<58> それを情けというのなら

『我が身に罰を与え給え』


森の奥から届いた咆哮は、聞き慣れない言葉で確かにそう言った。カミルの表情が変わったのを、テオは斜め後ろから見た。辛苦を耐えて引き結んだ唇、悲痛に青醒めた頬の影。哀惜を湛えた瞳の色は他の何かを抱いているようにも見えた。だが、たった一度の雷光の明滅に咆哮も表情も消えてしまい、カミルは険しい顔でミミルを叱りつけた。

その叱咤は自身の感情を切り捨てたのだと、テオには思えた。



「ひっく……リっ、ース、ニコ貸しって」


しゃくり上げながら、ミミルは振り向く。リースはミミルと手を繋いだ。リースのもう一方の手指は、抱っこ紐の中のニコが握っている。

ミミルは空いた方の手で覗き穴を作り、左目の前にやった。四本の指と親指でできた輪っかから白い光が漏れる。遠眼鏡のようで、実際、森の様子を伝え始めた。


「……森の真ん中、第三塔のあったらへん、穴が空いてる。殺到していた魔獣の影はない。周囲にいた魔獣はバラバラと移動していく。

大きな魔力に惹かれて集まっていた魔獣たちが、核を失って拡散。いや、違う」


言葉が途切れた。忙しなく首を動かす。探りながら考えている。

テオも目を凝らした。確かに、轟音の前に空から降りていた魔獣たちの黒い線は消えている。代わりに立ち昇る黒煙のせいで、ぱっと見では変化なく、見落としていたのだが。上から下への動きと下から上への動きを、暗がりに明滅が繰り返されるこの天候の中、見極めるのは簡単ではない。

木々に遮られ、森の中にいる魔獣の動きなどは到底見えるはずがない。ミミルの仕草は、魔法か身体強化なのだろう。


「……木が倒れてく、移動方向は、ふたつ。北と南……。速度と距離から一刻半後には到着見込み」

「なら、押し出される形で、すぐに小型の魔獣が増えてくるわね」


『生き延びるための作戦』を立案したのはミミルだ。城壁まで走る道すがら、掻い摘んで説明している。

現在、王都に居る人の安全をもっとも脅かしているのが、上空から迫る鳥型の魔獣だ。上空で旋回しているというのに、テオですら目を凝らせば鳥——太い嘴と鋭い目、力強い翼を持つ猛禽類だと視認できる大きさの魔獣が、けたたましいほど甲高い威嚇の声や雷鳴の合間に響く低い唸りを上げながら、見渡す限りの空を埋めている。数万匹か、数十万匹か、あるいはもっと多く。

今のところは王都上空にある結界に阻まれて降下できないでいるが、繰り返す衝突により結界の消滅も近い。

あの数の魔獣が一気に降下してくれば、氷の聖女として魔物を討伐していた王妃パウラですら敵うまい。

魔獣の降下を防ぐために、王都の上空にを流す。魔獣や魔物は魔族と同じく魔に属するモノであり、ある種の聖詞に対して忌避感がある。王都を覆う結界の上に流せば、空の魔獣をある程度退けられるはずだ。


問題点のひとつは、先ほどミミルが不可抗力にて見せた通り。

王都の結界の上に流すのだから、結界の切れ目に出なくてはならない。空の魔獣の良い餌だ。聖詞の効果がどれほどのものかは分からないが、効き始める前に餌食に——文字通りの——なるのが目に見える。だからこそ、周囲を守る人員が必要だ。

もっとも、矢筒を引きずりながら歩くリグと戦闘経験の殆ど無いテオが役立つかは疑問だったが、カミルが大丈夫だというのだから、大丈夫だろう。

そしてもう一点。地上の状況だ。

魔の森の主として君臨していた魔物——かつてカミルの仲間だった男が死んだことで、想定以上の数の魔獣が、想定よりも早く押し寄せてくる。地鳴りに地響きが混じったのが、テオの耳でも分かった。城壁に伝わる振動が、微かに増えた。往時の魔族ですら相対するのに苦労したという魔獣の群れに、王都の城壁が保つのか。


カミルはもう一度ミミルの頭に手を置くと、優しく一度撫で、ありがとうと言った。一歩下がってゆっくりとしゃがみ、背負い袋を城壁の上に下ろす。中身がもぞもぞと動いた。リグが袋の口を開けてやり、作戦の要の人物は、やっと頭を出した。


「後のことは、お任せいたします」


カミルは丁重に礼を取る。それから、テオの方へ手を伸ばした。

笑ったのだろうか。

傷のために右の目尻が左よりも長く見え、腫れた瞼は気を抜くと瞳を隠してしまう。元から分厚かった唇は以前よりも太くでこぼこして左側が引き攣れて上がったままだ。

だが、雷光に照らされるたびに朝日のような鮮烈な色合いを示す髪が風に舞い踊るさまと、何より穏やかな瞳の色が心を締め付けた。

命懸けの戦いで、なぜ、このように安らいだ顔ができるのだろう。

カミルの節くれだった大きく太い手指に、テオは自らの手指を絡めて握り込んだ。繋いでいない方の手でカミルの頬に触れる。主であるパウラに幾らかは回復してもらったというが、指先が、膨らんだ頬からさらに盛り上がったみみず腫れを辿った。手のひらで頬を包む。幾らかでも腫れと傷が引けば良いと祈りながら。


「……終わったら、一緒に私の故郷に行きましょう」


さよならと同義の科白を、カミルは掠れた声で言った。

これからカミルは、王都の外、魔の森の方へ出て、北城門周辺に近付く魔獣を討伐する。王都の城壁の中にいる人びとが、ひとりでも多く生き残れるように。

ミミルの作戦の一部だ。城壁での作戦の遂行の要の人物を運んで、後は別行動。地上にて城壁に近づく魔獣を殲滅する。

王都を取り囲む城壁の周囲には、騎士団を率いた王妃パウラがすでに出ているが、大規模な殲滅魔法を得意とするため、草原や農地などの見晴らしの良い方面に出陣している。魔の森の魔獣に関しては、先ほどまではカミルの仲間だった男がひとりで


自らを顧みなず他人に尽くす行動は、賞賛すべきなのだろう。けれど、名も知らぬ他人のための献身、否、犠牲を、どうして認めなくてはならない?戦いを他人に押しつけて震えるだけの民や、混乱に乗じて火事場泥棒を行う輩の命をなぜ守らなくてはならないのだ。


「ね?」


幼子に言い聞かせるような声音でカミルは言って、唯一動かせる手を解いた。ささくれだった指先でテオの目尻を拭い、ぺろりと舐る。もう一度テオの瞳に微笑み掛けた次の瞬間には身を翻し、城壁から飛び降りた。テオの目の中で残像が霞んでいる間に、どたん、と重く響き、今度は下から怒鳴り声がした。

寄越せ、行くぞ。

ちょうど元第二騎士団の男たちと合流したのだ。得物の重戦斧を受け取り、魔獣の地響きに混じる足音で駆けていく。


「情けを掛けただけ……憐れみじゃないか……」


テオは思わず呟いた。また、捨てられたのと同じだ。

置いて行くのなら、情けなど掛けないで欲しかった。浅はかにも期待を抱いて、天の怒りよりも世界の破滅よりも、ただひとりを失うことに絶望するのだ。


「早く追いかけるが良かろう」


背面から聞こえた耳障りな声に、はっとした。潤んだ瞳から瞬きで涙を押し流し、薄汚れた袖で乱暴に顔を拭う。鷹揚を装って振り返ると、聖職者が片膝でテオを見上げていた。閉ざされた瞳ではテオの様子は、涙の跡は見えはしないが、そも関心など余りないようだ。体を起こすついでにでも声を掛けたように顔を逸らし、不揃いに伸びた深緑色の髪を後ろに撫でつけ、血や泥で汚れた聖衣の胸元を両手で整えた。

額の十文字の大傷と引き攣れがなくなった相は、テオが見ても聖人然としていて、むしろ本来の姿を隠す為に傷があったのではと疑いたくなる。

リグの手を借りて立ち上がると、再び聖職者は口を開く。


「聞こえなかったか?早く追いかけるが良かろう」


このめ、とでも言うように。テオは何とか掴みかかるのを辛抱して、言った。


「カミルは、アンタを守れとっ。だから、私は。それに、」

「それに?」

「私など、必要ないのだろう、カミルには。使い捨てのコマに、情けを掛けた……いや、気まぐれで、だから」

「だから?」

「だから、あれは、あの言葉は……」



『愛して



軟禁された塔の一室、テオを抱きながら掛けた言葉自体が証左なのだ。

自らの行動により恩恵を与えるという言葉を用いたのだから。カミルは、テオを傀儡にすべく薬物と呪術と行為を行った。上の命令で。カミル個人の感情など介在するはずがない。

どれほど優しい声音で愛していると言ったところで、どれほど優しい手付きで髪を撫でたところで、職務に忠実であった証拠でしかない。背に当たる肌のじっとりとした温もりを覚えているのは、きっとテオだけなのだ。

だから。


テオは知らず指先に絡ませていた己の髪を見た。金色に一条だけ混じる茶色の髪。父が梳いてくれた髪、ジル様が口づけた髪。

ジル様に捨てられたあと、己の顔の横に流れる一条に鋏を入れようとした。何度試してもできなかった。鏡の中で髪を握るのは、ある時は父の手で、別の日はジル様の手だった。姿は薄ぼんやりと霞んでいて、表情は窺い知れない。それでも柔らかい雰囲気なのは分かった。はっきり見えるのは手だけだったが、根元からすべて抜いてしまえと、憎しみをもって握りしめて引っ張っている己の手が鏡の向こうでは違って見えた。柔らかに力の抜けた手の甲が慈しみに、するりと髪に通る指先が優しさに見えて、鋏は滑り落ちた。

ふたりが一条の髪の向こうに他の誰かを探していたことを、テオは知っていた。いつの間にかテオ自身も特別な一条の向こう側に、愛する人を探していた。


『髪飾りが要らないなんて便利だわ』


ある時、テオの髪を金盥で洗いながら、カミルは言った。一条の茶色を、ただの飾りだと。なんてことはない髪に、囚われていたのは己の方で、今この瞬間でさえ囚われていた。

職務上ならばまだ良い。カミルもまた、誰かの代わりに己を愛していたのだとしたら。だから簡単に捨てていけるのだとしたら。

けれど。


「あの者の思いを情けというのなら、世のすべての情愛を情けと呼ぶのだろう」


今度は諭すような声で聖職者はいった。

上げた視線が、聖職者の閉じた瞼の裏から伸びる視線とぶつかった。

テオは森を見やった。カミルの姿は、繁茂する木々の破れ目に見えつ隠れつしていた。

まだ、今なら追いつける。


「……私は、お前が嫌いだ。だから、礼は今度に取っておく」


振り返らずにテオは城壁から飛び降りた。先ほどのカミルよりも数段軽い音で地面に着き、そのまま森の中へと駆け出す。

地表に降りてしまえば、カミルのみならず、騎士の姿も見えない。繁茂する植物に視線は遮られ、地衣類が足元を掬い、蔓や蔦は行く手を遮る。

絡みつかれて絶命した小さな魔獣が木々にぶら下がり、いずれもが小さな魔道具程度なら破壊してしまうほどの魔力を放出している。

だが、蒸せ返るような魔力の中でも、テオにはカミルの居場所が分かった。カミルの魔力は魔獣に負けないほど濃く、力強く、そして慈愛に満ちている。

テオはカミルのいる方へ叫んだ。


「カミル、俺も行くっ」


ともに戦おう。ここが死地だとしても、抗える限り。

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