<37> 或る試練
「話せば分かる」
「問答無用」
大聖堂に監禁されてはや一週間。融通の効かない聖女付司教筆頭のおかげで辛い毎日を送っている。
何が辛いって。
「肉ぅ」
「ですから、課題を終えたら差し上げます。何度も申し上げております。そもそも」
「肉ぅう」
大聖堂の一室にエタの悲痛な声が響く。餌という名の拷問で、香ばしい匂いだけ嗅がせられた挙げ句に昨日も食べられなかった。多分今日も無理だと思う。
・・・・・・・・・・・・・・・
儀式典礼の進行に必要な一切合切を覚えろ。
覚えるまで新聖女として披露することは叶わない。
エタに対する大聖堂の主による指示は、至極簡潔で当然といえば当然のものだった。
聖女として大聖堂に立つのならば、最も目立つお役目といえる聖典読誦のみならず、儀式の際の動きや細かな所作など身に付けておくべき事柄は多い。
しかし、一切合切となると。幼い頃から併設する修道院で修行した者、或いは聖女の付き人であった者であれば目にする回数が多い分修得も早いだろうが、相手は市井の孤児だというのに。
大聖堂の聖職者たちの新聖女エタに対する反感は表立ってはいなかった。その見目は明らかに封印の聖女を模していたし、王宮が認めたのならば逆らうに得はない。
ただ、大司教の無理難題はいびりであり、貴族の筆頭格であるカロッサが抵抗を示していると理解した。では、どちらに味方するのが最善か。
聖職者というものを特権的職業の一つとしてしか捕らえていない貴族連中は互いの出方を伺い、エタ自身に対しては遠巻きにする態度であった。
その微妙な空気を打破したのは、やはり新聖女エタ自身だった。
——響き渡れ、私の祈りよ。朗々と、朗々と
マルベリの真剣な面持ちが瞼の裏に浮かんだ。当然その顔を眺めたことはない。
そんな顔をして、張り詰めて、張り裂けそうな、それでいて空虚な。あぁそうだ、中身などとうの昔に入れ替えられて、私自身の心などたったの一欠片に為れていた。
だから縋ったんだろうか。それしか無かったから。彼を愛した、その心しか、私が意思として示せるものが無かったから。
今さら、かな。
今さら、だな。
大聖堂本堂の中央に立つ。
儀式の際にいる正面奥ではない。どまんなかに。
両手を広げて、翼を想像する。
聖典を詠むのなら、送る先は天だ。天より賜りし聖典を、天に還す。
届いた祈りはまた地上に降り、人びとに祝福を与えるだろう。
直接的に誰かに影響を与えたりはしない。どんな祈りも一度は神様に届く。
腹一杯に空気を入れる。昔感じた違和感の幾らかは消え、それがこの場所で十何年居た二人の仕業だと感づいて、自然と笑みが溢れた。
あぁ、どうせ祈っていただけ、と云うんだろう。ただ、敬虔なだけの。
口を開く。
聖典がまろび出る。自然な声音はしかし、大聖堂の空気を変える。
自身の仕事の、修行の手を止めて、聖職者も修道女もただただ目を向け、耳を向ける。意識の外から、身体が、心が、感覚のすべてで漏らすことなく受け止めるべく動かされるその先では、伸びやかに、独特の抑揚が紡がれる。
——歌みたいだ
一言に沢山の思いを乗せて。彼の褒め言葉は今も力をくれる。
歌みたいに。
そう、私は聖女。神様に祈りを届ける者。
創られたお役目だとしても。誰かが救われたのなら、私は聖女だった。
だから誇っていい。
私の生きた日々が、過ちに塗りつぶされていたとしても。
『聖典読誦には自身があるよ?』
『では試しに遣ってもらいましょうか』
売り言葉に買い言葉でもない。聖女付司教筆頭ハロル・ギレスは、一歩下がってこちらを伺う。目覚めてから口の中で詠むだけだった聖典を、この広い本堂の空気を染めるほどの力を込めて詠ずることができるのなら、それは願ったりというヤツで。
悦びに全身が震えるのは、むしろエタの方だった。
そうして行った聖典読誦は、思わぬ効果を発揮した。
流暢な発音の神聖語の読誦、独特の抑揚を持つ言の葉が渦を巻き、広がり、大聖堂本堂に重さを軽さを色彩を濃度を、それから闇と光を溢れさせた。
天上からの飛沫、誰もが豪雨の中立ちすくむ小さな動物に或いは葉の裏で揺らされる羽虫になって動けず、濡れそぼるのは身体ではなく頬と流れ込む口の端。
その声が止んだ時、すべての者は膝を折った。少女の姿をした尊い者に、ひれ伏し、祈りを捧げていた。
その場にいた誰もが、エタを新聖女として崇めることとなった。
「ただ」
感嘆と興奮と祈りに取り囲む人びとから聖女エタを救い出し、新聖女の専用部屋となる大聖堂の一室に案内したハロル・ギレスは、ひとしきり褒めた後に残念そうな顔を作った。
「ただ?」
「先ほどの、本当に素晴らしい読誦でしたが、非常に拙いことに現在使用されていない、厳密には使用禁止となった聖詞が含まれていまして」
「あぁ?序文は抜いたし、王国での禁止分は・・・」
控えていた助祭から聖典の写しを受け取ったギレス司教は、広げてエタに見せる。
「こことここの間、それから、こちらの・・・」
「流行歌じゃあるまいし、聖典を弄るなよ」
「そう仰っても。私がどうこうした訳ではありませんから」
さらりというギレスの顔をまじまじと見た。聖職者として当然だと思っていたが、かつてよりも聖女や神様の影響力が下がった現在、神聖語の読誦を聞き取れた上で過剰分を指摘できるなど並の人間にできることではない。運や策だけで司教筆頭になった訳ではないということだ。
「・・・あんたが野心家だったらもっと混乱していたな。礼を言っとく」
「不要です。お側に居られる、それが十分な報償となり得る。その程度は不徳な私でも理解できます」
面白みには欠ける。妙に真面目なところがある男だ。おっちゃんとはまた違う、いや、己の信ずる方向に真っ直ぐ進む心意気という点では同じといって良いのか。
「まぁ何にせよ聖職者ってやつだな。大司教と違って」
聖女付司教筆頭は片手を挙げる。控えていた助祭は頭を下げて退室し、聖女の付き添い役である修道女も部屋の端まで下がった。
「ご存じないでしょうが、あの方は類い希なる癒やし手として将来を嘱望された魔術師だったのですよ。あるいは聖者とはこのような方だと噂されるほどの」
魔術師だと?神様の加護を断ち、一切の魔力を持たない男が。
顔かたちを思い浮かべるのも腹が立つエタの心に反し、頭の中ではジークハルト・カロッサというその高位貴族が睨み付けてきた。
「いつだ?」
「え?」
「大司教が魔法を使わなくなったのは、いつからだ」
「・・・私もこれでまだ二十六ですから、そこまで詳しいことは。ただ、私が聖堂に入った十五の時にはもう、癒やし手として名が上がることはなかったですね。
さて、雑談はお仕舞いにして、お仕事の時間ですよ。エタ様」
先ほど広げて見せた聖典の写しの束をエタに渡す。
「細かな文言の変更点も幾つかありまして。そちらの確認は数日で可能ですよね?あとは一般的な礼儀作法、儀式典礼での作法と。あ、そうそう、修道士女との関わり合い方などの聖職者一般の通例もご存じありませんよね」
「ちょっと、待て」
「まだ外部には出せない話ですが、陛下が臥せっておられるため新聖女任命式典は殿下が執り行うそうです。婚姻前の殿方と相対するにあたり作法が多少変わりますが、どちらにせよ」
「国王が病気?そんな大事の中、聖女選びなんぞやってたのか?」
「陛下、と。さすがに声を顰める位の気配りはできるようですが。もしもとなれば、地下墳墓が開きますよ?立ち会いは大司教と聖女のはず」
「あんたの方こそ大概にしとけよ。その仮定は首が飛ぶ。下手すりゃ一族諸共だ。だが、地下墳墓?」
「歴代国王は火葬されず地下に納められます」
エタは険しい顔でギレスを見た。コイツは頭が回り過ぎる。
「アンタ、なんでまだ生きてるんだ?」
「上手く立ち回ってきたからでしょう。貴女様以外にこのような事話したりしません。影の類も寄れず、盗聴の魔導具も用を為さなくなる。そして情報を必要とし、かつ有効に利用できる方。外していないでしょう?」
まったくだ。と頷いたエタが、この聖女付司教筆頭に心を許してはいけないと気付いたのは、その二日後のことだった。
頭の良い、話せば分かる男。間違いではなかった。
妙に真面目なのも、正しい。
ただ、この男は自分の目的のためには手段を選ばず、か弱い少女であるエタに対して情けも容赦もなかった。
聖女選定の儀からエタを注視してきたハロル・ギレスは、エタの得手不得手も急所もきちんと把握していた。
「あぁ、違いますね。そこ、もう一度お願いします。付き合う修道女も大変なのですから」
徐々に嫌みが混じるようになった。いや、事実しか言わないから恐らく嫌みとして言っている訳ではない。
「非常に申し上げにくいことですが、お話になりません。所作は問題ないと仰ったのは嘘でしたか?」
当時の所作としては完璧なはずだった。百五十年前のマルベリを思い出して行った典礼の所作。確かに幼い頃から何度も繰り返して身体に染みついた動きではなく、ぎこちない点もあったかもしれないが、全否定だ。
大体、大聖堂正面にその姿を掲げる聖女の立ち居振る舞いを変えるなど、想像できるだろうか。敬い讃えているからこそあんな嘘八百の画まで飾っていると考える自分は悪くない。
開き直りに近いエタに対して、ギレス司教は奥の手を使った。
「こういうことは余り遣りたく無かったのですが」
助祭が押してきたワゴンには、食器と銀の蓋を被せられた料理らしきものが乗っていた。かぱりと開ければ、部屋にその芳香が満ちた。
「に、肉だ・・・司教、ありがとっ」
「ところがどっこい、とエタ様は仰いますが」
「まさか」
「ご想像通りだと。さすが、新聖女様は分かりが早い」
本日の課題はここからここまでとし、終われば食事に肉料理もお付けします。
ギレス司教は和やかに宣言し、エタはその日課題として与えられた分の九割五分で力尽きた。翌日は課題が更新され、またもやギリギリ届かなかった。
そうして一週間経ち、エタの習熟度はみるみる上がったが、肉料理を口にすることはなかった。
こんなことなら来るんじゃなかった。
エタは、大聖堂に来た日のことを思い出していた。
・・・・・・・・・・・・・・・
『新聖女として相応しい礼儀作法と聖典の暗誦。完璧に習得するまで殿下にお目に掛けられない。その程度は足りない脳でも理解できるな』
修道女も騎士も付けずに新聖女付司教筆頭ハロル・ギレス自ら案内した一際豪奢な扉の奥、大聖堂の専用部屋のソファの上にその男はいた。
右手に持った大きめの卵形グラスの中では深紅の液体がゆらゆら揺らめく。
液体から上る香気を一嗅ぎし、グラスを口元にやって傾きが唇を濡らす寸前にテーブルに戻すと、こちらを向きもせずに指示と嫌みを発した。
普通の騎士であるネッケや侍女リィズを供に付けるのを許されない大聖堂に、エタがほいほい付いてきたのはこの大司教に対する興味が抑えきれなかったからだ。
神様の力を一切拒んだ男とは、どのような人生を送ってきた者なのか。
生まれ落ちている以上、成長するどこかの時点で神様の加護を断つ何か、呪いのようなものを自らに施したとしか考えられない。
生命とは神様の加護そのものであり、加護のない生命など生まれ得ない。加護を断ったというこの男が生き永らえていることが、驚愕であり、恐怖だ。
しおらしく頷くわけでもなく、猛々しく言い返すわけでもないエタに、ちらりとも視線を遣らず、恐らくグラスに映る逆さまの姿だけで確認した大聖堂の主はもう用はないとばかり手を振った。
頭を下げるギレス司教の横で、エタはただ睨み付けていた。しかし微かな魔力の揺れさえ見透せる目を持っているはずのエタにすら、その大貴族の襞の僅かな変化も感じることはできなかった。
だけど何故だろう。違う気がする。
確かに殺意だった。王宮の廊下で、エタを震えさせた眼光に宿っていたものは。
ただ、その裏には。
「どうした。早く連れて行け」
「は。大変失礼をいたしました」
行きましょう、と耳打ちする司教筆頭は、無理に頭を下げさせることも、引っ張って連れて行こうともしない。この濃紺髪の聖職者はじっとエタを見詰めるだけだ。
あぁ。ギレス司教に返事をして踵を返したエタの背中に、平板な声が届いた。
「ギレス、もう連れてくるな」
「・・・はい。失礼します」
ぱたりとも音を立てずに扉を閉めてふたりは大司教の部屋を辞した。
扉を振り返る。
本当の声が、聞こえた。
エタにはその声が、哀しみで自らを穿ちすぎて空洞になった男の、絞り出したというには憐れすぎる悲鳴に聞こえた。
何故だろう。泣きたくなった。
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