<30> 通じぬ思い、通じる思い
——汝の務めを果たせ——
それは啓示だった。
天から、神様から贈られた進むべき道すじ。
耳というよりは体全体を包むように撫で、じんわりと肌から内側に浸透してくる声。光であり闇であるそれは言の葉という姿を借りて身の裡に入り、一皮裡側に入り込んだ途端に本来の姿である清浄無垢な力に戻る。力は、誇示せず、強いず、然れど反する何をも受け付けない、純然たる力。
頭に、体に、清澄な力、神様の気配が満ちる。
ボリスの手は掴んでいたエタの胸ぐらを緩めるとそのまま自然と体側に降りていった。エタの上気した頬も一息に冷え、不自然なほどの陶器の白色に変わった。跪いていたネッケは床に頭を擦り付け平伏した。
続く声を聞き逃すまいと微かな身動ぎもせず、息を詰めて待つ。
務めとは、神様が求める務めとは何か。自分は何のためにこの地に再び降ろされたのか。息苦しさに視線を下げるといつの間にかエタ自身の手が胸元を握っていた。掴むほどの厚さもない服の中をも掴んで。
しかしそれ以上の声は響かず、代わりに廊下を近づく革靴の音が耳朶を打った。
「人間以外ほぼすべて消し去ったのですか。さすが封印の聖女、いえ新聖女エタ様ですな」
異常を察知したのか元から様子を伺いに来るつもりだったのか、地下から移動する際に出会った侍従——チョビ髭——が、部屋を一瞥して感想を漏らした。特段驚きもしないところをみると、この事態を想定していたとさえ思える。
ベッドもソファもテーブルもラグも、おおよそ人が暮らしていた気配というものはすべて失われた部屋には、両側の壁に据え付けられたクローゼットや扉の取っ手すらない。それどころか部屋に入ってすぐ目に付く真正面、厚手のカーテンに覆われた大きなガラス窓とそれを囲む壁までもが完全に取り払われ、ベランダと一続きになっている。さらにそのベランダの柵までもが失われていた。
すべて消し去った。
他ならぬエタの所業だ。ロナが着せてくれた青いワンピースが無残に引き裂かれ、それを掲げる侍女と赤いご令嬢の悪意塗れの笑みを見たところで意識が飛んだ。
いや、切れ切れの意識でも自分を誘導する別の——ご令嬢など比較対象にもならない——悪意に逆らおうと全霊を注いでいた。が、やはりそれは言い訳に過ぎない。
ボリスの機転とネッケの行動がなければ、どうなっていたか。
それにしても。
暗闇に振りかぶられる白い手、自分の祈りとその人の祈りが共鳴して悪意を払う手が目に映り、軌跡を予想した時、そこにまだ残る温かさを砕かれると意識の半分が奪われている状態だというのに咄嗟に避けたのだ。
『驚いただけなのだが』
同じように飛び退って避けたその人の言葉を思い出し、それが大切な人との大切な記憶に基づくのだと今さらながらに察した。
であるならば、自分が避けたのも同じ又は似通った理由に依ると考えられ、幾人かを思い浮かべながらそんなはずはないと蹲った。
また顔が火照りそうになる。
チョビ髭に血色の良いところなど見せてやるものか。
「傷も精神も回復させたはずだから静かに寝かしといてやって」
苦い表情を繕い、素っ気なくいう。
ぐったりと意識を失ったままのご令嬢たちをほかの侍従たちが運び出していく。巡回騎士の報告により大聖堂から回復司祭も駆けつけているのなら詳しい容態も確認されるだろう。尤も、自分が回復させたのだからそれ以上の回復は必要ないはずで、彼らは目覚めた後の無事を確認するだけが仕事ということだ。
「あの女性たちに関しては我々が対処致しますので、新聖女様のお手をこれ以上煩わせることはありません。では、このような殺風景な部屋で新聖女様にお過ごしいただくわけにもいきませんのでどうぞ新しい部屋へご案内いたしましょう」
髭はこちらを睨めつけながら一礼すると返事も待たず扉から出て行った。
案内された部屋は家具が独特の色で揃えられていない普通の部屋だった。もちろん王宮の王太子区域にある客室だから調度は高級品で揃えられており、触れるのにも気を遣うほど磨き上げられている。
侍従の一人が怯臆の色を隠しながらワゴンを運んできた。真正面に据えられた目は部屋にいるエタやボリスのみならず扉脇に控えるネッケすら細心に避けている。信心と教養の深い者ならば、口からは漏れずとも聖詞が頭の中で回っているはずだ。<平穏><救済>あたりが。
テーブル横まで来ると畏縮した動きでこちらに一礼し、未だ血まみれの侍女服姿であるボリス——短髪で化粧も落ちているが女性に見えなくはない——に茶葉や茶請けの説明後、急ぎ足を悟られぬような急ぎ足で戻っていった。
「疲れただろう、ネッケ。こちらで一息付いて」
まずは先ほどの礼を、とボリスは頭を下げる。扉を施錠したネッケは遠慮を押し切られ、テーブルに着いた。
「エタは・・・まぁお説教はあとにしよう。寛いでおいて」
侍従に持ってこさせた侍女服を持ってシャワールームに消える。
エタも同じテーブルに着き、お茶を手に取った。さすが王宮の茶葉は香りから違う。湯気に真上から息を吹きかけ、より白く上がる香気と温度を吸い込んだ。子ども染みた所作に笑えてきて、その顔でネッケを見るとやっと笑顔になった。
が、すぐに萎れた作り笑顔に変わった。
「私は。騎士といっても、義母の実家の後押しでねじ込んだというだけのこと。真っ当でない思惑が、私自身の思いとは別にあったことなど考えもしなかったのです」
この茶には口を付けなくとも心の内を曝け出させる効果があったらしい。エタと同じく湯気に当たっているだけのネッケは、これまでのことを話し出した。
「先ほども申し上げましたが、封印の聖女を守る騎士団長に憧れました。もちろん勇者と聖女の物語の影響です。幼いころ大好きだった、母が毎夜語ってくれた物語でした」
母はネッケが八つの時に亡くなった。騎士になって守ると約束したのに、その前に。
だから剣技も魔法も人並みでも騎士になれたときは大いに喜んだ。義母の実家の口利きがあったのだとしても、手柄を立てて見返せば良いと。
だが、基礎訓練が終わってすぐに魔の森の任務を与えられた。隊長に助けられ、そこで命を落とすことを期待していた義母の企みからは逃れたと思ったが、無事の帰還を祝うどころか戻ってすぐ、今度は塔に常駐する任務を命じられた。
過酷な任務だ。王都に戻る人間よりも補充される方が多い。突然の命令に呆然とするネッケに、同僚は逃れる方法を耳打ちした。
それが同僚騎士の従騎士になることだった。王都の正騎士ではなくなるが、一応は騎士であるし、何より魔の森という死地に赴かなくてよくなる。
家格が上の同僚騎士は肩を抱いた手でネッケの腕をさすりながら付け加えた。
『俺はもうすぐ騎士をやめ、家を継ぐ。お前もずっと側に置いて守ってやるからまずは従騎士になれ』
その意味するところが分からぬほど子どもではなく、もしや騎士団自体が義母と共謀しているのではと恐ろしくなり逃げ出したところをボリスに拾われた。
「母は五大貴族と縁のない男爵家の出でしたし、才覚という意味でもカロッサ遠縁の義母の子である弟の方が当主に向いていると再三告げてきたのです。
しかし言葉では安堵できず、家から追い出す方法として二通り、あの世か他家の愛妾、つまり所有物になるか。父の後添えは私を・・・ネッケと名乗らせることさえ嫌なのでしょう・・・」
話し終えると背もたれに体を預け目を閉じた。微かに潤んでいた目元からは、しかし涙は零れなかった。せめてもの矜持を示して、ネッケは静かな寝息を立て始めた。よほど疲れていたのだろう。先ほどの件だけでも精神的負荷は相当な上、その前は王城を逃げ回っていたのなら体力的にも限界のはずだった。
「・・・実際、危険で楽しみのない塔任務の騎士からは、若い可愛らしい騎士を寄越せと要望が来るらしいよ・・・お待たせ」
シャワーの水分が残る髪を手で梳きながら、真新しい侍女服に着替えたボリスが戻ってきた。眠ってしまったネッケをふたりして眺める。小柄で、子どもというほど幼くはなく、然りとて男性というほど体格も声も大人びていない。なるほど打って付けなのは分かるが、本人の意思を無視するのは如何なものか。
「昔からよくある事だけど、無理矢理はなぁ。・・・良いタイミングで寝ちゃったけど何か仕込んだ?」
「精神を落ち着かせる効果のあるお茶だけど。まぁほら、漂ってたからじゃない?」
「神様の気配。いや、平穏の祈り、<祝福>か・・・」
その祈りの主を思い出すとまた顔が熱くなり、エタは片手で顔半分を覆ってボリスの視線を避けた。だが、意識していると丸わかりの態度に、むしろ誤魔化す必要があるのは自分自身だと気づき、立ち上がると足早に窓辺に移動する。
「申し開きの時間だというのに、逃げるの?」
「いや、少し気持ちを落ち着かせるためにも外に出ようかなー、なんて」
そうして窓を開ければまた夜に混じる聖なる祈りを感じ、触れた手を思い出すのだろうかとエタが躊躇する間に、ボリスはすぐ側に来ていた。
ニッコリと微笑むと、エタの代わりに掃き出しのガラス窓を開く。
夜風が吹き込む。お茶で温まった体がまた冷やされるが、顔の火照りが取れるのなら別に構わない。何より祈りの気配が漂っていないことにホッとした自分に、エタはまた蹲りたくなるのを堪えた。
そんな少女の葛藤など気にも留めず、ボリスは夜闇に向かって声を掛けた。
「やぁロアンナ。待っていたよ」
腕で押しのけた姿勢でベランダに向かって掛けたボリスの声は殊更に甘く優しく、殆ど耳元で聞かされたエタの背中をぞわりとした感触が這った。森の中で油断して服の中に羽虫が入った時の感触に似ているそれは、腕まくりせずとも分かるほど肌を粟立たせた。謝罪を要する相手の突然の来訪にそれどころではないというのに。
「サブイボ立つから止めてくれるかなー?」
ロナが苦い顔で入室する。
エタはその表情は自分に対してだと感じて一瞬だけ俯いたが、すぐに視線を魔族女性に戻した。
「あのさ、ロナ・・・ごめんなさい」
窓際から動けず、視線だけは部屋に入ったロナから離さずにエタは声を掛けた。癖になってしまったみたいに、右手が胸元を握りしめる。
テーブルの方に歩きかけたロナは、数歩を戻り、エタを真正面から見据えた。ゆっくりと右手を平を見せながらエタの頬のすぐ横に構える。
「何についてです?詰まらない謝罪なら、私の身が自動反撃で切り裂かれようとも殴り倒します」
普段のゆったりとした話し方ではなく、毅然とした口調でいった。
エタは気圧されて黙り込みそうになり、慌てて口を開く。
「あれは形見だって・・・でも、それよりも」
言いかけてロナの瞳が少しだけ揺れたのを感じ、もっと大切なことを思い出した。
——・・・レ、・・・ーレ
マルベリは塔で彼の名をただ、呼び続けた。
愛する人に会いたかった。連れ出して欲しかった。助けて欲しかった。
名を呼ぶ、ただそれだけの行動にありとあらゆる感情を乗せて、壊れた精神は名だけを呼んだ。
けれど愛する人は姿を現すことはなかった。彼はマルベリの手の届かないところに行ったから。マルベリが、自分の手の届かないところへ彼を送ったから。
そんな思いを、ロナに強いるところだった。怒りに我を忘れて力を制御できず、ボリスまで手に掛けるところだった。
ボリスのふざけた言葉も、ロナの適当なあしらいも、生きているからできたことだ。
どこかもう通じ合ってるように見えるふたりに、もっと強い絆を持たせたい。
謝罪よりも大切な用事ができた。
「ロナ!」
「な、何です」
「今すぐ。今すぐ、返事をして」
「はい」
「違う!ボリスのっボリスに、返事!プププ・・・ズ・・・の」
プロポーズという言葉を口にするのが恥ずかしかったのか、返事がノーの場合もあるということに気付いたのか、エタの勢いは途中で失われ、どこか情けない顔になった。
この少女は。自分を顕示せず。
必死の形相で迫って。大切だと示して。掛け値無しの友人であるかのように。
反抗などできるはずがない。
ただでさえ、
嬉しかったというのに。
ロナは泣き笑いになるのを堪えて、できるだけ軽く。
「はい。じゃぁ、おっけー。これで宜しいでしょうか、って、きゃぁ」
エタと見つめ合う形になっていたロナを横抱きに攫ったボリスは、そのまま三回転した。そんな雑な返事で良かったんだろうかとエタが心配する前に、ボリスの、子どもの頃に戻ったような朗らかな笑い声が部屋に響いた。
「パウラ様のところで説明した通り、うんと年上ですよ、私」
「魔族に年齢なんて関係ないよ。それに」
ロナがいいんだ。愛してる。
そういって下ろすと、侍女服姿のボリスは同じ格好のロナを抱きしめた。
ロナもぎこちなくボリスの背中に手を回すと、小さく呟いた。
おねぇちゃん、にいさん、ありがとう。
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