<51> 我がことばに応えよ

明けぬ朝こそが相応しい。

その日、予定時刻の少し前に寝覚めたクラウスは、裸のままベッドサイドのグラスから水を呷る。

この時間を処刑に選んだのは、穢らわしい老魔族と我が物顔でのさばる五大貴族にとって最も似つかわしいから。

真っ当な者たちが眠りから覚めるには早く、酒や女や博打で夜更けまで遊興に勤んだ者どもは眠りに着いたころ、東の空は重昏い緞帳を上げ始めるが、その裏にはのっぺりと薄手の紗が幾重にも掛かる。

期待を抱かせておいて夜はまだ明けぬ、この時間こそが罪人たちには相応しい。


「そろそろ時間だ。起きるんだろう、エタ」

「おうさまぁ……もう少しだけぇ」


鼻にかかった舌足らずの甘え声で、同じ寝台に横たわる裸の女は応える。しかし花火を観たいと言ったのは女の方だ。

田舎暮らしで花火など観たことがない、天を焦がすほどの大輪が空に咲くなど信じられない、轟音に耳が潰れて仕舞わないかしら。

昨夜も遅くまで絡み合ったというのに寝ぼけ声が嬌声に聞こえて、クラウスはグラスを置くと隣に転がり、双丘の間に唇を押しつけた。両の手で片方ずつを寄せると、弾力を持った容積に窒息しそうになる。ふたつの先端を交互に啄み、色の付いた息を吐く女の唇にも吸いつく。


「あん。寝かせたいのか、起こしたいのか……どちらかにして」


軽く押し戻して抗議する女の青い瞳は暗がりでも、いや暗がりだからこそ一層艶かしい。

茅色の髪に通して見え隠れする指の一本ずつから男を誘う蜜でも出ているのか、一糸も纏わぬ素肌よりも情欲を煽る。その素肌にしても生来のきめ細かさや田舎娘とは思えない地肌の白さ、こちらの手指を吸い付けるさわり心地のいずれもが、これまでの女とは雲泥だ。

成る程、男を虜にする女とはこういうものか。先日の伯爵令嬢のように早晩飽きると予想していたものの、幾度抱いても抱き足りない。


「さあガウンを羽織っておくれ。この豊かな胸を隠してくれないと、私はせっかく準備したお芝居を見逃す羽目になるのだから」

「お芝居なんて悪いひと。たくさん殺すんでしょう」

「死ぬのは悪い奴だけだ。そうして理想の世界が来るんだ。神様も祝福してくれる」


さあ、エタ。

もう一度、女の新しい名を呼ぶ。

西南にある小さな町で見掛けたこの女は、青い瞳と鼻筋が気に入って王都に連れてきた。

貧乏育ちで学はないが、飲み込みが早くクラウスの意を汲んだ演技が即興で出来る。礼儀作法など至らぬ点も、成り済ます相手もまた作法には通じていないのだから丁度いい。


白髪のかつらを被って楚々と振る舞えば、本物よりも封印の聖女の肖像画に瓜二つだ。

あの聖女エタは魔力はあれど、体型がいかにも幼過ぎる。あのような板切れの身体つきでは姿絵に物足りない上、何より王の寵愛を得られるはずもなく、妃の役目はこの女に、聖女としての務めは本物にと分担させることにしたのだ。


クラウスは自らも起き上がり、品の良い光沢のガウンを羽織る。

珍しい魔獣の糸で作られたこのガウンは献上品のひとつだ。即位後しばらくの間、若く美しい国王に似合う装飾品を贈る貴族の列が途切れない日が続いた。業務に支障が出るから控えさせてくださいと文官から異例の上申が出るほどだ。

制限を設けたところ、それではと今度は聖女宛ての貢ぎ物が大聖堂に届いたのだから、余裕ない貴族たちが滑稽で笑いが止まらない。

装飾品も布地の少ない夜着の類も聖女には必要なく、王宮で引き取ってこちらに使わせている。


それにしてもあの腕輪の効力は素晴らしい。

王宮にて無体を働いていた娘が私の顔を見るや大人しくなり、腕輪を填めてからというもの、私の言いなりになったのだから。

まだ様子見の段階で、聖女として日課の祈祷を申し付けたほかは今朝の花火を上げる役目だけだが、王国内の魔族と五大貴族を粗方片付けたあと、いよいよあの力を使って隣国に打って出る。

伝承によると封印の聖女は、風魔法のひと薙ぎで魔族百人を真っ二つに裂き、地面を割る土魔法で魔獣五十頭を奈落へ誘ったという。

前王である父は魔族奴隷を使って隣国を攻略する積もりであったが、あの穢らわしい種族など利用するのも忌々しい。神様より授かった力、人間のために使えと与えられたあの聖女が、隣国もどこも大陸のみならず世界のすべてを私の為に平らかにする。



「あたし本当に楽しみにしていたのよ。だって王さま、あたしのために真っ赤な花火を上げてくれるって」


先に起き上がってガウンを羽織ったクラウスの横を、女は裸のままぺたぺた過ぎて、ソファに掛けてあった透け感の強い真っ赤な夜着を羽織った。

それでは隠すどころか余計に誘っているではないか。立ち上がり伸ばしたクラウスの手を軽やかに避け、赤で覆われた白肌を扇情的に揺らしながらテラスに続く窓を開け放し、女はその格好のまま外に出てしまう。


「人払いをしているとはいえ……」


今朝方上げる花火は祝砲であり彩光弾でもある。王都だけでなく、魔の森やナヴィーロから見えるほどの花火は封印の聖女の魔法だからこそ可能。しかし、目撃されてはのちのち面倒なことになるのではと侍従長コストマンの進言を受け、昨夜より王宮は人払いしている。当然、侍従長含め警備陣は残してあるが、最側近は影武者の存在すら知っているのだから問題ない。


奔放な女には仕置きが必要だなと、クラウスは靴を履いて、テラスに立つ女の方へゆったりと歩み寄る。

女は弾むように空を仰ぎ、しばしぐるり眺めるが、星だけでは詰まらぬのか、部屋の方を振り返って両手を軽く広げる。胸元のリボンを結んでいなかった夜着は左右に開き、白肌が露わになる。

早くぅとまた舌足らずに急かす女の赤い舌がちろり光り、青い瞳は妖艶に輝く。首から足元までの白さはまるで透明な肉体で、背後の夜空の星々がそのまま見える気がした。

いずれ星々の子を生ませてやる。


その時、天上の一点が光った。

小さな光の球は膨れ上がり、無数の真っ赤な閃光を空全体に広げる。閃光は消えた先から新しい閃光を生み、空すべてが赤く燃え上がった。


「わぁあ……」


女の感嘆の声はしかし、続く轟音に掻き消された。

どんん、と臓腑を突き破るような衝撃が王宮を揺すり、クラウスは一瞬目を閉じた。いや、ただ瞬きしただけかもしれないし、目は閉じず鮮烈な赤い光に眩んだだけだったのかもしれない。

逸れた意識を再び女に向けた時、女の身体の向こうにテラスの柵の白と燃える空の赤と闇の黒が目に入った。


女の、身体の、真ん中から、向こう側が、見えた。


女は、ぐらり倒れる。

クラウスは駆け寄り受け止め、膝立ちで抱きかかえた。

ベッドで戯れて口づけを落とした両乳房の真ん中辺りが背中まで貫かれている。胸も背も中身も、その部分だけが失われている。

女が唇を少しだけ震わせた気がした。

クラウスが口元か耳元かを寄せようと首を動かした刹那、穴が女のすべてを吸い込んで消え失せる。急に重さを失って、クラウスは蹌踉めく。手の内には背中に丸く大きな穴の空いた真っ赤な夜着だけが残されていた。


「なん、だ、これは」


呆然と夜着を掴んだクラウスは、続いて響いた轟音に我に返り、空を仰ぐ。

二発目の花火が視界を真っ赤に染める。握っていた薄布を穴から引き裂いた。


「なんだ、なんだ、なんだっ」


叫んでずかずかと部屋に戻り、廊下への扉を蹴り開ける。


「お前たち何をしているっ」


屋外の轟音に負けぬ声を張り上げて廊下を見廻す。しかし、扉の外を護っていたはずの騎士はなく、抜け殻のような騎士服と革長靴と剣が転がっている。騎士服には赤い薄布と同様、胸の位置に穴が空いていた。

侵入者による魔法や呪法の類かと、見逃した騎士を罰するはずが廊下には人の気配が一切ない。

三発目の花火の音が、開いた扉の向こう側からクラウスの背を殴りつけた。


「あの小娘かっ」


薄青の瞳が愉悦に細まる様が脳裏に浮かび、クラウスは壁を拳で殴った。拳から脳髄まで傷みが駆け上がり、小娘の表情が戦慄に変わる。

そうだ、お前は黙って私に言われるまま動けば良いのだ。


「仕付け直してやる」


呟くと騎士の剣を拾って鞘を捨てる。刀身が鈍く煌めく。魔力を這わして殺さぬ程度に痛めつけてから嬲ってやる。

クラウスは部屋に戻り、壁際の飾り棚に魔力を当てた。壁の一部分が音もなく開く。

小娘は本宮の塔の屋上から花火を上げている。

王宮本体と出入りする複雑で移動に時間を要する造りの塔も、王族のみが使える隠し通路を使えば短時間で目当ての部屋まで行くことが可能だ。


「待っていろ、小娘め」


クラウスは通路を急ぎ足でいく。かつかつと大理石の床が鳴り、狭い通路で反響して

耳に戻る。その音がまた怒りを増幅させる。

自らの代わりに寵愛を受ける影武者に悋気を起こして殺害したか。

しかし小娘は腕輪により意思を奪われ、意のままに操られていたはずだ。


「気に食わん」


最も高かった王太子宮の塔、父王の死体を氷漬けで保管していた塔も小娘が破壊してしまった。魔族の女に現を抜かす愚王をこの手で誅したのち、埋葬の儀式を都合良く執り行えるよう隠蔽していたというのに。

小娘が起こした爆発の為に遺体はほぼ失われ、アルムスター初代王の手記の通りに埋葬したというのに、記されていた奇跡とやらは起きず仕舞いだ。

支配者に相応しいさらなる力を期待していたが邪魔立てしおって。

思い通りにならぬのならばいっそ始末するか。


クラウスの興奮に荒く吐き出す息に黒い靄が混じる。

怒りのまま乱暴に床を踏む足の裏から、猛々しく空気を切る肩先から、黒い意思が纏わり付いていた。通路内を動けば動くほどに、壁や床や天井に薄らと積もった<悪意>が若き支配者の周囲に紡がれていく。


「あれは始末すべきだ」


クラウスの声に冷淡で低い女声が混じった。ふたりの声は膨よかな諧和をみせる。

<悪意>はクラウスの魔力から浸潤し、意識の幾ばくかを誘導しつつある。

剣を握る拳には血管が浮き、通す魔力も薄暗い通路を煌々照らすほど。眩いまでの魔力の表出に、しかしクラウス自身は気付かない。


「あの方を滅ぼした女を再び滅せねばならぬ。

力を奪い、自由も奪い、二度と世界に戻れぬよう、精神にも身体にも責め苦を与えたというのに、のうのうと舞い戻ってきたあの女を」


続く怨恨の言葉は豊かな女声を主として控え目に男声が調和した。怨嗟は耳から戻り、若き国王の内側をも黒々と染める。

私の女を殺したあの娘を生かして利用するのはもう止めだ。滅ぼさねばならぬ。滅ぼさねば滅ぼされる。あれは聖女などではない危険な悪女。魔族に育てられた女は人間から魔族の仲間へと魂が変遷したのであろう。

魔族は滅ぼさねばならぬ。魔族などという卑しい種族の闊歩する世界など、光当たらぬ彼岸と変わりあるまい。

滅ぼさねばならぬ。滅ぼさねば滅ぼされる。

あれは魔王を復活させるために現れたに違いないのだ。

閉じた意識の中、聖女への憎悪が増幅されていく。



クラウスの身体は秘密通路から塔へ出て、屋上への螺旋階段を駆け上がる。膨れ上がる憎悪を媒介に王国の主の意識を乗っ取った<悪意>は、抜けた景色の向こうに立つ女の腕輪が碧色に光るのを見て取り、勝利を確信する。

腕輪の効力未だ切れず。

神様の意思を阻害された神使など、凶暴なだけのでくの坊、この手に握る剣で八つ裂きにし、かつてのように塔の上から投げ下ろしてやる。

明けぬ空には誰も映らぬ。

お前一人で死ぬが良い。


しかし、宿り主の両の足が屋上の床に着いた時、空から降る柔らかい靄、聖王の器の真摯な祈りに<悪意>は包まれる。

所詮は意識の残滓の集合体、クラウスの身体から徐々に剥がされて大気に溶けていく。鮮烈な花火の残像もいつの間にか目の奥から失われるように、百五十年もの間王宮の秘密通路にこびり付いていた黒い意識もまた消えてなくなる。

あとにはクラウス自身の憤りが残された。


背を向けて空を仰ぐ聖女エタを見止めたクラウスは歩を止め、ぶんと剣を振った。

赤い喧噪の止んだ空は白み初め、陽の出ぬ内から夏の熱気を撒き散らす気配にじっとり汗ばむ。

いや違う。

弾む息はすぐに整った。王位に就いてからも騎士との手合わせなどの鍛錬は欠かさず、身を守る術にも通じている。

暗殺者の類と相対したこともあるが、これほどの。

唾を飲み込む喉が音を立て、耳の奥がざわりと鳴る。


聖女は空に祈りを捧げているだけだ。

後ろ頭から下方へ垂れる白髪は少し伸びて、上を向いていれば背の半分近くが隠れるほどになった。清楚な姿が相応しいと与えた純白の聖衣は足元も隠し、少女の全身は上から下まで真っ白だ。

白む空に浮く白い聖女は、この世の者とは思えず、クラウスは再び剣を振る。

畏怖あるいは欽慕など、私に向けられるべき感情、私が誰かに向けるなどと。

怒りを冷まされてはならぬ。あれは私の道具、私に使われる女だ。

一歩、二歩、聖女の方へ進み、クラウスは居丈高に命じる。


「聖女エタ、我が言葉に応えよ。お前は私のモノを害したのか」

「……我がことばに応えよ」



しゃららららん。


聖女の向こう側から光が差した。

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