<52> 崩壊
しゃららららん。
複数の金属の輪が触れあい、擦れあい、響き合う音色が、
音が光を呼んだのか、音が光に変わったのか、聖女の向こう側、白み始めていた空に光の一点が生まれる。点は見る間に天と地との境目を不明瞭にするとともに圧倒的な力で見詰める目を眩ませる。
天の光はその恵みを以て、空も大地も、そこにある雲や霧や草花、作物、鳥や鹿や熊や羊たち、それから家々の屋根も壁も、誰かが干した衣服も人自体も、在るべき色へと染めていく。あらゆる事物は光により色合いを示すのではなく、光により色付けられる。
それはあらゆる事物が予め役目を持って存在しているのではなく、神様と人、人と人、人と物、物と物、相互の関わり合いの中で役割を得ていく事と、ある意味では同一であり、ある意味では真逆でもある。
昇る陽に鮮烈になる空の赤は、花火に色付く愛妾を思い出させ、クラウスは剣の柄を握りしめる。
たかが女ひとり、世界を統べる王となる私が、情が湧いたなどと戯けた事を。ただ私の所有物を害した罪を償わせる、それだけの事よ。
己への言い訳に気を取られたクラウスの、再び口を開き非難の言葉を打つける機先を、聖女エタの落ち着いた声音が制する。
「名前を呼んで……自分の偽物、影武者は今際にそう言った」
見えたはずがない、聞こえたはずがない。
その場ですぐ側で抱き上げていたクラウスの目も耳も捉えられぬ速さで、女は消え失せた。
しかしクラウスは、あの女ならばそう云ったと信じた。
「名くらい幾度も呼んで遣った……」
「本当の名、影武者の名はエタじゃあない」
首だけ微かに振り返った聖女の白髪がさらりと揺れた。暁にも染まらない白は向かう朝陽よりも光を含み、田舎者の影武者が到底真似できないほど高潔だ。
それでも。
舌足らずで作法も無くとも、私の胸で眠るあの女を私は。
だが、クラウスは女の本当の名も知らない。
「何が分かる。お前が、お前が害したのであろう。私の女だ。何と呼ぼうと、あれは私の女だった」
「あんたとよく似た男も、名を呼べと怒り叫んだ……考えてみるがいい。偽物の名に価値はあるか。立場や位で呼ばれ、優越以外のもっと根源的な感情を得られるのか……
あぁ、だが、時間切れだ」
しゃらららぁん。
クラウスは息を呑む。
身体ごとゆっくりと振り向いた聖女エタの瞳は右が青玉の輝きを、左は紅玉の光彩を放つ。
魔性。
両眼の異光に呑まれ、ただ利己のために扱うはずだった聖女から目を背けることもできず、若き支配者はせめて言葉を探そうとした。
しかし次の瞬間、相対する化生よりも凄まじい魔力の沸騰を感じて、王宮本宮の方を振り返る。
塔の屋上からは王宮の象徴である巨大な半球状の屋根がはっきりと見えるが、二百年前より王国の民を見下ろし、主たる国王の威容を示していたその半球が、聖女の背負う朝陽よりも苛烈な金色の光に膨れ上がり爆発する。
先ほど天を焦がしていた花火がいっそ熾火であったかのような暴力的な音と光と衝撃が、クラウスの鼓膜を破り、目を貫き、いとも容易く吹き飛ばす。
やはりあれは魔族に育てられた魔性の娘だったか。
艶めく白髪も薄青の瞳も桜桃色の唇も、大聖堂の画に似通わせた偽物で、我ら人間を謀りこの王国を破滅に追い遣る方策に、まんま躍らされたというわけか。
私の姿に恐れ戦き震える様も、封印の聖女の力を封じたという腕輪の効力もすべて演じていただけで、この時を待っていたということか。
嵐に嬲られる木の葉の如く宙を舞い落ちるクラウスの両耳を、こおこお削ぎ落とさん勢いで風は過ぎていく。礫に打たれ、破片に切り裂かれ、高貴な血を撒き散らし、しかし間も無く地面に打ち付けられ、氷漬けでなくとも、四肢も頭も内臓も四散して誰であるかも分からぬ姿へと変わる。王である以前に人である事など忘れてただの塵芥へと変わり果てる。
だが、それでは。志半ばで世を去るわけにはいかぬ。
王国の支配者は世界の覇者と成るべきなのだ。
私は、人間の世界の王と成るべきなのだ。
世界をひとつに、纏め上げるべきなのだ。
真の王が君臨する平穏な世界を、私はこの手に得た力で創り出す積もりで。
身体の脇をすり抜ける風が、急に弱まった。
ふわり温かな何かに抱きとめられて、クラウスはなんとか動く右目をうっすら開く。
「聖、女……」
「顰め面すんなって。あんたが開けてくれたおかげでやっと手に入れられたんだ。それだけは礼を言う」
聖女エタは左手の魔力でクラウスを触れずに支えている。右の手に持った錫杖が揺れ、しゃらんと輪の中で響く。
「聖、錫……」
「本物の。秘密通路の奥に封じられていた……通路はあんたの血でしか解錠できない。無意識に避けていたんだろうがな」
聖女エタは金色の翼をふわらはためかせて宙に浮いていた。クラウスの目のすぐ側を、抜け落ちた羽が滑る。
羽は髪色と同じく白色だ。ならば金色は。
痛む首を徐に動かし、王は頭上を仰ぐ。
あれは、何だ。
黄金の光はまたもやクラウスの目を潰すが、その鮮烈さは閉じた瞼を通り抜けて頭の中に像を結ばせた。
あれは。
天を天の色よりも相応しき色に染める、力そのもの。
天を創り、地を創り、人を生き物を万物を産み出し育て上げる根源。
神様の力、祝福、天恵。
あれは。
「聖典」
封印の聖女の聞かせるつもりもなく出た呟きは、ごおごおと内の音を鳴らすだけの破れた鼓膜に何故か伝わる。
聖典。
神様の教えを記した書物、人びとの生き方と散り方が招く世界の行く末の手掛かりを我らに示す天からの贈り物。
しかし、あの光は書物にあらず、陽の光よりも強烈に人びとを平伏させる圧倒的な力。
力を、光を。
爆発の衝撃で身体は痛み、血を流しすぎた頭は回らず、手足もろくに動かない。
目を開けようとすれば光に射られ、耳はしゅうるしょうろと収縮音がほかの妨げとなる。
温かだと感じた傍らの女の魔力が徐々に冷えて、地面に激突して腑を撒き散らす難を逃れたというのに、近い先にはもうこの命は尽きると悟る。
しかし、命は尽きぬ。
あれを、手にすれば。
あれは、命を生む力そのもの。
傷は癒え、そればかりか人が持つ以上の力を得る。
人を超え、人を支配するに相応しい、世界の王たる力を得る。
クラウスはもう一度薄らと目を開けた。
聖女エタの回復の力が効いたのか、あるいは執念か、今度は両目が開いた。
光を直に入れぬよう慎重に首を動かし、位置と角度を測る。
聖錫がちろんかろん揺れる。
金色の魔力が起こす風を受け、聖女も微かに震えている。
いかな封印の聖女といえど聖典の持つ力、天と地すべての創造主たる神様の力を間近にしては圧力に抗い落とされぬよう集中せねばならぬのだろう。こちらに対して注意を払う余裕などない。
「解放を」
もう一度、やはり呟く積もりもなく聖女から言葉が溢れた。
緩やかに大きく翼を羽ばたかせ、聖女は浮上する。聖典の魔力に負けぬよう天を睨み力を込める。左手に抱いたクラウスが自身から少し遠ざかったことに気付かない。
「あと、少し……」
しゃらん。
聖錫を握る左手を空に伸ばした聖女を、クラウスは渾身の力で下方に蹴り飛ばした。
頭上の光が揺らぐ。
「あれは、」
私にこそ相応しい力だ。
喉からは血反吐と掠れくぐもった音が漏れただけだった。クラウスは光の直中に己の身体を差し入れる。
聖女が叫び、足の先端がびりついた。
王国最後の王の身体は、乾いた木片が燃え尽きるよりも早く、灰も残さずに消える。
『『『人間の国の王よ、その終焉に何を望む』』』
黄金の光の中、白い渦が問いかける。
一人のような百人のような、少女の透き通った、翁の嗄れた、壮年男性の張りのある、妙齢女性の香り立つ声に聞こえる弦楽あるいは木管の音で。
終焉に。望みを。
私の、望みを。
クラウスは、もはや肉体を持たない精神だけで思い出す。
子になど興味を向けない父王、国政を宰相に押し付け勝手気儘遊興に耽る父王への嫌悪と諦念。
父王の妃には幼い信頼を裏切られる。生母であると信じていたのに、民草を護るための聖女であると信じていたのに、愛人を側近にして大聖堂に長年居座った悪女。
父母と名の付く者ですらそうなのだ。
誰もが傅く王太子であれど、誰も私など見ていない。
王太子位という器、中身になど無関心だ。扱いやすい方がむしろ好まれる。
貴族どもに従順になどなるものかと、外見を整え、内面を鍛えた。影を使い、策を弄し、思うままに誰をも操り、この王国の王、いずれは世界の覇者たらんと。
それも潰えた。
望み。
銀色の長髪が揺れる。
陽光の輝きに白い輪が頭飾りのようで、振り返る美しい顔に笑みが乗ればそれだけで、私は幸せになれただろう。
何度見詰めてもその顔が綻びることはなく、冷徹な視線は、我が子に向けるには厳しすぎると胸が痛む。
しかしあの日、私に向けられるべき表情が他者に向けられたのを掠め見た。
新年を祝う祭祀での聖典読誦を終えた安堵からか、ほんの一瞬、傍らにいた者の背に微かに笑んだのだ。
青い目が僅かに細まり、口元は緊張を解き、頬は少しだけ上がった。
たったそれだけで、表情を覆う氷は溶け落ちて広く地面に溜まり、透明な水溜まりは澄み渡った青空も真っ白な雲も舞う鳶も鮮明に映し出す。
あれを、一度たりとも私に向けられたことのないあの表情を、私は。
得られないのならば、失われるべきだと、私は。
しかし、今更だ。
死の間際に愛情を求め、何になるというのだ。
私が欲したのが母の愛だとしても、女そのものだとしても、もはや肉体を失った今、抱擁は夏夜に降る淡雪のようなもの。
魔族が、魔族さえ居なければ。
あの薄汚い種族が父を誑かさねば、あれは私のものだった。
私が得るはずの恩恵を奪われたのは、悪辣卑劣な魔族の奸計。
せめて道連れに奴らを滅ぼしてくれる。
魔族だ、魔族の滅亡を望む。
魔族の血が流れる者を魂までもすべて消し尽くせ。
青年の心は叫ぶ。
最も叶えたい望みとはかけ離れた、憤懣晴らす宿願を。
天の光は応える。
『『『あい分かった。まずはお前から、叶えよう』』』
その言葉を反芻する間もなく、クラウスは自らの髪色よりも鮮やかな金色の光により魂魄までも一条の影すら遺さず消し尽くされる。
聖錫の先でひとつの魂を飲み込んだ光に、エタは顔を歪めた。
『『『『ほぉ。憐れむか』』』』
父王を殺して王位を簒奪した青年。
父王妃に幾度も暗殺者を差し向けた事など児戯であろうが、治世の邪魔になる予測だけで臣下とその領民を、領地に魔獣を放つ、野盗の仕業に見せかけるなどの手段を使って虐殺した。
隣国侵略の布石は、監禁した公爵令嬢の元婚約者、令嬢の次兄とした従兄弟を隣国王との謁見にて自爆させるという、冷徹な手管により打った。
魔族の呪いを利用して高位貴族の一掃を図ったことも。
国王という位から下ろされれば、人間の法に於いての最高刑は免れまい。
さらに、尊い神子である聖王の器、聖女の器の処刑指示及び、叡智の聖女の処刑は、神様の領域に於いても厳罰を要するに相違なく、肉体のみならず魂まで消滅させて然るべきだ。
エタとて情状酌量の余地などないことを理解はしている。
『『『『思い違いをするでない……。
人を害したこと、いずれも罪には入らん。
命は命を喰らうもの。情理に悖ろうが、条理には悖らぬ。
人如きに害される聖者など、そも不要。
あれの罪は、血と魂そのもの』』』』
「血、鍵となる血筋……」
王宮の秘密通路は特定の血筋の者しか出入りできなかった。
鍵となる血がレイグノース一族の血でないことは確かだ。
マルベリ・レイグノースの血を引くエタでは解錠不可能だったのだから。
では、一体誰に連なれば扉は開くのか。
マルベリであった当時は意識阻害の呪術や魔導具のために認識できなかったが、マルベリの父レイグノース三代王に常に従っていた小柄な補佐官と、塔に幽閉されたマルベリの元を訪れたアルムスター騎士団長に付き添っていた騎士は同一人物であり、その女が秘密通路の鍵だった。
そも、女が王宮を創った人物だからこそ、自身の血を通路の鍵に設定することができたのだ。
王宮の秘密通路を開くこと、すなわち、女の血筋を有することと同義。
アルムスター騎士団長は王となったのち、女と子を為して秘密通路の鍵を入手した。用済みとなった女は処分された。マルベリと同じく。
だが、女の血は王族として連綿受け継がれ、女の記憶の一部はこの秘密通路にこびり付いて、使用者の魂に浸食していく。元が自身の血筋の者、魂までも親和性は高く、身体や精神を操るまでいかなくとも思考の幾らかを捻じ曲げることは可能だった。
だとすれば、クラウスの魔族憎しの感情は女により植え付けられたもの。行動原理がその感情だった王太子は悪意により創られたといえる。
「では、あいつは被害者ではないか……」
『『『『しかし、元となったあれもまた世界の歪みにより生まれた存在であった』』』』
あれ、先々代の<叡智>の聖女は世界が歪んだことにより狂い、その狂気が世界を決定的に歪ませた。
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