<10> 魔族の血

気付いて。そう考えるのは虫が良すぎる。

魔導具の設置から、魔方陣を完成へ導く魔力の線画。

予定通りの行動を取った後すぐに処断——命失うこと——されることを覚悟していたはずだ。

まさかあれほどの力を持つ方が現れるとは。

皆が知っていれば、このような計画など実行しなかっただろう。いや、逆にあの方を手に入れる為により一層無茶な計画を練ったかもしれない。


まだ、幼い。

貧しくとも、大切に護られ育てられた方。

自身の御力すら理解しておられない方に、一体何をさせようというのか。

ペルル司教猊下とて、あの方の意に沿わぬことを強制しないという保証はない。むしろ利用する為に連れてきたと考えるのが自然だ。


すぐ側を騎士たちに囲まれて通り過ぎる貴い方は、魔術の掛かったベール姿の修道女が私だと気付くことはない。先ほどすれ違ったペルル司教など、最初から期待していなかったが。


振り返る。

去って行く背に、祈りを。

もはや今生の邂逅が望めなくとも、聖女様が思うままの人生を送られることを祈ろう。

ベール越しの視界がさらに霞んだのは悔悟なんかじゃない。





「いやぁ足労だったね。そちらに座って貰えるかな?」

外部からの侵入者などを捕らえる牢ではなく、騎士団本部の地下にある個室に連れて来られた。

ベッドと簡単な応接セット、薄いカーテンの向こうに水回りという、扉からすべて見渡せる部屋だ。

聖女候補であるという重要さを鑑み、貴人向けの部屋で騎士団長自らが取り調べを行う、と騎士には説明されたが、ここは尋問と処刑を流れで行うための部屋だろう。

床や壁は加工された石造。壁際が一段下がっているのも分かりやすい。

ベッドだけでなく応接セットのソファにもシーツが掛けられているのも後始末のためだ。

宿舎からここまで案内というか護送してきた騎士はすでに姿を消していた。

扉に鍵が掛けられた音はしなかったが、背を向けた途端に自分を貫く魔法の矢の想像が頭から離れない。

ん、と再度手の平でソファを指し示す銀髪の男が殊更愉快げなのが腹立たしいが、大人しく従う。


「外して、顔を見せて貰えるかい」

ベールを外し、はっきりとその顔を見ても、印象は変わらない。

上機嫌なのだ。この、許可もなく人の頬を撫でた騎士団長という男は。

王城を取り囲むように魔方陣を張った、その最後を担った者を目の前にして、守護者である彼は歌い出しそうなほど嬉しそうなのだ。

その魔法陣が何の役目を果たすのかは教えられていないが、中にいる者——恐らく王族——を脅かすに違いない。

それなのに何故。


ニヤニヤと形容するしかない程緩んだ表情が此方を見詰める。

かしゃん。

その面容に、頭の片隅にあった断片が一つ、他の物を弾き飛ばした。

心音が脳を揺さぶる。

父が信じる道の為にこの身を賭けることを、惜しみはしない。

だからここまで来た。だから、エタ様と出会ってなお計画を実行した。

だけど。

だけど、これは。

見開いた目に、水分が迫り上がる。


「さすが僕が見込んだ娘だ」

遠くで鳴る、男の声に。

叫び出しそうな口を両手で押さえる。

代わりに漏れる嗚咽。

お母様と母が亡くなってから流したことのない涙。

『あの人は弱いから、守ってあげて、カテナ』

本当の娘のように育ててくれたお母様と約束したのに、母を奪われた父をまた守れない。

私たちを陥れた碧眼の男は、すぐ横に座ると肩を抱き寄せ、額を此方の側頭に軽く接する。

「声を上げて泣くと良いよ。僕はその声が聞きたくて、呼んだんだから」

それから目尻の涙を吸い上げ、ぶるりと震える。触れている此方のすべてを揺らしながら、内臓の奥を掻き交ぜるような艶を耳に吹き込んだ。

「我慢できなくなりそうだ。人間に混じった、この薄い薄い魔族の血が何よりも僕を刺激する」



・・・・・・・・・・・・・・・



「事情の確認に数日かかる為、騎士団にて身柄は預かる。同時に本人より聖女候補辞退の申し出があった、と」

騎士団に遣わせた老助祭は、正式な書面を持ち帰ってきた。

対面し、無事も確認できたという。ベールを被ってはいたが、カテナ・フンメル本人に間違いなく、その口から辞退の申し出を聞いたとの報告だ。


「こうなってはもう管轄外だ。あちらさんと彼女の双方が、手出し無用と」

「そんなの、言わされてるだけかもしれない!偽物かもしれない!」

ソファから立ち上がり、激高するエタを、ペルルは睨み付けた。


「お前は、何の為ここに来た?出会った者すべて救えるほど偉いのなら、今すぐ奇跡を起こしてみろ」

「なんっ」

「仲間の命も取りこぼす者が、どうして今日出会ったばかりの者にそう肩入れする」

「だって助けてもらっ」

「暗示如きで操られるタマならここに連れてなど来ない。そもそもお前がなろうと思う聖女が何をした者か分かってるのか?」

「んだよっっおっちゃんのばかっっ」

顔を真っ赤にしてテーブルを蹴りつけたエタは、一際大きく叫ぶと執務室を飛び出していった。


「ペルル猊下」

「あー、すまない。ご苦労だった。食堂の方を頼む」

「はい、あの、お疲れでしょうが、猊下もどうか気を落とさずに」


食事の時間になったが、ペルルは執務室に籠もっていた。事務仕事の残りはギレス司祭が片付け、先に部屋を出た。

ペルルは上司に向けての報告書作成をしつつ、助祭の報告を待っていた。

本来であればあり得ないが、エタも何故か同席したままだったのだ。

そしてカテナの件についてエタの前で報告させてしまった。

さらには、途中でまずいと気付いたが、エタの物言いに対し叱りつけてしまった。

・・・お前、と呼んで。


何重の失態だろうか、これは。


しかも、誰かが聞いている。盗聴の魔導具で。

軽く溜息を吐き出し、ペルルは聖職者らしく祈った。

聖女選定の儀の説明の前に口の中で呟いたのと同じ聖詞を。

それから口の中、自分にすら聞こえぬ音量で。

「荷、重すぎやしないか?」




「くっそぉおお」

淑女が口にしてはいけない言葉とともに執務室を出たエタは、鼻をヒクつかせた。

「に、肉の、臭いだ」

騎士団長執務室で焼菓子を食べた。それだけでも普段の夕食より多かったかもしれない。

しかし、主菜の芳しさが招いているのだ。

行かねば。

嗅覚を最大限に行使しながら食堂に向かったエタを待っていたのは、端のテーブルに用意された何種類もの大皿だった。

トレイと小皿、カトラリーが脇に纏めて置かれている。すでにテーブルに座っているナントカ司祭を見ると、好きなモノを小皿に盛り付けているようだった。

側に来たメイドが小皿二つとカトラリーを置いたトレイを渡してくれる。

ありがとう、というと笑みで応じた気持ちの良い対応に気分も上向く。

団子状に丸めた肉にソースを絡めたもの、葉野菜で肉を包んだもの、塊肉を焼いて切り分けたもの。肉メインの主菜だけでもこれだけある。

野菜サラダを筆頭に数種類の副菜、それからスープも二種類、パンも三種類あった。

「チビたちにも食べさせてやりたいなー」

だが今ここにいるのは自分だけだ。であるならば、最善を尽くそう。



「なんだ、ご機嫌じゃないか」

執務室で落ち込んでいても仕方ないと食堂に来たペルルは、いつもより少なめの––一般人よりは多めの––食事をトレイに取り、エタの観察ができる位置に陣取った。

皿に山の様に盛った料理を前にして緩み切った表情を隠せない聖女候補は、先程の怒りを忘れたようだ。

フォークを掴むが、何か思い出したのか、もう一度置き、両手を胸の位置で組んだ。

食前の祈りか、と眺めていたペルルは、その口の動きに息を詰めた。


それは子どもの時に偶々見つけた。

村の子どもの間で流行っていた逆さ言葉。誰かがいった言葉を、逆から言い直すだけの遊び。

一人の女の子が褒めてくれたから、嬉しくて家でも練習した。

助祭の父は教会での書写の書き損じを子どもの練習用にと持って帰ってきていた。

その聖詞を逆さから読んでみた。

しっくりこなくて何度か練習した。発音ではなく、書いてある文字を逆から取って読んだ時。

世界が反転した。

胃液が逆流してくるのを感じた。下を向いて嘔吐しているのに、目は天井を見て回っている。

手足は逆になり、足で口を押さえて手で歩く。深緑の部屋の中に立つ本棚が白く見える。心音は耳側の足指の先で、か細く鳴く。

歩いたのか這ったのか。自室の扉が開いて、父の逆さまではない聖詞を聞いた。やっとそれで意識を失うことができたのだ。


エタの祈りは<逆さまの聖詞>だった。

ペルルたちが食前に祈ることばの逆読み。

自分には毒となり刃となったその詞に、食欲の失せた深緑髪の聖職者が軽く椅子を引いた時、食堂の扉が開いて見覚えのある助祭が向かってきた。

ボソボソとした話し声だけでなく、食器とカトラリーの擦れるかちゃかちゃとした音さえ消え、その足音だけが食堂に響く。

すぐ側まで来ると一礼し、言付けという名の命令を寄越した。

「大聖堂までお戻りになるようにと」

主語を省いても誰からの指示かは分かる。

実態はともあれ位階の上でナンバースリーであるペルルを呼び出せるのは二人だけ。うち一人は明日帰城予定、つまり不在。

「すぐ行く。・・・ところで助祭は急ぎ仕事があるか?」

「いえ本日は猊下をお連れした後自室に戻る予定です」

「では私はその辺りの騎士と行くから代わりにこれを食べてってくれ。食事を粗末にするわけにいかないからな」

エタに劣らない山積みの料理と自分の顔を何往復かする助祭の肩を軽く叩くと、ペルルは動き出す。

食堂扉を警護の騎士が開けたが、注目はまだあると一旦振り返り皆に向けて声を張った。

「聖女候補は後見人とともに明日藍の刻大聖堂前集合。現聖女様のお迎えだ」



ぱたん、扉前に控えていた老助祭とともにペルル司教が姿を消すと、静まっていた食堂に幾らかの音が戻った。

さわさわと夜風が木の葉を揺らす程度の音は、しかしある種の攻撃性と方向性を持っていた。後ろに立ち支える者の不在が徐々にその力を強めていく。

勿論悪意ともいえる視線を浴びていることに気づいていたが、エタには食事を終わらせることが何よりも肝要であった。

何故ならば。

調子に乗って取り過ぎたからだ。

食べ始めて意外と焼き菓子が腹に残っている事が分かった。いや、分かっていたのだ。本当は。しかしこのような千載一遇の機会、逃すわけにはいかなかった。

食べるのが辛いなどと、贅沢な考えを持ちそうになる自分を心の中でどやしつけながら、口を動かす。

あと少し、あと一口。


「ねぇ」

最後の一口を頬張ったとき、エタは背後から肩を叩かれた。

「むぎゅにゅぅんぐぅっっうぅっぐぅ」

口内に多量に詰めた食物を咀嚼している最中の事故。つまり、喉を詰めた。

必死の形相で胸を叩き、水を飲み干すエタを横目に、原因となった者は涼しい顔でその様を見下ろす。

荒い息をしつつ、ようやっと難を逃れた時、赤茶色の髪を持つ聖女候補は再び口を開いた。


「あなた、魔族なんでしょう?」

声の残響とも言えない余韻に被さり、カンカランという金属の音が響く。大皿を片付けようとしていたメイドが、上に載せたトングを落としたのだ。慌てて拾うメイドの靴と衣擦れの音がやに大きく感じられる。

すぐ横の女性を見るのに大儀そうに首を動かし、エタは質問で返した。

「どうしてそう思う?」

「魔力がおかしいわ。それに、修道院。どこの出身だか言えるかしら?」

「オース修道院だ」

ほうら。

歌うように言うと、灰色の目で皆を見廻し両手を広げ、芝居がかった言葉を繋げた。


「王都の北部の外れも外れ、貧民層の住む辺り。一つのオンボロ修道院。

集められたる孤児たちは、青い肌、白い肌、尖った耳、はみ出す牙。

異形を隠せず捨てられた、哀れな魔族の子どもたち」

喉の奥を震わせた聞こえの良い高音が奏でるのは単なる誹謗だ。

「自分は人間だし、仲間たちは魔族の血を一部引いているだけだ。人間の血の方がもっと濃い」

「そうかしら?人間だと思い込んでいるだけでは?王国法の改正で五年前から簡易判定で魔族と認められなくとも、遡って祖先に魔族がいると確認できた者は魔族と見なすようになったわ」

「確認、ねぇ。そんなの遣り様ないじゃないか」

「そうね。だけど見目は能弁。遡って人間しかいないのなら、肌も髪も耳も口も。飽く迄人間のはず」

「自分は人間には見えないと?」

「あなたの魔力は人間のものではないわ」


パンパン。

成り行きを見守っていたハロル・ギレス司祭が立ち上がり、二度手を叩いた。皆の注目が移る。

「魔王が封印されている現在、純血であっても魔族の魔力は従来の十分の一ともいわれる。君は彼女の魔力の所以を魔族だからと断じている。が、私なら他の説明を付す」

舞台を邪魔された女優である聖女候補は、おもねる態度も取らず首を傾げた。

「それは?」

「結果をご覧じろ、だ。さぁ、食事の済んだ者は各自の部屋に戻るように。明日朝食は紫の刻だ」


ギレス司祭はトレイを持つと、今し方トングを落としたメイドに近づき、小声で話し掛けた。

彼らは連れだって厨房の方へ姿を消す。

候補者の一人はさっさと食堂を出て行った。

ペルル司教の代わりに食事を取っていた助祭は、疲れたのかテーブルに突っ伏して眠っている。

エタに難癖を付けた候補は、周囲の様子に一つ舌打ちをすると立ち去った。

昼に薬を嗅がせた派手な化粧の顔がまだこちらを向いているのを見て、エタは話し掛けた。

「ねぇ、相談したいことがあるんだ。部屋に行っていい?」


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