<50> 不帰人へ捧げるは祈り
魔族奴隷解放の日、ナヴィーロの宿営地では鉛の刻少し前にテントの外に出て、北の空を眺める元魔族奴隷たち、オース修道院出身の十三人を騎士たちが遠巻きに囲んでいる。
ほかの魔族奴隷たちが起きてくる気配はない。当然騎士たちは革鎧に足音を忍ばせての行動であるが、昨夜の酒に眠り薬が混入されていたためでもある。
「さすがシスター・グレイの養い子、眠り薬など効かぬか」
騎士団中南部方面隊長が、すらり剣を抜いた。
後ろの騎士たちもみな抜刀し、構える。
「働かせるだけ働かせて殺すなんてのは有勝だが、ここで殺す意味は計りかねる。まだまだ使えるぜ?」
十三人のうち最年長のトアが戯けた口調で隊長に問い掛ける。視線を真っ向から受けた隊長は、口元を歪ませて応じた。
「魔族など使わずとも新しい労働力はすぐに手に入る。そのための」
「封印の聖女様だよな」
言葉尻を最年少のルクが受け、侮蔑の笑みを浮かべる。目の前の騎士たちに向けてではなく、高みから見下ろしている積もりの愚か者に対してだが。
その時、大輪の赤が、遠く遠く遥か北の大空に開いた。
聞こえるはずのない音と届くはずのない火薬の臭いに、呼吸が止まる。
王宮のテラスから特別あつらえの煙火筒を用いたか、いっそ妹分が魔力で打ち上げたのかもしれない。
ともかく、信号弾としても申し分ない大きさの花火が、まだ明けぬ濃藍色の空を赤く光らせる。
馬で休みなく走っても三日掛かる距離にあるナヴィーロからも見える花火。あの大きさの花火を打ち上げたのならば、やはりエタの仕事なのだろう。ならば、この時の訪れを、待ちたくはなくとも待っていた我々と、意味合いは同じだ。
鎮魂。
天から役目を与えられた本物の聖女が、いよいよ百六十年の生涯を閉じてとこしえの眠りにつくときを報せ、悼み、送る。これは鎮魂の儀式だ。
泣いている暇など、ないよ。
それは幻聴でなく本当に鼓膜を揺すったのだと思う。仲間たちみなが、同じ顔をする。
花火は合図だった。
王国最後の純粋魔族が処刑され、同時に魔族の血を引く者たちを殲滅する。解放とは逆の仕打ちも、かつてナヴィーロにて魔族が人間に対して行った意趣返しと言い訳が立つのだろう。本能的に忌避している魔族を自由民とするよりも滅亡に追い込む方が、例え欺瞞であったとしても王国民の多くが喜ぶと確信しているのだ。
しかし、隊長の後方で、王命を果たすはずの騎士たちがどさりどたり倒れる。
隊長は小さく息を吐いて剣を鞘に仕舞い、まだ赤く染まって見える北の空に黙礼した。
背後では、どうした、しっかりしろ、悲鳴に近い声が響く。
革鎧を貫き、胸から背中まで真っ直ぐに続く穴が、倒れた騎士たちに一様に、すべて同じ箇所、同じ大きさで空いている。
抱き起こし、声を掛け、揺すり、あるいは回復の魔術を行使する者もいる。しかし、いずれも反応乏しく、指をぴくと動かし、乾いた唇をべりと剥がし、目玉をくるり寄せて、その程度の僅かながらの動きさえもはや難しい。
ただの攻撃でないことは誰の目にも明らかだった。倒れている騎士たち、すでに目を開いている力さえ失った彼らですら、血の一滴も流さずに突然胸に大穴が空いて命を断たれるこの状況が、一般的な魔法の類ではなく、或いは神様への贖いを求められた結果だと分かり得た。
やがて彼らが完全に動かなくなったとき、穴に吸い込まれていくように身体は消えてゆき、胸の真ん中から地面を覗く革鎧だけが残されていた。
こうしてナヴィーロでは、展開していた騎士千人のうち八百二十二人と魔族奴隷として殲滅されるはずだった者二万人のうち五百四十一人が、瞬く間に失われた。
・・・・・・・・・・・・
同時刻、広大な魔の森の、魔王城と王都を結ぶ線のちょうど中間あたり、第三塔の屋上にアーベルはいた。
「泣かないでくださいよ。目を水膜で覆ったまま魔法は使えないでしょう」
ともに花火の打ち上げを見守っていた魔族が、すんすん鼻を鳴らし始めた。オース修道院出身で魔族の血を引くこの男は、小柄で敏捷い上に回復魔法に秀でる。仲間たちから一目置かれ、頼られているのだが、どうも気性が優しすぎる。
養い親を失った哀しみは理解できるが、先代<叡智>と面識のないアーベルからすれば、百六十歳は大往生だ。
しかも、早晩尽きるはずだった命を僅かに早く刈り取り、呪いを発動させてくれるのだ。百五十年モノの呪いなどで彼岸に送られる者たちには多少同情するが、熟成された円やかなヴィンテージだ、計画した愚か者はしっかり味わうといい。
「シスター……うぅう、シスター……」
「ウチの弟子は泣いてませんよ、きっと」
「直系って逆に泣かないんじゃないですかね……すんすん……」
「グレイ様の最後の子どもの末っ子でしたっけね、ボリスは。特別な血筋など周囲が喧しくなるだけで、私なんかは遠慮願いたいですね」
「……お姫さま、大丈夫でしょうか」
すん、ともう一度鼻を啜って涙目のまま、魔族の青年はアーベルを見上げる。
「さぁ。我々が心配すべきは……まずは第一塔、第二塔に送った仲間です」
「魔の森の任務に不承不承就いている騎士たちに遅れなど取りません。魔族ですからね。そんなに、不安ですか」
「……あぁ、第一塔、第二塔から閃光が。あちらは片付きましたね」
純粋魔族シスター・グレイの処刑と同時刻に魔族奴隷を殲滅せよと、ナヴィーロだけでなく、運搬役として数十名ずつ魔族奴隷を有する魔の森の各塔にも命令が下されていた。第五塔から第三塔はすでに魔族の支配下であったが、こちらの動きを王宮に勘付かれない様に第二、第一塔に関しては手を付けないでいた。
処刑命令の情報を得た後、魔族奴隷の数人を入れ替えておいた。頑強で仲間を護れる者たちを中心に据えたから、短時間ならば余程の事が無い限り問題はないはずで、その通り、制圧の合図が来た。
ほかに前王妃パウラと元司教ペルルにも処刑命令が出ているが、そちらも大丈夫だろう。
不安なのは処刑命令などという児戯ではない。
アーベルは、<叡智>の聖女が亡くなった今、器であるパウラに降り掛かる変化を恐れている。人間であるパウラが魔王の聖女として何らかの力に目覚めるのか、あるいは、魔族の血が流れないパウラは力そのものに受け入れられずに滅ぼされるのか。
しかし、気を揉めば護れる訳でもなく、側にいれば救える訳でもない。結局、この場で自身の最善を尽くすのみだ。
花火の下、王宮のどこかで、姫さまもまた戦っている。
アーベルは心の中で無事を祈り、握りこぶしを開く。
「魔の森の変化を注視しましょう。我々は我々の仕事を為すのみ」
仲間は涙を拭い、似合わぬ雄々しさで頷いた。
・・・・・・・・・・・・
王都市中では、貴族庶民問わず、突然の轟音に安らかな睡眠を破られていた。
驚いて飛び起き、赤く光る窓やカーテンに世界の終わりを予感し、続けて打ち上がる花火を見て杞憂だと胸を撫で下ろした者たちは運が良かった。隣で眠っていて共に起こされた、もしくは音になど反応せず健やかな寝息を立てたままの夫や妻や子や兄弟姉妹が、五大貴族の血を引いていなかったということだから。
邸宅のテラスやベランダで夜明け前の花火を待つ者も少数いたが、彼らのほとんどが驚愕の悲鳴を上げるか、悲鳴を上げられずに消滅するかのいずれかだった。
折角だから純粋魔族の処刑を祝いましょう、と一眠りしたあとバルコニーのテーブルで祝杯のときを待っていた高位貴族の若夫婦は、乾杯のグラスが触れ合う寸前に取り落とし、二度と拾うことはなかった。グラスがかしゃんと割れる物音に老侍女は気付くが、若夫婦を慮って入室を遠慮した。
幼い頃より奥方に仕えた老侍女は、その最期に立ち会うことはできなかった。
街のあちこちで悲鳴が上がる。
眠っていたものたちが花火の音に気付いた時はもう呪いが発動した後であり、胸に大穴が空いた家族や恋人が、見る間に穴に吸い込まれるようにして消えていく。まだ瞬間を目撃できた者は良い方で、隣にいたはずの妻が穴の空いた夜着だけを残して消え去った貴族などは突然離縁されたのかと、しばし思い悩む羽目になる。
庶民は着の身着のまま外に飛び出し、隣人と顔を合わせ、その顔が悲嘆の混じる興奮と夜空の花火に赤く染められるのを見て、互いに降り掛かった不幸がまったく同じだと気付く。
昨日まで、寝る前まで、眠っている間も。
側にいた妻が、夫が、子が、母が。
ひとことも遺せずに失われた。
胸に突然大穴を空けて。
空洞に呑み込まれていった。
瞬きも許されない刹那に。
これは神罰か。我らが神様に逆らう罪を犯したのか。
新しい国王が魔族奴隷を解放すると云ったからではないか。
あるいは魔族の仕業か。永年虐げられた魔族たちが解放され復讐に転じたのでは。
人間に気付かれぬ様忍び寄り、見えぬ刃を突き刺して、我らの大切な家族を奪ったのではないか。
この一大事に王宮は何をしている。
新しい国王は、期待だけさせておいて、やはり十七のまだ子ども、魔族の奸計も防げずに、のうのうと寝ているのではなかろうな。
男はみんな武器を取れ。女は火を持って夜明けまで照らせ。
肉切り包丁でも火かき棒でも杖でも棒でも何でもいい。
怪しい奴は見つけ次第、滅多打ちだ。
それから王宮に乗り込んで、国王に事の次第を質すのだ。
武器を持て、火を持て。
仇討ちだ。仇討ちだ。仇討ちだ。
人びとの興奮と怒りを、得物と松明の炎が一層押し上げる。暴力的な衝動で突き動かされる者たちは、爆発する切っ掛けを探して王城を目指す。
待ち受けるのが警備兵であろうと騎士であろうと、王城で呑気に寝ているに違いないあの若造に会うまでは、邪魔する奴らは容赦しない。
途中で気に食わない貴族なんぞの屋敷に火を付けてから行けばもっといい。
そうだ、火を投げ込めば良い。
我らの大切な家族を奪ったのは貴族かもしれないのだ。いつも犠牲を庶民に押しつける貴族なぞ、燃やしてしまえ。
花火はやみ、空だけは静けさを取り戻していた。
夜が明ける寸前の白い期待を抱いた空から肌寒い靄が降りてくる。誰も彼もが着替えもせず羽織も持たず、夏の陽射しよりもまだ熱い怒りにかっか火照る肌に、靄は柔らかく触れて滲み入る。
じゅうと松明は消える。
からりと得物は落ちる。
嘆きを、哀しみを、怒りに変えてはならない。
生きる者は生きる者のために、生きよ。
死者を慈しみ、生者を疎めば、世の理から外れ、人から外れ、もはや後の世を望むべくもない。
人よ、不帰の人を悼むならば祈りなさい。
私とともに、祈りなさい。
人びとは跪き、天から振る詞に頭を垂れる。
失った大切な人が、せめて安らかに眠れるよう、せめて後の世で安らかな日々を送れるよう。
怒りは嗚咽混じりの祈りへ還る。
・・・・・・・・・・・・
王都の北部地区にあった貧民街の封鎖とともに、北部駐屯地の敷地内にある施療院も閉鎖された。駐屯兵たちの傷病に対しては騎士団の回復術士や看護兵が任にあたると、勤めていた修道女たちは街の修道院に戻されていた。
施療院に残るのは院長として配属されたペルル司祭のみで、任務に就く騎士たちへの祈祷も必要ないと、施療院からの外出も禁止され、部屋から出ることすら見張りの騎士に疎まれた。事実上の軟禁状態だった。
ペルルはその日、眠っていたところを叩き起こされた。
騎士らしき男たちに中庭に連れ出され、地べたに投げ出される。ろくに着替えも与えられず、ずっと着たままの修道服は被るだけの簡素な衣服で、投げ出された衝撃で捲れ上がった膝や脛に剥き出しの地面の砂粒が食い込んだ。
それで眠気が飛んだというわけでもないが、夜明け前の澄んだ気配に混じるざらりとした悪寒を、ペルルは肌に感じた。
「良からぬ事が、起きるな」
「そうだ。今からお前は処刑される。さぁ」
跪いて祈れと、騎士は身体を起こすペルルを手伝うでもなく見下ろしたまま急かす。
ペルルは一度立ち上がろうとして、蹌踉めく。堪えて半歩後ろについた片足を引き摺る様に戻してから膝から脛と修道服を丁寧に払った。
合図だ、と取り囲む騎士のうちの一人が小さく呟く。みなそちらに顔を向けたのか、刺さっていた悪意あるいは恐れが緩むのを感じた。
ペルルは修道服の裾で膝から脛を包んで跪いた。後ろ足は爪先を残した前傾姿勢で両手の指を組み、頭を垂れた。首を、落としやすいように。
しかし、どんと花火の音が響いた時どざりと落ちたのは、ペルルの首ではなく騎士が手にしていた剣や騎士そのものだった。
「せめて時間稼ぎをすればいいでしょうに……」
嘆息と野太い男の声に顔を上げる。男はざりざり土音とともに歩み寄り、脇を支えてペルルを立たせた。
「礼を……言った方が良いのですかな。処刑命令と云うからには私は大罪人なのだが」
「こんなところで死なれると困るのよ。って、あん、いえ、ペルル様、まさか目が」
「よほど逃がしたくなかったのでしょう。賊の仕業と伺いましたが……」
「……生きてても八つ裂きね……さて」
「この場で、それとも」
「聞こえたのですね。この場で。私の部下がお支えします」
二発目の花火の音は、ペルルには古神聖語に聞こえた。あの少女の姿をした神様の遣いの声が、祈れと命じている。人びとの心を安寧に保つ聖詞を、王都に王国中に響かせよ。
魔の地に於いてもおっちゃんの祈りならば、人びとを恐慌から護り、生き存える機会を増やせる。
でも、諸々、上手くいかなかったら、ごめんな。
謝ることはないというのに、弱音を吐くなど似合わぬことを。
世界を正しい姿へと導くのならば、例えこの身が失われようと恨むはずなどないであろう。
貴女さまとの邂逅を、私は全身全霊で感謝し、すべてを込めて祈る。
この矮小な身体の咽喉も腹腔も四肢もすべてを、ただ平穏な世界のために投げ出そう。
すでに一度救われた命、何も惜しくはない。
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