<53> ただ矜持と信念をもって

——神様はふたりの王にふたりの聖女を与えた——


人間を統べる聖王には聖女<慈愛>を、魔族を統べる魔王には聖女<叡智>を与えた。

<慈愛>は世界のあらゆる感情を網羅し、<叡智>は世界のあらゆる智識を網羅した。

慈愛はその性質ゆえに力に目覚めると自らの命を絶つ。神様に力を与えられた聖女が、神様の禁じている行いを取る。

しかし、この矛盾は致し方なかった。

地上に降ろしたこの種族の生存確率を上げるため、人には危険を察知する能力を多く授けたのだから。

つまり、慈愛は我が身に流れ込む怨嗟、憎悪、悲嘆といった感情に絶望する。喜びよりも悲しみ、苦しみ、恨みが、圧倒的多数を占める人の感情を、力を与えられたとはいえ一人の人と然程違わない聖女が受け止めることは不可能だった。

幾度生まれようと慈愛の聖女は、人が生きながらえる為に与えられた力のために命を失った。


一方で叡智の聖女にもまたその力に呑まれる者が現れた。

叡智が得るのは文明つまりは人びとの営みそのものだ。歴史と言い換えても良い。世界中で繰り返しながら変遷していく営みは、しかし、殆どが争いだった。

人は自らが持たない凡ゆる物を欲した。

隣人が持つ物は等価であれど高価値に見える。金、宝飾品、土地、武具や道具の類、それから妻や愛人、娼婦、侍女侍従や奴隷など、ふたり以上にとって価値価格の付くもの、詰まりはほとんど何もかもが、争いの種となる。

個人間の諍いから国家間の戦争まで、他者から奪い、貶め、支配隷属を強いるための方法が、すなわち人の世界の叡智であった。



世界は、かくも穢れ、歪んでいる。



奪い、殺し、挙句は貶めて自らの命を絶たせるのが人の世の業と云うのならば、いっそ破滅を叶え、人などの存在しない世界を創れば良い。

魔王と聖女のふたりだけが残る、安穏とした世界を創り出せば良いのだ。



しかし、先々代<叡智>の謀略は実行に移す前に魔王により阻止される。

魔族も人間も含めてすべてを滅ぼそうとした聖女、己の伴侶であった魔族女を、魔王は城から追放処分とした。二百二十年ほどまえのことだ。

追放された魔族女は蓄えた知識を復讐の手段とした。




『『『『あれは叡智の智識を以て、我が<聖典>を封じた。我らは解放のために汝を地に降ろした』』』』


結果は最悪だ。

世界を正す役目をもって生まれた神使マルベリは、聖典を解放するどころか封印の聖女として魔王封印に利用された。

しかし、魔王封印ののち、再び世界を滅ぼそうとした企ては、マルベリと同じく利用した駒のひとりアルムスター騎士団長により阻止された。


そうして王国には、この地に縛られた神様の力<聖典>と<叡智>の聖女だった魔族の血筋、マルベリの血統が残され、祝福された土地で人間が伸びやかに生きる百五十年が続いた。

平和で平穏な時代、人間が人間だけと戦えばよい時代がこの地だけで続いたのだ。


この地のほかは魔物と魔獣と天災が人びとを蹂躙し、国は滅び、人は疲弊し、明日を望まぬ魂が新たな禍を生む。

世界を巡って凡ゆる場所に祝福を授けるはずの聖典を封じて不均衡を生じさせたことにより、先々代<叡智>は意図と異なる方法ではあるが、確かに世界を滅亡に近づけている。



「先々代<叡智>の咎は消えることなく、魂か血筋か、いずれかのみでも舞い戻るたびに破滅を試行する……」


『『『『あれは自らの望みにて自らを滅した。再びこの世界に戻ることはない』』』』


『『『『『さて、審判者よ。世界はこのまま滅ぶべきか、まっさらな大地と澄んだ空と混じり気のない海へと戻すべきか、或いは在るものの力を信じ委ねるか』』』』』


「考えるまでもない、元より選ばせる気もないだろう……」


慈しみの心を備える壮年男性の深い声、愛情を隠して冷淡を装った低い女声、どこか艶のある震えが混じる老婆の声、明るく華やかな色彩の女声、それから、声変わりを迎えたばかりの少年の少し高い声。

神様の声は、心を穏やかに躍らせ再会を望ませる、愛情と、親しみと心遣いと、叱咤を含んだ、優しいふるさとの声だ。

その声を聞いて、ほかの選択ができるものか。

エタは震えそうになる唇を湿らせる。声は躊躇を咎めたか、言葉を加える。




『君の心に従って、選べばいいよ』




本当に。

選ばせる気など、ない。



「聖錫よ、我が力を以て聖典を解放せよ。この地に留められた祝福を、理に則り世界へと撒き還せっ」



この世界をあるべき姿へと戻し、人間と魔族の営みを続けさせ給え。

たとえ争いに明け暮れて憎悪と嫉妬と執着が人びとを引き裂く事があろうと、血煙の向こうには小さな喜びと幸せを噛み締める無辜の人びとの生活がある。

美しいだけの世界などあり得ないのと同様、穢らわしいだけの世界などあり得ない。

天は祝福を光に変え、地は呪詛を影に隠す。

即ち陽が上り沈むことそれであり、人は生きて死に、陽の巡りと同じくして輪廻は巡り、世界のどこかでまた生まれる。

巡る世界に意味を探す必要などないんだ。

今、生きているなら、それでいい。


「世界よ、あるべき姿へと、戻れ」


エタは魔力を聖錫へと注ぎ、聖錫は聖典と同じく黄金に光り輝く。

ちょうど地平から全身を現した太陽が同じく眩いほどの金色の光を発し、聖典と聖錫と太陽の三者の異なる金色、満ち満ちる高潔に白みがかった聖典の金色、底秘めた熱情に赤みがかった聖錫の金色、慈しむ抱擁に青みがかった太陽の金色が、互いを尊び引き立てつつ混ざり合い、地を照らす恵となって空に溶け広がっていく。


これで。

この地以外の世界は持ち直す。


しゃらんんん。

光を空に移した聖錫が、エタの手から溢れて背中越しに落ちていく。

エタの身体も摂理に抗えずに落ちていく。



・・・・・・・・・・・・



「聖女様、商業区域の避難、三分の一完了です」

「聖女様、義勇兵の希望者続々集まっておりますが、装備が不足しております」

「聖女様、聖女様」


パウラは指示の手を止めて口を開き、何か言いかけて閉じた。嘆息を短く出すに留める。

それも、現場の士気を下げないよう細心の注意を払う。


魔王の聖女<叡智>であったシスター・グレイが処刑され、百五十年前の五大貴族の祖である五人の男たちの血を引く者が呪いにより命を失うことまでは予測通りだが、その後の展開はさしものパウラにも読めなかった。


処刑を告げる花火の轟音に眠りを妨げられた人びとは、真っ赤に燃える空にこの世の終わりを予感し、家族を失った者たちの悲鳴と怒声に確信を得た。

騒然とした市中は聖王の器の祈りの効果で一時は落ち着きを取り戻したが、今度は空が金色に光り輝いたのだ。

来光と相まり祝福に見えた光はしかし、ゆっくりと南方へ移っていく。陽光も取り込まれたように失われ、雲なのかどうかも不明な暗澹たる空が残された。

多くの者がこの経過を目撃し、奇跡の輝き、神様の祝福のみならず太陽までもが失われたと今度は悲嘆と絶望に暮れた。


空の変化だけでなく、聖典の解放により王宮全体が瓦礫と化したのも人びとの不安を煽る。王宮は王国の象徴ゆえ王都全域からその威容を眺められたのだ。消え失せればことの重大さは隠しようがない。

王宮のみならず、聖典を封じていた魔導装置の円環の内側にあった大聖堂も崩れ落ちた。

さらに聖典の重しが取れたお陰で、かつてこの地に跋扈していた魔獣が息を吹き返したようで、王都に迫る魔獣の群れを城壁物見櫓が見つけて緊急信号を出してきた。

信号など見ずとも魔獣の甲高い鳴き声、轟く咆哮は徐々に大きくなっている。力を取り戻したばかりで腹は減り、餌場を発見して興奮しているのだ。

王都の城門を突き破るか、壁を乗り越えるか、空を飛ぶ魔獣が先着するか。

そも魔獣と魔物の楽園であったこの地に人間の国を作ったことが大間違い。狂人の所業だ。往時の魔族ですら少数で暮らし、魔獣との戦いに苦慮していたというのに。


現在は愚痴も悔悟も後回しにし、王都住民の避難と魔獣討伐戦の準備を大慌てで進めているところだ。

混乱を少しでも収めるために拡声の魔法で王都全体に避難を指示したところ、神様のお告げ、神様の使者、本物の聖女などと崇め奉らん勢いとなった成り行きも利用しつつ。

ただ、<叡智>の器として生まれたパウラだが魔王の聖女は他に相応しい者がいるのに肩書きを利用していると、些かの後ろめたさを感じている。呼ぶ方に深い意味はないと理解していても。


騎士団本部前にこしらえた天幕内では、かつてパウラとともに王国に出現した魔物を討伐した第二騎士団所属騎士が手足となって働いてくれている。

最前線で戦った同志ともいえる部下たちは、意を汲むのも行動も素早い。

避難民を収容するに当たり、収容可能な建物の選定から割り当てまでを的確に済ませてくれた。五大貴族の血を持つ者も二割ほどいたし、大聖堂の瓦礫の下に百名近くの仲間が埋まってしまったにも関わらず。

再び王都の地図に視線を落としたパウラの元に灰色髪の侍女が近づいてきた。


「パウラ様、目覚められました」

「行くわ。……カスト、準備をあと四半刻で整えて。おおよそでいい、城門到達前に先発隊を出す」

「承知」

「モラン、我々が出た後の避難民、特に人間の女子どもの安全を確実に。非常時には不埒な輩が増えるのよ」

「御意に」



侍女の先導で、パウラは天幕を出る。

入り口を護る騎士に微笑みかけると、緊張で固まった礼を返される。

背の高い騎士の向こう側、日の出から一刻半以上過ぎたというのに日没直後のような昏い空に気が滅入るのを感じて、騎士に軽口を叩いた。


「大丈夫よ。何とかなるわ」


軽やかに、微笑んで。

氷の仮面の方が心強いだろうか。だが、嵐の襲来を予期させる空模様に無表情では自身の気持ちが沈んでいきそうだ。

パウラを慮ってか、侍女ミアが歩きながら明るい調子で話しかける。


「先ほどの呼び掛けに民から戦女神、守護聖女との声も上がっております」

「負け戦を司る女神なんて、碌なものではないわね……」


『かつて魔獣も魔物も従えてこの地に君臨した古き血を思い出した者はともに戦え。

これは負け戦であるが、生きるための戦いだ。みな、私と生きよ』


魔族の地に侵略した人間たちの末裔といえど、二百年も前の罪を今更償わせられる謂れなどない。ひとりでも多く生き残るべきだ。

これまでの生活から追われても生きていれば浮かぶ瀬もあるなど欺瞞だろう。それでも、生きて欲しい。

この利己主義的で自己満足な願いのために、魔獣と戦い死ぬ者も大勢出る。

だから、私が先頭に立つ。


騎士団本部に入り、入り口に最も近い応接室へ向かう。

応接室ゆえベッドはなくソファだが、小柄な少女を寝かせるには問題なかった。

何より、目覚めた時にすぐ動けるよう、その場所にしたのだ。


「失礼します」


王太子宮の侍従長であったコストマンが扉を開け、ともに入室する。

室内はエタの騎士ネッケとドーリス・メルト子爵令嬢に任せていた。

ソファに身体を起こした神使は、ドーリスからカップを受け取り、喉を潤していた。

パウラは安堵と不安を同時に覚え、エタに尋ねた。


「お体の方は……」

「いやぁ、よく寝たおかげで元気いっぱい。うん、相手が何でも戦えるね」

「それは頼もしい限りです。……ネッケ、ドーリス。ここはもう大丈夫だから、本部の手伝いを」

「はっ」

「はい」


ふたりが去ると、コストマンが扉を守った。

パウラは少しだけ気が抜けたように向かい側のソファに腰を下ろした。


「魔力が殆ど抜けていますね。今なら私でも勝てそうです」

「それは言い過ぎだけどね。ほい、聖錫来い」


エタが呼ぶと手の内に聖錫が現れる。

光は収まっているが、きんとふたつの輪が鳴るだけで穏やかな魔力の波が生じる。


「なるほど、今はそちらが本体……」

「言い方が失礼だけど、ま、だいたい合ってる。正す者、審判者、封印の聖女。呼び名はどれでもいいんだが、聖錫を持つと魔法が使えなくなるってのは本当で」

「聖錫に魔力を吸い取られる。しかし聖錫を通じて増幅された魔力を如何様にも使える」

「そそ。魔法の雷は落とせなくても魔力の塊を落とせる。風は起こせないけど魔力で何もかもをなぎ倒せる。ただ、まぁ察しの通り」

「魔力の多くを失った今、行動に制限が掛かる……この後、如何なさる御積もりでしょう」

「当然、世界の平衡を取り戻すよ。在るべき者を在るべき場所に」

「この地を治める王の帰還を、しかし」

「……でなければ、魔物が生まれ続ける。王妃も、戦いに行くんだろ」

「ええ。人間ですが器のおかげで、魔力の質も量も変化はありませんでしたし。西門から王都外に出、南側から東門まで往復しつつ魔獣を撃退します」

「北は。おっちゃんを護りにいかないのか。ありゃあ祈り以外はただの人間だぜ」

「そうね。でも」

「でも」

「他の何もかもを投げ捨ててあの方を守りに行けば、あの方は私などから興味を失うでしょう。それは失うことよりも恐ろしい」

「生きてりゃ、それで」


しかしパウラは立ち上がり、最上の礼を取る。

聖衣の裾が広がらずともこれ以上なく優美だった。

そして、扉まで下がると掌で侍従長をさした。


「ここにいるコストマンが貴女さまの足となりましょう。これは黒い翼を持つ魔族の末裔」

「なぁ、」

「……抱いて貰えば良かったと、少し後悔しているのです」

「……あの朴念仁が王妃で聖女に手出しなんぞできるもんか」

「それでも……それでも、せめて一度だけでも素肌に触れたかった。では、参ります」


黙礼ののちエタに向けた薄青の目は、これ以上心を揺らしてくれるなと睨みつけんばかりの真摯さで光る。

誰かから与えられた使命のためではなく、矜持と信念のために征くのだと。

そうさ。女の決意を覆すのは、愛する者にも不可能だ。

自分もぐずぐずして居られない。


「よし。行こう、ちょび髭」

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