<49> 今際に浮かぶその人の

元大司教ジークハルト・カロッサは、見守っていてくれとカロッサ本家に長年勤める執事に命じた。その者は五大貴族の血を有さぬ庶民の出だった。坊ちゃまから旦那様に呼び名が変われど、愛する者を失い自棄になれど、変わらぬその態度は信頼に値し、死出を見守る役目を与えた。



グラッツェル元宰相が王都を去る前に別れの挨拶を寄越した。季節を無視した花束と短い手紙を自ら渡し、二度と会うまいが達者で、とのたまった。命の刻限を報せるには無味乾燥だったが、お互い背負ったものが大きすぎて、親愛や友愛を育てられるほどの関係でもなかったことを思い返せば、十分すぎるともいえた。


当主だけに伝えられる秘密を得た我らは同士でもあるが、一族末端までの利害を含めば政敵であるのは当然のことだった。些細な利害から領間の争いになれば、巨大な組織である五大貴族のこと、王国全土を巻き込む内戦にまで容易に発展する。貴族の領袖というのは多大な責任を持ち、個人的な感情を排除する冷徹さを必要とした。

それでも、同じ秘密を抱える仲間がいたからこそ生きて来れたのだと、死を目前にした今だから思える。

まったく同じ花束をディストロ、デリウズ本家に届けさせたから安心しろと、グラッツェルがどこか晴れやかに去って行ったのも、同様と推察できる。



日も、時刻も。花束の暗号は今日を示していた。

中庭に面したテラスに揺り椅子を出して、ゆったりと微睡む。眠ったまま逝ったとて良いと。しかし、本格的な眠りは来ず、夜半よりずっと、うとうとと覚醒を繰り返す。傍らに立つ執事には、その時刻まで好きにしていいと伝えたが、ではお側で控えていますと動かなかった。


微睡みの中で昔の罪を見た。

カロッサ侯爵家次男である私は、どうせ家を継がぬ身、子爵令嬢と縁組みされた。カロッサ本家との繋がりにより威勢を張る輩よりはと、小さな領地を大切に治める領地持ち子爵を、騎士団長であった父カロッサ侯爵は選んだ。取るに足らない相手で面倒がないところが唯一の利点と、くさした父に反発はしたものの、婚約者と顔を合わせた時から密かな感謝に変わった。


婚約者ミリエッタは心根の優しい娘だった。水色の瞳は垂れ気味で、鼻は少し低い。小さな口で囁くように話すから、初めて会ったときは頬と頬が触れ合うような距離で話した。

中でも顔の横の一筋だけが真っ白な、艶のある焦げ茶の髪は、大人しい少女には不釣り合いで、だからこそより魅力的に思えた。


同じ部屋にいるだけで心が安まる人間がいるのだと、初めて知った。次男であり領地経営に携わる身として勉学に励む隣で、私の手巾に刺繍を施すミリエッタが、誰よりも何よりも愛おしいと思うようになった。

私が十二、ミリエッタが十一の時の婚約であったから、お互い幼かった。ある時、会計書を繰る手を止めて見蕩れていた私に、ミリエッタは云った。


『良いことを思いつきました。堅苦しくない席では、ジークハルト様のことをジル様とお呼びいたします』


許可を求めているのではなく、もう決めてしまったのだとその笑顔は語っていた。きっと、園遊会などでよその令嬢たちが馴れ馴れしくジーク様と呼んでいたのを気にしたのだ。特別な呼び名、ふたりだけの。


『では、私もミリエッタのことをエタと呼ぼう』


ふたりで紡いだ優しい日々は、婚約から三年ほど経ったある日突然終わりを告げる。

カロッサ侯爵家の長子である兄が騎士団での鍛錬後のつまらぬ喧嘩で命を落としたのだ。

最上級職である宰相、大司教、騎士団長は五大貴族の三家グラッツェル、カロッサ、ギュンターの持ち回りであり、父が騎士団長であるから兄は騎士団長を拝命するわけではないのだが、一年間の任期で騎士団に奉職していた中での事件だった。


婚約者のいる身で女遊びの絶えない兄であったから、私とは仲が悪かった。大司教位か宰相位に就くのならば鍛えるのは身体ではなく頭であるし、何より、魔族女との逢瀬を止められない王太子を支えるのが同種の人間であってよいはずがない。


そのような為体の兄を持って、家を継ぐのが自分であればと願わない者はいないだろう。三歳しか違わない兄、自身よりも才覚の無い兄。

私は、魔法の才能も、努力も、兄よりもずっと上で、何より回復魔法が使えた。基本四大魔法に含まれない魔法の使い手は貴重で、もしもカロッサ家の次男として領地運営に携わらないのならば騎士団か施療院に欲しいと請われていた。もちろん名門中の名門家であるカロッサ侯爵家の人間が、領地を放って一介の魔術師の真似事などできるはずもなく、それでも時折鍛錬のためといって魔獣退治に随行した。しかしそれだけで奇跡の癒やし手と名付けられ、恥ずかしくも喜んだものだ。


兄の死により次期当主と大司教位に就くことが内定し、ひとまずは王都にある聖堂の司祭となった。

私はそれまで以上に励んだ。人並みの信仰心では聖職者のトップにはなれない。聖典を熟読し、意味解釈についても研究を深め、人びとを導かなくてはならない。

同じ部屋で過ごしてもミリエッタは声を掛けなくなった。私は時折、聖典の解釈を語った。神様は命を何よりも重んじる。生まれる前も生まれた後も、どんな命も平等に同等に大切に扱われるべきだ、などと。


増長、傲慢、慢心。

成人する前の少年に転がり込んだ幸運は、幸運などてはなく、運命の悪戯、もっと云えば罠だった。


人脈作りや顔合わせと、父に連れられて夜会に参加した。貴族がこぞって挨拶を寄越し、令嬢が羨望の目で見詰める。

聖堂組織とは、神を信じる敬虔な信者たちの集まりではない。

王国各地の聖堂、修道院、施療院を管轄するある種の政治組織であり、各領主であっても領地の祭祀、典礼を司る聖堂司祭を軽くあしらえない。聖堂は、領地にあっても騎士駐屯地と同じく不可侵の領域であり、人事権も中央組織である大聖堂が持つ。

大聖堂の主、大司教位を賜ることはつまり、王国中の聖職者、修道士をいかようにも扱えるということである。

隣に立ちたいと望む女はさぞや多かった事だろう。


華やかな夜会には準備に手間暇が掛かり、聖堂での修習を始めために余計に忙殺され、毎週のように会っていたミリエッタと過ごせなくなった。参加者の中でも家格で劣る子爵家であるミリエッタの負担を避けるため、ともに出席はしなかった。婚約者との不仲を勘ぐり、機会を得たとばかり余計に令嬢たちが擦り寄る。

一族、縁故、領地関連で取引や繋がりのある家格の高い令嬢を一蹴するわけにもいかず、和やかに応じたのを勘違いされたのか、夜会でまるで婚約者ででもあるかのように振る舞う伯爵令嬢まで現れた。

さすがに看過できずに冷たく遇うと、令嬢はあっさりと引いたように見えた。



『友人たちが結婚前祝いのパーティをしてくださるの』

結婚を翌月に控え、ミリエッタと久しぶりに茶を飲んだ。執事に教わりつつ領地関連の執務も手伝っていたから、短い休憩の間だけであったが、そばにミリエッタがいるだけで心は安まり、つい意識が飛んでしまう。

目覚めた私に、ご無理なさらずにと柔らかな笑みと気遣いを残して、ミリエッタは辞し、それが最後の遣り取りとなった。



友人が招いてくれた結婚祝いパーティの帰り道で馬車の事故に遭い、ミリエッタは二目と見られぬ姿になったと、翌日子爵家より連絡が来た。ゆえに婚約は破棄していただきたいと。格下の貴族家から破棄通告はできず、嘆願であるが、実質的に破棄の通達だった。

何もかもを投げ捨て子爵家へと馬車を急かしたが、ミリエッタに会うことはおろか、子爵家の中にも入れてもらえず、ただ夜半まで、門の前から屋敷をぼうと眺めた。婚約破棄は父侯爵が手続きを済ませ、代わりの令嬢があてがわれた。例の伯爵令嬢だった。



手紙を書いた。花を贈った。遣いを出し、自らも通った。

桃色の花びらの下で結婚式を行いたいと、まだ幼かった婚約者が言ったから結婚式は春の予定だった。夏が来て、秋が来た。ミリエッタの声が聞きたかった。

そして、始まったばかりの冬が、地面に転がる枯れ葉をかさかさと転がす晩に、ミリエッタの父子爵が尋ねてきた。

子爵は白髪の赤子を抱き、窶れ果てた顔で、ひとことだけ溢した。


『なぜ、護ってやれなかった……』


子爵は、ミリエッタの一条だけの白髪と同じ髪色をした赤子を押しつけて去る。

呆然としている間など無かった。

赤子から膨大な魔力が漏れていたのだから。私には、これが神様の力だと分かった。いや、赤子自身が教えたのかも知れない。その魔力で、眼差しで、私の指を握る柔らかな小さな手で。

見つかれば。殺されるか、閉じ込められるか。碌なことにはなるまい。赤子の身にこの力は大きすぎる。誰か、封じられる誰か。


思い浮かぶのはひとりだけだった。

王国で唯一存在が許されている純粋魔族、小さな修道院で魔族混じりの子らを育てる五大貴族の禁忌シスター・グレイ。オース修道院は五大貴族の手の者が見張りに付いている。我が家の者がいる時間帯ならば。



『その子を預かれと。神様より力与えられた特別なこの赤子を、魔族の私に預けるというのか』

『人間にとって悪となろうと、私に赤子は殺せぬ。その子が大切な御子だというのなら、礼の代わりに呪いを掛けてくれ』

『呪い?』

『この身が神様などという存在に二度と攪乱される事のないよう、神との繋がりを断つ呪いを掛けてくれ』

『神様は天地万物の祖。因、縁、結、すべて断つなどおこがましく、神様からの借り物である魂をその身に宿すうちは遠ざかるなどもってのほか。しかし、そうか、では、お前の魔力を封じよう』

『癒やしの力は神の力に最も近いと言われる、だから……』

『そのような単純な話ではない。魔力は魔法を使えぬ者にも微弱ながら流れている。それは神様の祝福を受ける力。ゆえに一切の魔力を封じれば、神様の影響を受けない身体、知らず得ている加護さえ捨て去る肉体となろう。そのような者が長く生きられるとは思うなよ』

『構わん。上等よ。では疾く呪え』

『では、最も愛した者の名を、この赤子に授けよ。それが触媒となり己自身を呪う』

『……ミリエッタ……』


安らかな寝息を立てる赤子を抱いて絞り出す声に、しかし何も起きず、グレイの冷淡な茶色の瞳が赤く光り始める。


『本心から呼ぶがよい。此は儀式。己の魔力を絶やしてまで神様への叛意を示すのならば、血反吐吐こうとも喉裂けようとも、お前の悔悟、憎悪、未練、寂寥、すべてを赤子に託し、お前自身が生まれついて得た祝福をこの場にて精算するがよい。さあ、死を死として、生をも死とする屍へと成り果てよ』


いよいよ爛々と光る老修道女の瞳は、これが本物の魔族、いやそれ以上の存在であると雄弁に語り、或いは憎しみからこの赤子への名付けを強要しているかに思えた。

私の大切な、唯一の、愛する女性の、忘れ形見を、この魔族は憎しみを以て育てるというのか。


『ミリエッタ……エタ、エタ……エタ……』


呟きに合わせてシスター・グレイが祝福の様な呪いの言葉を囁いた。赤子が一際輝き、やがてその光が見えなくなる。光の失せた赤子は、髪色だけでなく唇の形や眉の生え方もミリエッタとよく似ていた。シスター・グレイはまだ顔を顰めたまま、赤子を受け取った。どちらともなく踵を返し、それから二度と顔を見ることはなかった。



私が唯一愛した女性を傷つけた複数の貴族家に対しては、あらゆる手段を取って報復を行った。特に主犯であった伯爵令嬢家には念を入れた。婚礼の儀式にて指輪の代わりに焼き鏝を、私自ら処した令嬢がその後生きているのか死んでいるのかすら知らぬが、公式記録としては欲した妻の座に居るのだ、恨まれる筋合いなど一切ない。




「あぁ、花火が上がったな」


鉛の刻、花火。

それを合図に処刑が執り行われ、純粋魔族シスター・グレイの命が涸れ果てた時、五大貴族の血も絶える。

百五十年近く前に祖先が犯した、血を呪われるほどの愚かな行状を今更誰も裁けはせず、ただ五人の男たちと同じ血が流れているというだけで、末席に名を連ねる赤子までもが死を迎える。

これを理不尽と云わず何と云おうか。

しかし、ミリエッタは理不尽に殺され、その死を先導した伯爵令嬢の一族も皆、やはり赤子までもが滅ぼされたのは、当人にとっては理不尽極まりない処遇であったろう。



魔族に預けた赤子は、いつの間にか大きくなっていた。

王宮で出会い、憎しみを以て育てたのではないと一目で分かる姿を見て、安堵を抱けない私自身を恨む。

大聖堂に飾られたモザイク画と瓜二つの封印の聖女の再来だと、騎士も侍女も召使いや下働き、挙げ句は王太子であった今のクラウス国王陛下までもが喜んだあの姿は、私には別の娘にしか見えなかった。



どんと花火の音が届いた。

足を着いて止めていた揺り椅子が再び動き出した気配に、主とともに花火を見上げていた執事は振り返った。


「ジークハルト様っ」


よい、と片手を上げる力もなく、胸に大きな穴を空けたジークハルト・カロッサは穏やかに笑んだ。

ミリエッタ、恐らく君の元へは行けまい。

罪人には罪人の行き場所があるのだ。神を呼び捨てにする私に、神の慈悲は与えられまい。

ただ、あぁ、ただ、死に瀕して浮かべるのが、君ではなく君の代わりと愛したあの子だといえば、さすがの君も怒るだろうか。

君を失ってすぐの頃にディストロから預けられたあの子。

父親と信じた男から捨てられて、隠せない悲しみを抱いた十歳の少年を付き人にしたのは、少しでも気が紛れるかと慮っただけで、初めから関係を持とうと思ったわけではない。

しかしある日私は見つけてしまった。

あの子の茶色の髪に混じる金色が、陽の光に輝いてちょうど、ちょうど頬の横に一条掛かるその輝きが君の白髪に似ていることに。

それでも女性を抱くことはないと誓った身であり、ならば少年は良いなどと不埒に思う筈なく、ただ父を思い出して泣くあの子を抱き締め、父代わりとして宥めていただけなのだ。


徐々に親子の情愛から外れた触れ合いを行うようになり、自然と一線を超えていた。

私はあの子に愛しているといい、父親などもう必要ない、代わりに私が愛すると約束した。汚い大人の口約束だ。

呪いにより滅びる運命が、ふたりを別つと知りながら。


ディストロは、テオが己の子でないと知りながら庶子として引き取っていた。

奴は滅びの呪いに抗えないのならば、血の繋がりのまったくない者に家を継がせれば良いと考えた。家名だけでよい。ディストロという家が存在した記憶を、せめて次代には遺したいと。


テオ、ああ、テオ。

私はかつて愛した娘の代用としてお前を愛した、冷血で薄情で、いかにも心のない呪われた一族の末裔だ。

もはや何も見えず何も聞こえない、この最期のときに、お前の一条の金色だけが光の導きとなり、奈落への道行を些少暖めてくれるのだろう。

暖かいと云ってくれたお前は、本当に暖かだった。生きて、生き続けてくれ、それだけ。

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