。

あぁ、新しく入った侍女、殿下に色目を使って。

あぁ、殿下に招かれたあの令嬢は、笑み方がいやらしい。

殿下はお側においてくださると云ったから。

邪魔する者を排除しても差し支えないでしょう。

大切な品、大切な人、傷つけて追い遣りましょう。

だって、あの子はこう残したのよ。


『カーラ様に国母になっていただきたいと、私の願いはただそれだけです』

殿下に抱かれ、殿下のお子を授かるまで。

私は誰が相手でも負けて遣らない。

封印の聖女の血を引く新しい聖女が相手でも。



だって、あの子がそう残したの。

ねぇ、昏いし、痛い。

誰か灯りを頂戴。傷を癒して。

無理ならば。

あの子の処に。

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