<36> 塔

「ジルさま・・・?」

背中に当たる温もりは素肌に直接沁みた。瞼を開ける前の贅沢なひととき。

父の膝で暖炉に当たった優しい時間を思い出せる柔らかな微睡。

肩から胸元に回された重みも、引き寄せて頬に触れる腕の逞しさに愛しさが増す。

けれど今朝の腕は重すぎるし逞しすぎた。

潰されそうな重みに耐えかねて目を開ける。ずしりと痛みが響いたのは体ではなく頭だった。

あれ、俺、いや私は。

腕の重みが余計に頭痛を起こしている気がして、力の入らない手で叩いた。

背後から抱きしめられる。


「目が覚めたのね?具合はどうかしら」

女の話し方で、低い男の声が喋る。甘い香りがして、頭痛が少し治まった。

「俺は・・・ここは」

薄暗い部屋。半月型を伸ばした腰高さの窓が一つだけ。窓の外は青一色だ。

「ここに居れば大丈夫よ。外には出られないけれど安全だから。ね?」

「大丈夫?逃げ・・・聖堂・・・やめ、や!」

「大丈夫だから。大丈夫、だったでしょう?」

また甘い香りと抱擁。ああそうだ。逃げ出して、捕まって、でも助けられた。

それで、ここに?

はっきりしない。頭も記憶も、体も体の中も。靄みたいだ。全部。

大きな掌が頭を包む。ゆっくりと続きのように撫でる。

「暖か・・・」

微睡がまたやってくる。瞼が自然と閉じられる。けれど意識を手放す前に。

「大好き・・・ジル様・・・」

反転して抱きつく、胸と胸が合わさる。ジル様じゃなかったけど、ジル様みたいに暖かで優しい誰か。

代わりに、俺を愛してくれる。きっと。



・・・・・・・・・・・・・・・



騎士団の地下牢から逃げ出したテオ・ディストロは、小聖堂の物置小屋で震えているのを確保された。見つけたのは聖女付司教筆頭に昇格したハロル・ギレスで、抜け目ない彼はすぐに第零騎士団に通報した。

第零騎士団——王族直属部隊——はその職務性質上、誰が任に着いているか外見から判断することは不可能なはずで、当然報告を受けた騎士は聖堂騎士である第二騎士団を装って対応したが、ギレス司教に見抜かれているのは明白だった。

司教は捜索に出ていた何人もの騎士を素通りして、その騎士に耳打ちしたのだ。


手筈通り意識を奪って保護した後、王宮の一部である塔に監禁した。貴族として育った経緯から、大抵の毒物には耐性があったが、幾つかの薬草を混ぜて魔力を注いだ最新の魔法薬が効いた。

意識を朦朧とさせ、続く暗示や魅了の魔法を効きやすくする補助薬だ。

カミルは四大魔法が使えない代わりに魅了系の魔法を得意としている。薬の効果を確かめるため名前や立場などを尋ねると、テオ・ディストロはこう答えたのだ。


『名前・・・は、テオ。ただの、テオ。家も大聖堂も・・・帰るところがない、から。捨てられて、売られたって、のし掛かっ、怖・・・や、だ・・やっ』

酷く怯え、剥いた目から液体が湧き出す。すぐに眠り薬を嗅がした。

魔法を使える状態を維持したまま操るという目的上、精神を壊しかねない記憶の漏出は最小限に抑えるべきで、事前準備としてテオ・ディストロの経歴を洗っていたカミルもその困難に匙を投げたくなった。


テオ・ディストロが、ただテオとだけ名乗っていたのは十六歳より以前の話だ。

ディストロ家から大聖堂に預けられたのが十歳。聖職者見習いは家名を名乗れないため、テオはただのテオだった。

そして成人し、大聖堂から街の聖堂への異動。

見かけ上は司祭の補佐から聖堂司祭への大幅な昇格だったが、大聖堂に預けられた十歳からずっとジークハルト・カロッサの付き人をしていたテオ・ディストロにとってはそうではなかった。


捨てられた。

テオの傷を抉りさらに広げた同僚がいた。異動してきたばかりの美少年、高位貴族の子でもある少年を、手込めにしようと襲いかかり。

魔法の暴発、逃走。

無事ではあったが、テオは街角のゴミ溜めの中、破れ血塗れの衣服を抱きしめて震えていた。保護されると倒れ、次に目覚めたとき、この顛末は記憶になかった。


誰かが蓋をこじ開けやがった。

カミルの赤燈色の髪が逆立つ。大柄ではないが成人した立派な身体を小さく丸めて眠る男に、余計な感情を抱きそうになった。

俯いて首を振る。流れる声に。見上げた。

『アンタは仕事でも仕事以外でも、遣りたいように遣るでしょう?』

積年の蜘蛛の巣と埃を清めた後の何もない天井。何故その言葉を思い出したのか分からない。もう十何年も前に失った女の言葉を。

そう。余計な感情なんて、きっとない。

「憐憫なんて、詰まらないわ・・・仕事だけのカンケイも」

貴方が私を愛するように仕組むけれど、きちんと。

貴方を愛してあげるわ、テオ。


腕の中で眠る青年の髪から金色の一条をすくい取り、口づけてからさらり戻した。

かつて女にそう遣ったように。





「アレで思い通りってか?いいご趣味なもんだ」

扉の横に凭れたクンツが、言葉にも態度にも苛つきを滲ませる。

音を立てないよう静かに閉めたカミル・ヴェンツは、扉をひと撫でしてからかんぬきを掛けた。その行為にまた刺激されたクンツが、壁を殴る。

「アイツは俺のもんだ」

「痴情のもつれかしら?誤解を招くわよ」

冴え冴えとした声音は、部屋の中の男を気遣ってのものだった。螺旋階段を降りるように促すと、顔を顰めたクンツも舌打ちひとつで従った。

底の見えない闇にクンツの出した炎の玉が揺らめく。庶民の魔法にしては大きい炎は、しかし彼らが動くあたりを照らす程度だ。薄暗さが余計にこの塔を不気味にさせ、石造りの階段を踏む一歩一歩に力がこもる。


「テオ・ディストロは上の命令で確保した。氷が必要だから、魔法の使用に支障を来たさないような形で捕らえている。意識を跳ねれば、魔法は使えなくなる。説明したわよね?」

「アンタの趣味で抱いたわけじゃない、そう言いたいンだろうが、男同士の絡みをじっくりと聞かされた俺の身にもなれってんだ」

それも、いずれ俺の手でバラバラにして遣る男の、だ。


二段ほど先を降りるクンツの表情を言葉から正確に読み取ったカミルはため息をつく。

「あの状態でもやっぱり目玉を抉り出さないと気が済まないのね」

「あ?心が少年に戻ってるってヤツか?だからどうした。そんなものが贖罪になるンなら、誰も神様になんて祈らないだろうよ。ぼくちん子どもになっちゃったですぅってさっ」


どんっ。苛つきを壁にぶつければ、痛むのは自身の拳だ。クンツは立ち止まり振り返り仰ぐ。赤い炎に照らされた顔はむしろ青白く、死者の世界から戻ってきた怨念だけを瞳に宿す。

「俺が何のために仲間になったか忘れるな。仕事も快楽も同じ重さのお前みたいなヤツは」

クンツを見下ろすカミラの真っ赤な人差し指が唇に添えられる。

そこから先は、まだ言わない方が良い。少なくとも、今は。




王宮にある三つの塔の一つであるこの塔は中央の螺旋階段で地上まで降りられる訳ではない。突然途切れる螺旋を当てにすれば闇に肢体をばら撒く羽目になる。通路に組み込まれた部屋の中には、隠し階段、隠し扉が仕込まれており、侵入者が目的とする部屋まで辿りつくことなどほとんど不可能で、実際に不可能たらしめているのは罠と監視の存在だ。

この塔にはしかし、抜け道が存在している。王族のみが使える秘密通路とは繋がっているのだ。つまりは貴人を匿うために、或いは監禁するために複雑な構造を擁していると容易に想像できた。


クンツとカミラは塔の入り口である王宮の一室にやっと戻ってきた。

ふたりを待っていたのは第零騎士団の同僚二名で、互いの相棒を交換するよう指示が出たと伝えた。

マントを羽織り、声色を変えたクンツがカミラを睨んだ。

「お前ともしばらくお別れだ。アイツを大事に可愛がってやれよ。俺を楽しませてくれるように、たっぷりと愛情を注いでおけ。奈落は深いに決まってるが、より高みから落とした方が、遠くまで弾け飛ぶに違いねぇからな」




クンツと別れ、王宮から外に出たカミルは、真下から塔を見上げる。

半月型を伸ばした形の窓は、あまりにも高い位置にありすぎて判然としない。

空に住んでいるみたいだわ。

残してきた手紙を読んで、混濁したテオは指示を守るだろう。あれを凍らせるためだけに必要とされた男。こんな遣り方をしなくたって、それこそ監禁しておいても良かっただろうに。

「何か?」

新しい相棒はただの見張りで面白みも何もない。自分が連れてきた男に裏切られるよりも、詰まらない男と組まされる方が我慢ならない。

まぁ始末くらいはいつでもできるわね。

「何でもないわ。明日また上るけれど・・・貴方は静かに待っていられるかしら」

認識阻害のマントで互いの表情が伺えなくとも声音で挑発と分かるはずだ。だが騎士は素っ気なく、当然です、とだけ応えた。

ほら、詰まらない。世界がどちらに転ぼうとも詰まらないのだけは御免だわ。

カミルは幼子を連れて国中を逃げ回った日々とかつての仲間たちに思いを馳せ、ほんの三度ほど瞬きした後にはもう次の展開をめまぐるしく考えていた。



・・・・・・・・・・・・・・・



「おやおや、やはり捨てられましたか」

魔の森第五塔の屋上から連絡の狼煙を眺めてアーベルは呟いた。

この数ヶ月、人員補充の要請を受諾しながらも誰一人寄越さなかった第四塔から、却下を伝える狼煙が上がったのである。

アーベルが戻ってからは補充物資も届いていない。一緒に第四塔を出た仲間、あちらでは魔族奴隷と呼ばれる仲間たちと運んできたものが最後だ。


「酒がないとイヤがる者もいますからね。四塔は予定より早めていただきましょう」

基本的には補給物資など無くとも任に耐えうる、つまり第五塔で完結できる状態を作り上げている。

魔の森は魔獣が闊歩しており、木の実やキノコの類と合わせて食材には困らない。湧き水の場所も数カ所は抑えている。衣服やその他消耗品については、計画的に備蓄しており、こちらもしばらく問題ない。

アーベルにとってはかつての日々で鍛えた料理の腕前を遺憾なく発揮できる理想の職場でもあった。


外の空気を吸いに来たのか、景色を眺めに来たのか、おっとりした雰囲気の仲間が隣にやってきた。

「アーベルさんはもう全快ですか?私はまだ禿げが残っていて」

「それくらいは全快というのでは?」

「生えそろっていないと落ち着きませんから、精神的苦痛が残っているんです」

クンツというゴロツキ上がりの騎士は遠慮なく崖から落としてくれた。

アーベルがどのような人物か、騎士団が把握していたのは分かっていたし、仕掛け時期も相手も予想を立てるというほどには隠されておらず、仕向ければあっさりと乗ってきた。

運搬役の奴隷として選んだのはいずれも防御系の強化を得意とする者。一緒に落とされたのは回復魔法が使える仲間だ。

ナイフの傷も、毒も、炎の魔法も、崖の高さも。殺そうと思うならば申し分なかった。

ただ、王国の誰もが忘れていることがあった。

ここが何処であるかを。

ここは魔の森。魔族の血が流れる者たちに力を与える森。

歳月を数えて封印は確かに緩み、さらには次代の聖女と正す者の存在が、魔の領域本来の力を取り戻させつつある。


「やっと。物語が進みますよ。良くも悪くも、ですが」

アーベルは知ってか知らずか、かつての相棒が見上げる塔の方角をみて呟く。

相棒が告げた命の刻限はあと一ヶ月ほど。

その死が世界を動かす契機になるのは間違いなかった。


「シスターは仕方ないとして、アーベルさんのお姫さまはどうなりますかね?」

魔族奴隷として売られてきた、王都北部にある修道院出身の仲間はいう。

「我々の望みはあの方の幸せですから。できれば生き残るだけでなく、長年の恋も成就されれば良いのですが」

その笑顔を心に描けば、どのような任務も遂行できた。アーベルはこことは違う森での出来事を思い出した。



・・・・・・・・・・・・・・・



その声は森に響いていた。

風の音、鳥の声、獣たちの息遣いに混じり、確かにその声は混ざっていたというのに、不思議なほど真っ直ぐに耳に届いた。

『聖典』

姫さまは呟いて、言葉が我々従者に浸透する前に駆け出していた。追いかける。我々誰ひとり、本気で走る姫さまに追い付けないどころか、より離されていく。

まだ八歳の少女が、魔獣溢れる森を軽やかに駆ける。

我々が迷子にならぬよう清廉な残滓を残して姫さまはもう見えなくなった。どちらが従者か分からない。

国境は恐らく超えてしまっている。今更だな、とつい出た苦笑を仲間全員が漏らしていた。

お姿が。やっと追いついた。

相手に見つからない木の上から真剣な眼差しを送る姫さまの邪魔にならぬよう、息を潜めた。


そこにいたのは少年だった。何の変哲もない人間の男の子。特筆すべき容姿を一切持たない、あぁ深緑色の髪は少し珍しいがそれ程ではない。

少年は言葉の代わりに、鳥の鳴き声や風の唸りや獣たちが互いに毛繕いする小さな物音を発していた。

我々、姫さまの従者たる我々皆が、耳にしたことはあれど聞き分けることなどできないそれは。


『古神聖語の読誦』

すぐ隣に立っているのに気づかず、いきなり囁かれたから全身が粟立った。

いや、そうじゃない。少年に、存在に、この邂逅に、滾っていた。目線だけで相棒を見る動きは、余りにも同時で、声を立てて笑い転げそうになるのを必死に耐えねばならなかった。


『彼は何者だ?』

『恐らく、器。この場におわすハズのない方』

『次代、か』

『あちら側の、ね』

『では同じということか』

以前教えてもらった事実を踏まえて尋ねる。

恋人ができたばかりの相棒——国の大神官一族の末裔——は口の端だけを上げた。

『パウラさまは人間ながら叡智の器なのだから、魔の領域に聖王の器が居ても何らおかしくない』

『歪んでいる、な』

『そして、焦っている』

誰が。

問うまでもない。

世界、或いは神様が、だ。

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