<57> 我が身にこそ罰を与え給え
一時、痛いほどに打ち付けていた雨が止んだ頃、王都の北門近くの城壁に大小混じった幾つかの人影があった。
王都を囲む城壁は、東西南北の各門の左右及び一定間隔を開けて数カ所ずつの監視塔を持ち、城壁自体も歩くことが可能な構造になっている。ただ、幅は狭いところでは大人の両手を広げたくらいで、柵もない。
王城の周囲に発展した王都の守備のために、二百年近く前に造られ、魔族ですら容易に超えられない高さを誇る。落ちれば大人でも無事では済まないというのに、足取り軽やかに進む小さな影が、急に立ち止まり、いま初めて気付いたように上空を指さした。
「おそらまっくらぁ〜〜」
「はいはい、真っ暗だねぇ、リースちゃん」
「あっち燃えてるよ〜〜」
「あっ、ちっ。また燃え広がりそうか……あぁっ、リグっ、あんまり端歩いちゃダメだっミミルもっ。ミミ……って、おいっ」
「ぷっふふっっ」
テオ・ディストロの様に堪え切れず、カミル・ヴェンツは吹き出してしまった。聖職者であったころの、誰をも冷たく遇っていた気位の高い男と同じ人物とは思えない。
テオの片手は、オース修道院の孤児で最年少零歳児のニコを袋状の布で抱っこした三歳のリースと繋がれている。ニコを落とさないようにサポートしつつ、好奇心旺盛な六歳のリグにも目を配り、更には、仲間の世話は任せきりで空の様子を伺いながら先を歩くチームリーダーで十一歳のミミルまで気遣っているのが見て取れる。
「だって。子どもの扱いに慣れてるなんて、意外で」
「ちっ。昔、聖堂で押し付けられたんだ」
テオはすべてを思い出している。カミルが施した呪法を含む精神操作はもとより、大聖堂から街の聖堂に移された頃に始めた、心を安定させる薬物と魔法の影響からも脱している。生きていく上で忘却すべき記憶をも取り戻してしまったテオに考える間を与えぬように、カミルは子どもたちの世話役を与えた。
「……アイツらにも悪いことをした」
それでもテオの口からは悔恨の言葉が出て、リースと繋ぐ手が緩む。
小さな女の子は、軽く跳ねて赤ちゃんを抱き直した。使い古した細い紐で結んだ葡萄色のクルクル髪が、テオとの間に太い楕円を描く。ニコが笑い声のような小さな声を上げて、リースは合いの手のように、テオの手を二度三度握った。ざらついた指が離れないように、テオはリースの手を握り返した。
温もりに救われているのはアタシも同じね。三人のようすを後ろから見て、カミルも大荷物を背負い直した。
ぎしゃーー。
耳障りな叫びに引き戻される。和んでいる暇などない。
上空を旋回する魔獣が増えてきた。正確には、城壁に上った七人の頭上で隙を伺う魔獣の数だ。さらに上、王都を覆う魔獣が幾らいるかなど、数えようもない。
テオに注意されたというのに、リグが城壁の下を覗き込んでいる。しゃがみ込んで頭を突き出した姿勢で、背負った弓がふりふり揺れる。
きゅぇええーーー。
魔獣の甲高い声が耳を刺す。空を飛び回り、威嚇の鳴き声を上げるだけだった魔獣の一匹が、ほぼ垂直に迫ってくる。カミルは空気と魔力の揺れで速度を測り、左手の魔力を人差し指の指先に集めた。
猛禽類の顔をした、人ほどの大きさの鳥が、羽を畳み、嘴を向けて、一直線にミミルに向けて降下してくる。
「ミッ!?」
テオが、叫ぶ。
刹那、カミルの真っ赤な付け爪が、ひゅるると口笛のような音を立てて、その頭の上を突っ切った。
どかり。音に合わない重い衝撃で、魔獣が吹っ飛ぶ。ミミルの頭のすぐ上に迫った魔獣の嘴の、その付け根辺りをカミルの魔力が乗った付け爪が抉り取ったのだ。自然の法則に逆らわず、魔獣の姿は視界から消え、どしゃっと潰れた音が聞こえた。まだ息はあったのか、のた打つ音だけがしばらく鳴り、やがて空の喚き声に掻き消された。
「ミミル、先走り過ぎよ。武器の本数も限られているんだから」
「ゴメンゴメン、師匠の師匠。でも、今ので開いたトコ分かったから」
ミミルは柔らかな動きで二歩戻ると、テオをひょいと避けて、カミルの方に向いた。右手で自分の側頭を乱雑に撫ぜ、色素の薄い茶色の瞳を瞬かせる。量の少ない赤土色の髪から伸び出た先端の僅かに尖った耳が、手が通る度に跳ね遊ぶ。
修道院の孤児たちの中では背も高く、年長とはいえ、己と比べれば見上げる背丈に怖ろしげな顔立ちのカミルに対して、物怖じなく、むしろ軽々しい。魔力操作を教わったボリスを師匠と呼び、ボリスの師であるカミルを師匠の師匠と呼ぶのも、敬意より軽さが勝つ。
「あそこから先、王都の結界が切れてる。それに、ここからならよく見える」
ミミルは、先ほど魔獣に襲われた位置を指し、振り返って南、今は無き王城の方へ向けた。
薄暗く見通しの悪い中、王都の市中はぼんやりと明るい。あちこちで火の手が上がっているのだ。先ほど降った、蹴たぐるような豪雨に鎮まった火が再び燃え出したのだろう。火災の原因は落雷に加えて、付け火だ。金品や食料目的に貴族の邸を漁り、鬱憤晴らしに火を付けて回る。王城へ避難もせず魔獣への抵抗も諦めた輩の仕業だ。
カミルは視線を上げて目を凝らす。街の上空から黒い影が降りている。
「暗いけど、よく見て。ぼろぼろ落ちてる」
「あらやだ、王都は雨だけじゃなくて魔獣まで降るのね……」
ミミルが唇の端を上げて頷いた。
王都の結界は本来、魔族と大型の魔獣を通さないはずだ。同型の結界はオース修道院に設置され、純粋魔族であるシスター・グレイは修道院の敷地外には出られなかった。
「結界は、魔獣を通す。今のところは魔獣の遺骸。ただ、下に通り抜けられるならば、と気づく奴が出てくる。小さいのが通り抜け、少し大きな奴が抜け、段々と隙間が広がる。
呪法は永劫続かない。特に、裏切り者が神使の力を奪って作り出した邪法などは絶対に」
「ミミたん、しじょうってゆーんだよー」
熱くなったミミルをリースが茶化す。私情というよりも私怨か。ただ、封印の聖女から魔力を吸い取り作り上げた王都の結界を憎んでいたのは、育て親のシスター・グレイ。己の自由が奪われたからではない。グレイは一度だけ、漏らしたという。あの娘が一番の犠牲者だったと。
修道院の子どもたちはグレイの悪感情、遣る瀬なさに近い憤りを敏感に感じ取っていた。特にエタに姉妹以上の羨望を抱いているミミルにとって、神使マルベリを陥れた魔族女はもはやこの世に存在しなくとも宿敵だ。
「リース、黙って」
「こあーい」
ミミルがリースを睨み付ける。リースはテオの後ろに隠れ、間に挟まれたニコがテオの腿裏をパタパタ叩いた。
リースは、怖がっているのかと思えば、すぐに顔を覗かせて、ミミルにベロを出した。ミミルはミミルで負けじと大口を開けて舌を出す。子どもはどんな時も無邪気だ。
「それで?」
カミルは左手を腰に当てて肩を竦めた。左肩に食い込む荷物と自分では動かせない右肩が、合わせて揺れる。
促されて、ミミルは唇を一度閉じて舌先で湿らせた。
「魔獣の死骸が落ちてくる……つまり上空の魔獣同士で食い合ってる。腹減ったら見境なし。エタねーちゃんカオナシだね」
「かたなし?」
「顔負け?」
リースとカミルに同時に訂正されて、ミミルは耳の先端をぴくりと揺らし、おかしいなと目玉を三角形に廻す。
「……でさ、」
ミミルが再び話し出した瞬間、魔の森で轟音が鳴った。新たな魔物の誕生か、魔獣の咆吼か。森へ向けたカミルの目に、吹き飛ばされた枝葉や魔獣の羽が襲いかかる。
うぁ。リグが転ぶ。振り返ると、腹這いの姿勢で城壁の端を掴んで、だいじょぶと手の代わりに頭を振った。彩りの良い葉が絡まった赤茶色の髪が、騒々しく暴れている。
カミルは周囲を確認する。テオとテオの側にいるリース、ニコは問題なし。カミルが背負った荷物も、流石というべきか呻めき声ひとつ立てない。
ミミルは身を屈めて森の奥を睨みつけていた。側に寄る。ミミルの魔族としての特性は目と耳にある。魔法は使えず、一般的な肉体強化である、魔力を手足に纏って戦うのも苦手だが、遠くのものを見分け、遠くの音を聞き分ける。
険しい顔に、カミルは何も言わずに同じ方向を見詰めた。
森の中ほどだろうか、空と森をつなぐ太い線が見える。黒い線が天空から森の一点へと伸びて、稲光にうぞうぞと蠢く。
「魔獣の、」
ミミルの囁きを打ち消して、森から再び咆哮が聞こえた。
先ほどよりも細く弱く、最後の力を振り絞った叫び。それは、祈りだった。命の仕舞いに、大切な主人を護ってくださいと、神様に祈った——主人の罪を我が罪として、何もかもを彼岸へと持ち去ることを願った今際の哮り。
「あの馬鹿……」
カミルは思わず呟いていた。当然あり得る事と予想していた、しかし、悔しさと哀しさと腹立たしさが入り混じったひと言に、傍のミミルが見上げた。見開いた目に水が迫り上がる。ミミルは、カミルの言葉で確信した。
「師匠の、先生の、こえ」
森から聞こえた声を、ミミルは知ってる。声の主は、アーベルだ。
ミミルが師事するボリスの、体術や肉体強化における師匠はカミル、魔獣の調理における先生はアーベルだった。
アーベルは、隣国で第三王女だったパウラの警護人の一人で、パウラの輿入りの際には立場を変えて入国した。辺境の町で何年か暮らした後、騎士団に潜り込み、ここ数年は魔の森の塔の監視と掌握を任務としていた。魔王城に近い第五塔と第四塔にて、魔族——おもにオース修道院出身者——の力を借りて、塔に派遣された騎士たちを籠絡あるいは処分してきたのだ。魔の森でクンツに暗殺されたフリをして塔の掌握を進めていたが、第三塔に駐留していた騎士を始末した時点で聖典が解放され、魔の森に魔獣と魔物が溢れかえった。
そこから先は、カミルにも憶測でしかないが、自身の力を解放したのだろう。パウラによって封じられていた本来の姿を解放し、魔獣や魔物を喰らって魔力を集めた。強い魔力は餌になる。己自信を囮として魔物たちを呼び寄せ、喰らい、より広範囲の魔物を呼び寄せた。
王妃パウラと警護人であった仲間たちは魔の森の中で魔獣と魔物を食らい続ける圧倒的な魔力を持つ存在が、かつてアーベルという人の姿をしたモノであったと分かっていたが、あらゆる方向から人を滅する何もかも——魔物や魔獣、地揺れや大風や火の手——が迫る中にあって、あるいは救いの手を差し伸べるなど考える間もなく手段もない。実際、救われていたのは、パウラたちの方なのだ。
アーベルがいなければ、王都はとうに落ちていた。魔獣と魔物に蹂躙され、人という生命はすべて餌食となっていた。それだけは確かだった。
細く長く続いた——ように思えた——叫びが途切れ、雷撃よりも強い閃光が走る。ごぉぅ、森から再び衝撃波が届く。
「しゃがんでっ」
カミル自身もしゃがんで、ミミルの肩を掴んで支えた。雫が落ちた。カミルの動かない右腕が風に靡いて、背負った荷物にコツリ打つかる。荷物が縮こまった。テオはリースとニコを抱きかかえ、リグは腹這いのまま橋の石煉瓦に掴まっている。背負った矢筒が風を集めて、身体ごと吹き飛ばされそうになるのを必死に堪えている。
が、僅かの間だった。すぐに身体が軽くなった。城壁の全員が力を抜いた。リグが立ち上がり、ニコを抱いたリースはテオから離れてミミルのそばに来る。
風は止み、第三塔付近の空が幾分明るくなった。
「我が身に罰を与え給え……なんで。みんなを助けようとして、森で戦ってくれたアーベルさんに、神様は罰を与えるの?」
「ミミたん、」
リースが声を掛けた。カミルはミミルの頭にぽんと手のひらを置く。ミミルは、えぐ、ひっくとしゃくり上げる。大人びた振る舞いを心掛けていても、まだ十歳なのだ。魔族の十歳は成人だが、混血の場合は十六歳でいいんじゃないかねぇ、とはシスター・グレイの言葉。外の世界を知らない分、修道院の子どもたちは幼いところがある。仲間の死ならば覚悟していても、大人、特に戦闘のプロであるカミルやアーベルのような者が命を落とすとは考えたこともない。
だが、泣いている暇など、ない。
「ミミル、ここは戦場。あなたの役目は?」
カミルはミミルの髪を音が出るほど乱雑に撫でた。ミミルはすぐに嗚咽を飲み込んで、立ち上がる。まだ潤む目元を拳でぬぐい、眉根を寄せて森を見据えた。
そう。それでいい。平静さを失ってはいけない。
でもね、ミミル。神様がアーベルに罰を与えたいワケじゃないの。アーベルが、主の、パウラ様の罪を彼岸へと持ち去りたいと願っただけ。魔物と魔獣の混血、不在の存在を固定し、人としての姿を与えてしまった主の罪を。
だけど、私は、隣国の神官一族である私は、それを罪とは思わない。アーベルは今し方まで魔の森に、確かに存在した。存在したのならば、神様は認めたということ。神様が認めたのなら、罪ではない。
他者のために命を投げ打つ者が、彼岸でまで罰を与えられるなどあり得ない。
私のように、愛する人を、ラーテルナを失った空白を埋めるために行動してきた者こそ、他者を利用し、心を弄ぶ私のような者こそ、罰せられるべきなのよ。
愛してあげる、なんて。テオに。ただ私の方が、ずっと誰かを抱きたかった、抱きしめて欲しかっただけ。
それよりも、本当は。本当は、早くラナの元へ行きたい、楽になりたいと。神官として許されぬのなら、少しでも危険に身を置けばと。
近しい者へのまやかしの愛情と神様への叛逆である祈りと。
我が身にこそ罰を与え給え。
カミルは苦味の上る喉奥で、呟いた。
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