<32> 冒涜の代償

薄いカーテンの向こうでは緞帳が下ろされていた夜が白々とした光に舞台を明け渡そうとしていた。眠ってしまったネッケを気遣い、照明を落とした室内からは外の変化がよく分かった。

月明かりも星明かりもない闇夜のお陰で微かな光を見つけられたのだから、空に重く垂れ込めた雲は自らの存在を誇示することはなくとも破滅を避ける立役者だったといっていいだろう。

その雲は押し流され、遠く去ってしまった。名残もなく。


窓辺に近づき、ガラスにそっとひっつけた手の平を動かす。

吹き込む風は薄布を白髪を踊らせ、冷やとした中にどこかで目を覚ましたばかりの春の樹木の、生命を愛おしむ芳香を混ぜて送り届ける。

ほんの半刻テーブルに突っ伏して眠っただけというのに、吸い込んだ朝そのものの空気に頭の芯が覚醒するのを感じた。


そう、覚醒だ。

エタは確かに感じた。

夜を恐れ眠りを恐れたマルベリと同じく、目を閉じただけで脳裏に浮かぶ彼の最期に怯え、穏やかな心で眠ることなど諦めていた。

眠れなければ、起きることなど叶わない。

もう一度朝を吸い込む。

胸の奥まで青空の予感を一杯に、昨日という日を生きた悦びを、今日という日を生きる喜びを、はっきりとした心が感じ取る。


感謝を。

神様に。大切な仲間たちに。人が人を想う心に。

注がれる愛に見合う自分になれますようにと、届く祈りと共に祈る。

顔を上げ、朝陽に聖詞を捧げる。



そして、唐突に。

天啓の意味を悟った。



・・・・・・・・・・・・・・・



別れの抱擁はエタを気遣ってか短いものだった。

自分の思いを確信したエタにはもう刺激というほどの効果もなかったが、人前ですることでもないですし、とロナは久し振りに会った仲間にする程度の軽さでボリスと離れた。

むしろエタと別れ難いように、すっかり陽が昇った空を背にベランダから飛び立たずにじっとこちらを見た。


「ぜんぶ思い出して、聖錫を手にして、世界をあるべき姿に正す。簡単なオシゴトだろう?」

ロナとボリスの抱擁以上の軽さを装った。王妃の侍女も同じ軽さで応じる。

「そうですね。きっとすぐに、ぜんぶ片付きますよ」

「そしたらさ。盛大に結婚式でもするといいよ。なんせ有り難い聖職者が近くにいるからね」

「楽しみにしています。では」


微笑みを残したロナは背中から純白の翼を出した。

ベランダの手摺りに立って柔らかな白鳥の翼を二三度羽ばたかせると、軽く蹴って躍り出た。広げた羽に風を受けて空を滑る。向かい風に乗り上昇すると方向を変え、見えなくなった。

小さな羽毛が一枚ふわり風に遊ぶ。

掴まえてボリスに渡せば、愛おしそうに唇に当ててから、優しく吹き飛ばした。魔力でできた羽は光の綿毛となり散り散りにしばし漂ったあと消えた。

ロナの飛び去った空を、ふたり見上げた。






「さぁて、何から手を付けよう・・・まずは」

「どうせ朝ご飯っていうんだろ?」

「正解。さすが我が弟」


部屋に戻るとお腹が空いた。ボリスが備え付けの簡易キッチンに引っ込むのを何気なく見送ると、エタはソファに置いてあったシスターの聖衣を手にした。

余りにも目立つため、隠蔽を五重にも掛けてある純白の衣にもう一度隠蔽を掛ける。纏う魔力が強すぎて姿を消すことはできないから気休めではあるが、そもそも盗もうとしても魔力の弱い者には触れられない代物だ。

広げてみると聖衣の白さが目に痛い。顔を背けて瞬かせた視線がちょうど扉側のネッケと合い、いたずら心がムクムクもたげた。


「コーン、コーン。これ、触ってみ?」

コンラート・ネッケは魔の森で大蛇に飲み込まれながら生還したという。助け出した騎士の判断と処置が早かったのだろうが、胃液に浸かって五体満足とはなかなかの身体強化。意外と魔力は強いようだ。

「こちらの・・・これは、このような」

ソファに雑に掛けた聖衣に、ネッケは言葉にならない表情でこちらを振り返った。頷くと、音楽の拍子でも取るように手を何度か出し窄めしつつ、やがて観念したのか柔らかく聖衣に押しつけた。すぐに離し、見下ろすことはできないと跪く。

弾き飛ばされても良いように背後に魔力の網を張っていたが杞憂だった。


「暖かい魔力、いや力そのもの・・・」

騎士は誰ともなく呟き、祈る。

それは聖衣が持つ本質であり、ババァがエタに寄越した理由ともいえる。騎士として加護を授けたとはいえ、ネッケは敬虔ゆえ気づいた。

祈りの姿から戻り、尊いものに触れさせて貰ったと感謝と興奮を混ぜた目で仰ぎ見るネッケを直視できず、エタは目を逸らした。


「吹っ飛ぶか痺れるか予想してた碌でもない主だから、そんな目で見てあげないで、ネッケ」

キッチンで手早く朝食を準備して戻ってきたボリスがテーブルを整えながら横目でいう。


「もちろん、楽しそうな顔をされていたのは分かりました。しかし、あれほどの」

まだ興奮気味に、僅かに震える手をボリスに示す。

「ただの人間である私が触れてもよいものでしょうか?」

「いや、僕も魔族混じりってだけでただの人間だけどなぁ、エタはともかく」

「いや、自分もちょっと魔力が多いだけの・・・」

それは無理。

それは無理がありますよ。


二人に真顔で返されたエタは肩を竦めた。

ただの人間が良かったんだけどな。



三人で食前の祈りをし——エタは迷った挙げ句に正方向の祈りを捧げた——燻製肉と野菜の入ったスープをいただく。

「そういえば昨夜、鳥の鳴き声が突然響きましたよね?思わず平伏してしまったのですが」

ネッケがエタとボリスに尋ねた。

「エタのドタバタの時のこと?アレは僕も聞き取れないんだけど、神様のことば」

「神聖語・・・ではないですよね?」

下級貴族というのにネッケの神聖語の発音はなかなかのものだった。


「神様の御意志を受け取ることのできる聖者と、それに類する者にだけ理解できるんだって。僕も教えてもらったけどどうやっても聞き取れない。一応、古神聖語って名前は付いている、らしい」

天啓に関しては仲間とはいえ話せない。エタは素知らぬ顔をしてスープを掬った。

ちらりとエタの方を伺ったネッケに、ボリスは首を振り、ネッケもそれ以上は問わなかった。


妙な話題を振ったと気にしたのか、ネッケが再びボリスに話しかけた。

「リィズさんってその美しさで男性なんですよねぇ」

「それって僕に気があるの?やっぱり騎士団に返そうか?」

「勘弁してください・・・」

再び振った話題もやはり妙で、三人は笑いあった。





食事の片付けを済ましたエタはネッケを連れて部屋から出た。和やかに馴染んでいる騎士団からの逃亡者ネッケには魔導具のマントを羽織らせてある。

目的は簡単にいえば散歩だ。王宮内を歩き、気になるところを探る。

昨日赤いご令嬢と中庭まで歩いたとき、百五十年前と変わらない造りの王宮に疑問を感じた。老朽化や主の入れ替わりで、建て増しや立て替えがあって然るべきなのに。

では、建て替えないのではなく、建て替えられないとしたら?

もしやとの思いは、ロナとの会話でほぼ確信した。


王城は大規模な呪術の施された魔導具だ。

通路にいかなる攻撃も通じないのは、強固な防壁を展開していると同時に魔力を吸収しているからだ。

通路は闇雲に張り巡らしてあるのではなく、文様を描いているはずだ。

カテナと歩いた、大聖堂前広場の銅像まで緩やかに曲がる小道。

小道を伸ばせば円を描く。

地下にも同じ円を描き、王宮も大聖堂もすっぽりと内に含む円環を礎として、通路と部屋の配置か道具かによって魔方陣を形作っている。

何らかの魔法のための巨大な装置として王城は存在している。二百年前に魔族が建てたその時から。

初代レイグノース王の最側近であったという魔族。

荒くれ者たちにひとつの国を造って遣った高位魔族は、何処から来て何処へ去ったのか。

いや、むしろ問題は。



「早くどうにかしてっ」

魔力の残滓を探りながら、考えを纏めていたエタの耳に女性の悲鳴が届いた。

下階からだ。階段を駆け降りる。

踊り場から廊下を見遣れば、侍女と侍従と騎士とが入り乱れている。


きひひひぃ。うふっふはぁあはぁはははっ。ぎぃいい。

きゃははははっ。たはぁああああぁあ。


ひび割れた声、摩耗した呻き、破裂した叫び。

乱雑に掻き鳴らして気に入らず投げ捨てられた楽器のように、壊れた音が鳴る。

真ん中にいる深緋色のドレスの女性は髪を振り乱し、血を飛ばして暴れる。体のそこら中で局在化した魔力が暴走し、自らや周囲を傷つけながら。

騎士に組み伏せられて泡と血と奇声を漏らす侍女の横で、羽交い締めを振りほどこうと侍従に噛みついた別の侍女が殴り飛ばされて廊下を転がる。

今度は短く悲鳴が上がった。


なんだこれは。

王宮の光景ではない。

しかしエタが衝撃を受けたのは光景そのものではなく。

「回復させた・・・はず・・・」

昨日の騒動の中心人物である赤いドレスのご令嬢と取り巻きの侍女たちは、エタが傷を癒したはずだった。


「暴れる者は気絶させろ。少々殴りつけてもいいが顔以外にしろ、できる限り傷つけるな」

「待って!」

廊下を走る。ドレスの裾が纏わり付いて焦るほどには近づかず、叫びも毛ほどの役には立たない。

何人か、騎士と侍従がちらとこちらを見るが、すぐに後ろから、あれを気にする必要はないと男の声が轟く。張りのある重低音もまた王宮には似つかわしくなく、聖堂で大勢を前に聖詞を詠めば、みな聞き惚れるに違いなかった。



悲鳴や叫びはやがて聞こえなくなった。騒ぎの真ん中にいた者たちはみなぐったりと意識を失うか、猿ぐつわを噛ませられるかしていた。

騎士たちは荷物を扱う粗雑さで令嬢たちを連れて行く。肩に担がれて苦しそうに呻けば、傍らの騎士が剣の柄で足を打った。

見送る侍女はあからさまな侮蔑の表情を浮かべた。そこには仕えていた主や同僚への憐憫すらなく、彼女たちを隔てたものが何であったか、冷えた顔だけが並んでいた。


「どうして・・・」

何もかも。

やっと駆け寄ったエタの呟きに振り返らず騎士と侍従は去り、侍女たちは密めきと睨みを残して立ち去った。

一方でこちらに向かい廊下を進んできた者がいる。

「何か言いたそうですな、少しだけなら聞いて差し上げましょう」

先ほどの低音の主が、すぐ側までは寄らずに立ち止まり云う。

青みのある金髪に鳶色の瞳のその男は、襟に金糸を刺繍した聖衣を自身の威厳とともに纏う。立ち居振る舞い、出立ちから王国の最高位聖職者と見て取れた。


「大司教・・・」

「尊称は要らないと。さすが新聖女ですな」

「・・・猊下。ご令嬢たちは回復させたはずなんだ」

エタの絞り出した言葉を大司教は一蹴した。


「回復ですと?あの者の真似でもできると思いましたかな?嗤わせる。貴女様の御力は壊すためにあるのでしょう。或いは奪うための力。此岸から彼岸への一方通行、誰かを救うためではなくただ送り遣るための、排除し、駆逐し、奪い取り、捨て去る、忌むべき力。生まれ落ちたときから今までもこれからも貴女様が誰かを導くとすれば、天上ではなく、果てしない深淵、骸たちが支配する暗黒の世界、誰しもが厭悪する、嘆きの世界なのですよ」

「なにを・・・」

「学のない孤児には難しい話でしたな。何、簡単なこと。神の魔力、聖なる光は不浄を祓い清める。悪行に染められた魂を清めることとは即ち、それを削り取るということ。

あの伯爵家の娘は邪魔になりそうな侍女や令嬢を様々な手管で追い込み、幾人も彼岸へ追い遣ってきた者。黒々と染まる魂を神の力で削られることは精神を奪い取ることと同意。単純な回復など出来ようはずがありませんな」


静かな怒りを湛えた鳶色がエタを見据える。

ふたりの間には十歩近い距離があるというのに、その存在感と威厳はまだ十五の小娘であるエタをその場に縛り付けるのに十分だった。

封印の聖女マルベリを思い出したとて自身の経験としてすべてを許容するには凄惨すぎ、過去は過去として切り離したエタは、人生経験という点でいえば、修道院で護られて育ったある種の箱入り娘といっても良かった。その点では真逆と云っていい境遇ではあってもマルベリと共通していた。


「だけど。いや、じゃぁもう一度!」

「選定により正式に聖女となる貴女様に対しての敵対行為はいうなれば冒涜。神に仕える身である貴女様が神を蔑ろにする輩に甘い顔をするのを大聖堂としては看過する訳にいきませんな」

乾く喉を叱咤して叫ぶように出したエタの言葉に返す聖職者の重く低い声は、正論という鎧に覆われた分厚い氷だった。


だけど。

もう一度出た口の中の呟きは自分自身にも聞こえなかった。原因がご令嬢たちにあったとしてもあのような、悲惨といって差し支えない身にしてしまったのはエタだった。

何か。

側で手を取れば手立てを思いつくかもしれない。溢れるほどある魔力が作用して快方に向かうかもしれない。ひび割れや欠けを埋める何かを・・・


考え込み、右手に魔力が集中してしまっていた。放ってしまえば、不遜なこの男など跡形も残らぬほどの魔力が。噛み締めた奥歯を緩め、深呼吸して遣り過ごそうと、眼を瞑り息を吸った瞬間。

ぎらりとした殺意に呑み損ねた息が詰まった。

数歩で距離を詰め、すぐ目の前に来た男が、その右手を掴み、捻り上げた。

驚きと痛みと、殺意に対する反射で。

魔法が放たれる。

至近距離。

目の前の、鳶色の瞳に向かって。

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