<29> 愛憎

『テオ・ディストロを拘束しろ』

いやにはっきりと頭の片隅に陣取っている声、廊下に響いた騎士の声以外の記憶がぼやけている。


朝昼夜の区別が付かない暗い地下牢獄。騎士団が城内で捕らえた不審者を一時収監するための施設だ。通路とは鉄格子で隔たれただけの丸見えの牢には、汚い便所とすえた臭いの毛布が一枚あるだけで、石畳の床にゴザすら敷かれていない。

照明の魔導具などという高級品が使われることはなく、窓のない造りは昼夜なく暗い。通路に僅かに灯る蝋燭の炎が唯一明かりといえるものだが、どこかにある通気口からの風に吹き消され、見張りが往復するときまで真っ暗であることもしばしばだ。

疲れを知らない隣人たちの罵声と鉄格子を蹴たぐる喧しい音が、冷たい石畳に反響する。猿轡でも噛ませておけば良いのに、囚人ならば。そう考えて自らも対象となることに気づき、体を縮こまらせた。

隣人たちは入れ替わるが私は放置されたままだ。声を掛けようが、真似て鉄格子を叩こうが、無視される。ディストロ家の名を出しても、ここは弟の支配が及んでいるのだから意味はない。

死なない程度の最低限といえるかどうかも怪しい食事が、お誂え向きの欠けた皿で埃と泥と汗、小便、或いは血反吐の染みの付いた床に置かれる。どこに置いておけばここまで固くなるのかというほど歯の痕も付かないパン。具材どころか塩気も薄い温いスープはほとんど白湯に近い代物だ。それも手が滑ったとすでに二三回、鉄格子の向こうでぶちまけられている。


何かの間違いだからすぐに解放されると楽観したのだろうか。ここ数日、いや、ここに何日いるのかもう分からないから、より多いかもしれないが、投獄される前数日間の記憶も曖昧になっている。

聖女選定の儀が執り行われると知ってから、方々手を尽くし聖女に相応しい魔力の強い娘を探し出した。成り上がりの奴隷商の娘。強い魔力を制御できない馬鹿な娘。召使い、奴隷、家庭教師、雇われた者が幾人も行方不明になっていた噂から辿りついた。すでに食い物にされていたが、仲間を使い、こちらで身柄を頂戴した。

仲間。

『そんなもの、もういないぜ?お縄か、逃げたか』

足元から聞こえたオットー・デリウズの声。媚びる猫撫声を止めればあれほど不快で、貴族とはとても思えない下卑た声だった。


大聖堂から街の北部聖堂に移されて、成人したての十六歳で司祭と、位階だけは立派になったが同僚である聖職者たちは誰も近づいてこなかった。

出会った彼ら平民たち、いや親のいない貧民たちは、家どころか今日明日の食べ物にも困っていたが、寄り添い助け合う仲間がいた。羨ましかった。

施しは癖になる、居着かれては聖堂の恥になると、年嵩の助祭に叱られたから、知恵を絞った。最初は付近の清掃を仕事として与え、私の手持ちから駄賃を払った。彼らに生きる術を与えたかった。恵まれた者の施し、情けなどすぐに役に立たなくなる。長く身を支えられる何か。それは自分自身にも必要なものだった。

やがて彼らは掛け替えない仕事仲間となった。官吏や護警団に見咎められないキワを突く仕事は、見極めと引き時が肝だ。上手く遣ってきた。はずだった。

また捨てられた私がやっと手に入れた共に笑える彼らを、どうしてデリウズなどに任せたのだろう。

次期聖女の後見人が次期大司教候補になる。聖女付司教筆頭の座は固く、大聖堂の主に近づける。

その座を他の者に譲りたくない。ディストロをもう一度五大貴族として相応しい地位に付ける。私が、庶子であり捨てられた私がそれを成し遂げたなら何れ程みなを見返せるか。

その一心がほかの一切を些末だと思い込ませた。仲間たちでさえ取るに足らないものだと。

失えば。二度と手に入らないのは同じだというのに。



隣の牢との境も石造りで、腰を下ろして背を付けるだけで、体の芯まで寒くなる。手に持つだけで頭の痛くなる臭いが辺りに巻き散らかされる毛布で体を覆う。臭いは慣れるが、寒さは体力を奪い続けると覚えたからだ。

少しだけましになった背中に、幼い日が思い起こされる。

春まだ冷えるころ、今と同じ時分に明々と燃える暖炉の前、膝の上に抱き優しく髪を掬う、五大貴族の当主であるとは信じられないほど柔らかな眼差しを持つ父が背に当たる温かさ。穏やかで静かに、私に向かって、私ではない誰かに話しかける父が、私の中に母を見ていたのだろうと気づいたのは捨てられてからだった。

家名は剥奪しなくとも家に戻れるとは思うなと、十歳で大聖堂に預けられてから今まで、ディストロ家の長である父と顔を合わせたことはない。

捨てるのならば。簡単に捨てるのならば何故。何故温もりを与えた。

それが永遠に享受できる愛だと誤想したのは愚かだったからだと自嘲した私に、父と似た温もりを与えた人も。

冷えが募る。包まる毛布の温かさはもはや失われ、寒さの上に空腹と眠気で朦朧とする。体を起こしておく力も消え、寄りかかる壁が受け止めてくれないなら、冷たい石畳に横たえるしか術はない。

「ジルさま・・・」

絶えるのなら一目だけ、逢いたかった。



・・・・・・・・・・・・・・・



「逃がしたとはどういうことだ!」

怒声と同時に振り上げた拳は、目の前の部下には振るわれず背後の机に叩きつけられた。顔を顰めたのは思ったよりも痛んだからか、やはり殴っておくべきだったと後悔したからか。

カディス・ディストロ騎士団長代理は己の兄、一族の汚点ともいうべき庶子の兄が地下牢より逃亡したとの知らせを受け、激高していた。

罪人ならば何をしても良いと喜んだのは束の間だった。王都の屋敷にある蒐集品の幾つかを騎士団本部に持ち込み、試してもよいなと巡らせる間もなく、必要な人材だから手出しは無用と厳命された。ギュンター騎士団長が休暇に入る前、直々に——明らかにこちらの思惑を知った上で——命じたのだ。

地下牢でできるだけ弱らせろ、食事も睡眠も削れるだけ削れ、ただし、殺すな。

与えられた命令はほとんど拷問だが、あの美しい兄が汚れ弱っていくのを眺めるのも一興だと思い直した。特に手入れを怠らない真っ直ぐな茶色の髪に流れる金色の一房が、塵と埃にまみれ、牢獄の汚物臭さや自らの汗や涙に汚されていく様を観察できるのなら、楽しみの一つを先延ばしにされても辛抱できる。

『用が済めば貰えるかもよ、でも彼、人気者だから、上手く遣りなよ。そこにある塵みたいに転がされる前に』

その塵を、オットー・デリウズという名の付いた人間からただの肉塊にしたのは騎士団長だったが、五大貴族本家の血筋とはいえ既に放逐された四男など、生きていても塵以下の存在だ。跡取りの長子の命を狙ったお尋ね者が、上に取り入って地位を得たと考えたなら甘すぎる。便宜上司祭位を与えられ、処分に猶予が付いただけというのに。



「しかも騎士がひとり重体だと!」

今度はしっかりと重い蹴りが部下を捉え、控えていたもう一人にぶつかり共に転がった。受け止めもできないなど鍛え直せ、とさらに罵声を浴びせて肩を怒らせたまま背を向け、騎士団長室の窓へと視線を移す。窓の外は暗く、映るのは醜悪な自分の姿だ。

虫も殺せない柔和な父親、実際は五大貴族当主であるから必要な手配、例え命を奪うことであろうとも命じてきたであろうが、その父親に似た気性の兄。

希少な氷魔法の遣い手でありながら——現在騎士団に氷遣いはいない——騎士ではなく聖職者になったのも、その気性と。

『あの美しい顔に傷の一つでも付けば、価値がなくなるでしょう?お前と違って美しいのですから』

『血の繋がりのないことをこんなに嬉しく思う子どもなんていないわ。お前は半分繋がっているのだから欲しがっては駄目よ』

愛情と憎悪を同時にこれほど抱けるものかと狂気を宿す母の目を恐れたが、気づけば私が兄を見詰める目も同じ色を宿していた。母の血を受け継ぎ、母の目を、あの美しい兄を汚す欲求に囚われたあの目を長く見過ぎたのだから当然だ。

拷問を仄めかして憂いに歪む表情を愉しむのではなかった。捕らえてからまだ四日だというのに、精神も体力も思った以上に弱り、牢から出し介抱していたところで逆上したのだろうとは現場を見た部下の報告だ。

小心を過小に見積もっていたことも、怯えから逃亡するなど考えもしなかったことも落ち度だ。

だが、見張りの騎士を害して逃げ出したのなら。

「何としてでも捕らえて連れてこい。少々傷つけてもいい。ただし、顔と髪は傷付けるな」

それが許されるのは私だけだ。

嬲る口実に身の内で理性が弾けそうになるのを堪えながらカディス騎士団長代理は命じた。



・・・・・・・・・・・・・・・



・・・ちゃん・・・

ルッツとして報告会に参加したあと、簡素な旅装の騎士服姿のクンツは北部駐屯地の門から施療院の方を振り返った。手の平から溢れ落ちた慕わしい鈴の音が聞こえた気がした。



陽の光に煌めく蒼玉がふたつ、肌理細やかな面に揺れていた。真ん丸に戯ければより輝きは増して誰もが覗き込む、その精神を閉じ込めて逃さない宝石は言の葉を紡ぐ。目の前で鳴らされた金属の音、よく手入れされた柔らかに響く音色に、意識は今し方眠りから覚めたばかりと流れ彷徨い見失う。

ぷっくりと形良く膨らんだ桃色の唇は何もせずとも艶を持ち、二つに分かれその間から控えめに覗く歯や舌が快活に動く様子を眺めているだけで一日が過ぎる。

白金色の髪は整えなくとも緩やかにうねり、薄暗がりを好む柔肌の白さを更に際立たせ、特に細い頸に掛かる一筋二筋を人差し指と中指に挟んで後ろに流す仕草には大人びた色が滲む。修道院暮らしで時々水で流すだけの髪が、例えようもない芳香を撒き散らし、厳しい顔しか見せない年配の修道女でさえ時折一束を軽く摘まんで鼻先に寄せる。人の気配のない隅で小さな娘の髪とうなじに顔を押しつけ一層甘く香る背徳を胸の奥まで吸い込むとき、修道女は神様への献身、己の道を為すための修行、それから実に当然の話、赤子から育てた孤児への分け隔て無い愛情などすべて捨て去り、我欲に脳髄が溶け落ちる至福を得る。


誰もが妹を愛した。

連れ去られてはいけないと庭先で遊ばせることもなく、柔肌に傷を付けてはいけないとほかの者が交代で受け持つ炊事や掃除も免除された。

美しい少女に対する配慮はその者が持つ天へ通じる気高さとは真逆の、地べたを這いずり回る人間が持つ腐臭を放つ澱で出来ていた。

あの青い宝石に映り込む清潔さの欠片もない汚らわしい孤児たち、額と額が擦れる近さで麗しい唇から漏れる吐息を浴び、代わりに存在意義などない体に纏わり付く垢のついた手で触れる。

あの白く細いうなじにふうわり掛かる白金の線、螺旋を描く一本を抜き取り、懐に入れた修道院長の下卑た眼差し。色欲に取り付かれたあの眼に見詰められれば、脳内で如何様にも撫で回し舐め回し辱められる。


曇らせてはいけない貴人が側にいなければ忽ち緊張が皆を支配し、疲れ果てた年嵩の修道女がやがて、引き取りたいと申し出る貴族を連れてきた。

品の良い壮年の夫婦はにこやかに妹を見、明日にでも準備を整えて迎えに来るからと、修道院長に頭を下げて帰った。貴族が、貧しい修道院を切り盛りする平民の院長に頭を下げていったのだ。

しかし妹が貴族の養女になることはなかった。その夜のうちに、兄貴分のヤーボと俺たち兄妹は修道院を逃げ出した。

『すぐに飽きて玩具として売られるに決まってる。クンツも妹と離れたくないだろう?』



十二歳と十歳と八歳。

王都北部の貧民街では別に珍しくもない。修道院のあった王都南部から北部まで移動するのに多少苦労したが、妹の分もずっと仕事をやってきた俺にとってはどうってことなかった。

言い出しっぺのヤーボの体力の無さには辟易したが、この兄貴分は頭脳派だから仕方ないだろう。

上手く空き家に入り込み、人が来れば言いくるめ、日雇いの仕事を見つけて俺を派遣した。兄貴がいなければ子ども三人で生活などできなかった。

それでも綱渡りの生活の上、妹を隠す不自由。外に出なければ白い肌は透き通るばかりの病的な儚さを生み、立ち座りにも大仰に付く溜息には以前よりも艶が増した。

隠せば隠すほどより隠さなくてはならない美を内に培う少女をどう扱えば良いのか。

問うた俺を安堵させる兄貴分の閃きの中身は、今も分からないままだ。



修道院から逃げ出して一年も経たぬうちに、手違いで人買いに連れ去られた俺は、傭兵団を名乗る野盗の一味に拾われ、死体漁りと死体作りの日々を送った。

俺を失ったヤーボ兄貴と妹はどうやって暮らしているのだろう。それとも妹もすでに誰かに買われてしまっただろうか。

王都から遠く離れ、戻ろうにも路銀もなく、そもそも野盗から抜け出せるのは死体になったときだけだ。互いを見張るこの共同体から逃げ出す術は、子どもである俺には無かった。

五年ほど過ぎて成人した頃、傭兵として雇われていた村で仲間と揉めた。村娘は俺を玩び、娘と恋仲であった年長の仲間が嘲りとともに背を腹を幾度も蹴った。何を言われたのかは忘れたが、その一言に激高した俺が気付いた時、逢い引きに使っていた廃屋に動かなくなったふたりが転がっていた。俺は火を付け、混乱に乗じて荷物と金を失敬し、村を逃げ出した。



やっと王都に戻れたのはさらに一年後だった。もう十七になっていた。妹が生きているなら十五だ。かつて暮らしていた空き家には誰の姿もなく、正体を明かさずにふたりの行方を聞けば、妹は施療院に、ヤーボ兄貴は護警団預かりになっていた。

北部施療院にいた妹は全くの別人だった。

手入れせずとも光に色合いを変える白金色の髪は艶を失い真っ白で、病からか量も減り、浅黒い地肌が露わになっている。水分なく皺が深く入った唇は割れ、滲む血もまた浅黒い。そこから漏れる吐息は、死に病に冒された者特有の腐肉の臭いがして、折角の再会だというのに顔を背けるほか無かった。

錆びた蝶番が立てるのと似たしゃがれ声はお兄ちゃんと呼んだ。

体が辛くて閉じているのだと思っていた瞳は、開いてもそこに蒼玉はなく、濁った別の何か、ぶよぶよとした魔獣の死骸の脂のような何かが埋まっているだけだった。

こちらに来た時にはすでに何も見えなくなっていたと、案内してくれた修道女が教えてくれた。

『ヤーボにいじゃなくて、お兄ちゃんが、ずっと一緒にいてくれればよかった』

妹は、死んだ。



鼻先に甦る死臭を砂煙を立てる風が吹き遣ってくれたが、鈴の音の代わりに別の声が聞こえた。

護警団から地方の鉱山に送られることになったヤーボ兄貴に、一目だけ会うことができた。片腕を失い、片足を引き摺った兄貴は縄を引かれながら、それでもギラついた目を向け、耳元で呪詛を吐いて去った。


『俺たちをこんな目に遭わせたのは、テオ・ディストロって聖職者だ。忘れるな』

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