<62> 安穏としたこの世界を

ほとんど感覚がなくなった左手でなんとか掴んでいた聖錫は、前<叡智>の聖女がはるか昔に仕込んだ魔方陣による衝撃で取り落としてしまった。エタの身体から離れた聖錫は魔力の拠り所を失い、消えた。


「はは……」


エタは右手で顔を覆って嗤う。自分の口から乾いた諦念の笑いが出るとは思ってもみなかった。

聖錫を失ったエタが封印を解けなくとも魔王は復活する。光の球体に魔力が満ちて鎖は消え、新たな魔王が誕生する。ふたりの王が揃い、世界の平衡は保たれる、そういう仕組みになっている。


だが、じゃない。

じゃなくては、ダメなんだ。


神様は——<聖典>を長らく封じていたこの地に恩恵を与えない。百五十年、地揺れも大水も果てない日照りも大雨もなく、恩恵のみを享受してきたこの地に、百五十年分の災禍を与え続ける。魔力は乱れて魔物を生み、魔獣は猛り、地上はあらゆる災禍に襲われ続ける。魔を統べる者が、己の魔力を以て相殺するしか、避ける方法はない。


——すべて滅んで、まっさらな大地に


此岸に身体の欠片すら残らない女の百数十年に渡る執念が、滅びてなお生者を害する呪詛の声がまだ聞こえる。女の望み通りになろうとしている。

前魔王だけでなく、前<叡智>の聖女も、己と魔王が生きる世界以外は認めないのだ。己と魔王がいずれ世界に戻り、ふたりの、ふたりだけの世界を生きるはずだったから。

数ヶ月、いや、今の状況が数日続けば、この地、世界の最北にある魔王直轄領から、まず人びとが死に絶え、動植物がなくなり、続き魔獣が魔物に滅され、荒れ狂う魔力の渦に魔物すら呑み込まれる。山は崩れ、川は埋まり、地上のあらゆるものが地割れへと吸い込まれ、地面の揺れに地割れさえも消えて、まっさらな大地へと変わる。ひとどころか生き物の住まない暗黒の地に魔王は誕生するのか、ひとり誕生した処で狂気に堕ちるか、耐えたとして平衡を正すのに何程掛かるか——世界は、滅びに傾ぐ。


そんなの、神使自分が許すはず、ない。


エタは己のすべてを賭して役目を果たす時だと分かった。使い潰される道具の存在だと<叡智>の執念は言ったが、与えられた力が人として生きる以上のものならば、還すのが当然だと知っている。それは教えられたものではなく、ババァや<器>たちとの触れ合いで覚えた——刻み込まれたものだ。

躊躇いはない。ひとつだけ、心残りがあるだけで。

エタは、光球を見上げて呟いた。


「……ヴィタはさ、」


<勇者>ヴィターレは、<聖女>マルベリを、その願いを守るために戦った。マルベリの願いは、戦いから遠ざかり、権力など打ち捨て、ヴィターレとふたりで生きる平穏だった。

前魔王と前聖女の願いと似ている。が、違う。

今のエタが生きるのが、マルベリの望んだだから。

もちろん、孤児としての生活は苦難に満ちていた。食料も衣服も十分ではなく、夏の暑さに渇き、冬の寒さに凍えた。森との境に柵のない修道院には魔獣が出没し、街へ出れば魔族といって時に石を打つけられ、時に攫われ売り払われる。仲間は病に倒れ、魔獣に襲われ、幼くして天へ還って行った。


「……だけどさ、ババァがいて、みんながいて、」


それは、安穏とした世界だった。

ひとの世に争いは尽きることがなく、人間であろうと魔族であろうと身分や生まれ育ち、男や女や老いや若いや、あらゆる違いで命の重さは区別される。けれど、身を寄せ合い生きた修道院での生活は、どこか安穏としていた。食べるものがなくとも、着るものがなくとも、子どもたちは争わなかった。助け合い、分かち合う。清貧などとは言わない。見窄らしく汚らしい。それでも、『ただ生きるために生きる』、神様の教えの最も近くにいた。王宮や戦場では識り得ない、隣り合うひととひととが互いに信頼し、心を寄せ合う世界。今だって帰れば、引き返せばまだ、変わらずにあると信じられる安穏。


「ヴィタが、くれたんだ。自分のこの、十六年を」


ヴィターレが命と引き換えで私に与えてくれた、神使の役目も過去の贖いも忘れ、人として生きる、生きていけば良かった箱庭のような狭いこの

君が守った安穏としたこの世界を、


「今から自分で、きちんと壊すよ」




——光に依りて、影を縒り

大樹に結わえ、祈りのきざはし——


エタはひとつ息を吸うと目を瞑り、天へ向けて古神聖語で聖詞を詠んだ。朝霧に濡れた葉がようやっと集めた一粒の水滴が零れ落ちて岩へと染み入る音のような、誰が見ずとも気高く野に咲く花の花弁が霜にひび割れる音のような声で、人間も魔族もない、天より力を賜ったもののみが扱える聖詞を。

さわりとも吹いていなかった風が、エタの周囲に巻き起こる。つむじ風ほどの弱々しい風が白髪を撫でたかと思うと、身体に被さった黒染めの聖衣をふわり巻き上げるほどとなり、内側の白との境を曖昧にはためかせ、エタ自身をも宙へと浮かせる。

エタの逆立てられた白髪の一本が垂直に伸びていく。それは光で、白髪との境を持たないか細い光は、今にも途切れそうで闇に吸い込まれそうで、だというのに真っ直ぐ、天へと伸びている。

天から吊されているように——エタは床に腹を向けた姿勢で、ゆったりと光球の周りを動き始めた。かつて修道院で教えられた、星と星のように。


全身が軽い。浮いてるんだもんな。


肩や足や全身の痛みは気にならなくなった。口遊むように聖詞を詠じて、倒れていた位置から反対側まで回る。エタは顔が綻んでいくのを感じた。

床からでは身体に隠されて見えなかった、封印の光球の内側、ヴィターレの顔が見えた。


ほんとうに、眠っているだけ、みたいだ。


ヴィターレは瞳を閉じたまま微笑んでいた。目を開ければ、新緑の瞳に自分の姿が映るんだろうか。瞳は琥珀色に変わっているかもしれないし、光の中では黒っぽい色としか分からない髪も、黒でも茶でもない形容できない色かもしれない。


何色でも、いい。もう、ヴィターレじゃないのも。


天とエタを繋ぐ光は全身を覆い、やがて、上方へと伸びた光は途絶えた。エタ自身も光の球となって宙に浮いていた。

聖詞はもう必要なかった。

エタは、天から己の力をすべて引き寄せていた。ひとの寿命を全うして天へと還り、再び地に生まれ落ちる流転の力、神様と繋がる魂を。魔力を使い果たし、肉体を代償として聖錫を呼び出していたため、ほかに残っていなかった。


エタは両手を伸ばした。

エタの光が、光球の光と触れ合う。

光は溶け合うように境目をなくし、エタは封印の光球へと入り込む。

彼の周囲に残っていた光の鎖が完全に消えた。もう、束縛するものはない。赤子のような姿勢から、手足をいっぱいに伸ばして——動いて欲しいと。


目を、醒まして。


言葉は泡のような光に変わる。泡は聖錫の音を奏でた。金色の音色。エタ自身が聖錫となっている。

彼はぴくりとも動かない。同じ光の中、すぐ側にいるのに遠かった。

エタは昔を思い出して、少し笑った。


なかなか起きないからって。


王宮の中庭、芝生の上、お気に入りのニレの日陰。

行儀作法のレッスンから抜け出して昼寝をしていた午後。目覚めるとすぐ隣で本を読んでいた彼と目が合った。ずっと隣で居てくれたらしい。護衛も兼ねて。

彼は先に立ち上がり、右手を差し出した。互いの瞳が新緑と湖色に入れ替わる。軽く握って立ち上がると、手袋越しの体温を感じる間もなく、彼は距離を取って言った。


『本当は、連れ戻れと命じられました』

『起こしてくれれば良かったのに。命令違反と叱られるだろう?』

『……物語のようには、できませんから』


それが口づけのことだと、今さら分かった処で。

喜ばないだろうな。だってもう、マルベリじゃないから。君がヴィターレである間に、私がマルベリである間に——。


でも。


エタは辛うじて姿を保っている上半身で、光を掻き分けるように彼の方へと近付いた。感覚など無い。もはや光はエタ自身でもあった。


でも、自分は、まだ。いや……また、


りん——。


誰もが手を止めて天を仰ぎ、誰もがすぐに忘れてしまう儚く淋しく澄んだ音とともに、エタは彼へ触れた。


魔王……、


儀式として魔王の名を呼び、それから、丸まり垂れた頸の後ろに腕を回して、そっと唇を押しつけた。


しゃららららん——。


儀式の始まりと終わりを告げる聖錫の音が、響く。封印は完全に解けた。新しい魔王は目覚める。

その音を遠く聞きながら、エタの腕も顔も光の粒子との境界をなくし、意識までも溶けていく。エタは叶わなかった願いを思った。


呼んで……欲しかった、な……。


自分も、名を呼んで欲しかった。彼の喉が上下して唇がその形に動くとき、彼の中を通った空気が口から発せられ言葉として響くとき、心が身体が温かなもので満ちて、生きる意味と生きる意義を思い出せる。生きるために生きるのだとしても、世界が自分を、自分という存在を認め、赦してくれると確信できる。


ここにいていいのだと……。


そうして、エタのすべては光球へと融けていった。





王都の西に広がる穀倉地帯に、かつて王国の王妃で聖女であったパウラはいた。

収穫を終えてしばらく経つこの時期、拾い損ねた麦稈と残された茎の眠るような黄土色と、所々に芽生える孫生えと雑草の青々とした息吹と、上空を薄く渡るすじ雲を、王宮から眺めることができた。

背を伸ばす最中の力強い麦茎の濃緑も、熟した穂の重さに垂れる金色も好きだが、ひと休み然とした静けさも、眺めていて飽きなかった。

その景色は、一変している。

何をも拒絶するように暗雲に閉ざされた空からは、殴り付けるような滝落としと纏わりつくような霧雨と刺すような糸雨が、小休止を挟みながら繰り返し降りてくる。

雷撃は目を閉じて耳を塞ごうとも、肌を通して恐怖を植え付ける衝撃を幾度となく繰り返す。

濡れそぼる麦稈やその下に隠れて露を逃れた麦茎は、魔獣の吐く火や応戦した騎士たちの炎の魔法に焼かれて、あるいは燃え尽き、あるいは半端に爛れてしまい、更に何れもが、赤や青の血や、形容し難い色味をした魔獣の血を浴び、転がる死骸や遺体とともに惨たらしい戦場の風景となっている。


この場での戦闘は終わり、立ってる者はいない。

有翼の執事——おそらくクラウスの執事だった人が、戦闘に加わり、そして、逝った。ともに戦った第二騎士団の者たちも、みな魔獣にやられてしまった。あの方の聖詞が、魔物と魔獣の力を奪うと同時に魔族の力を揮っていた者たちからも力を奪って、結局は生まれ持ち培ってきた力の差、鋭利な牙や爪を持つものの方が強いのは道理、森で己の力のみで生き残ってきたものが勝つのも道理。


遥か昔のように思える。『王国』に輿入れして——この地に来てから、ずいぶんと多くの魔物たちを屠ってきたけれど、氷の魔法で串刺しにされるのは、太く尖った牙で皮膚を刺し肉を貫くのと同じ痛みだったのかしら。

わたくしの右腕は細いと思っていたのだけれど、抉るのではなく刺さるのだから存外太かったのかしらね。

こふっ。咳き込むと錆の味が蘇る。慣れて感じなくなるものだと思っていたけれど、何度も味わい続けるのはちょっとした拷問だわ。私の下に幾重にも積み重なる魔獣の遺骸や周囲に散らばる肉片の臭いよりは幾分マシだけれど。

死に際して他愛ないことばかり考えるのは、きっと想いを残してはいけないと理解しているから。私の強い想いが残れば、王都は穢れてしまう。

愛する者を失って狂った聖女は悪逆を尽くし——怨嗟の念は、死してなお百数十年残り続けた。大聖堂の穢れを払うために、あの方がどれほど祈りを捧げたか。その祈りが地下墓地の呪術装置までも解いてしまうなど、思ってもみなかったのだけれど。

ただの信心深い聖職者などと——ふふっ。なぜ、私を庇い大怪我をしたのち、一年も眠り続けて、生きていられたと。南の聖者は——<聖王>陛下は、次代と決めておられた。世界を正す唯一の手順に、あの方は必要だった。


——りん……。


魔獣やひとの亡骸が雨風に転がされ打つけられ、生者ほどではなくとも騒々しい戦の跡に細やかな鈴の音が聞こえた。

咳き込まないように首をそっと動かして——目をそちらへと向ける。

弱々しい音色は、迷いというよりは憂い——愛する人へ愛していると伝える恐ろしさに震えている。たったひとことが遠いなどと。他人事なら安易に言える。

それでも。


——しゃららららん。


聖錫の音が、儀式を告げる確かな金色が、聞こえた。

あぁ、封印が解かれた。ぴりぴりと、すでに血を流しすぎて動かせもしない身体から、皮膚が剥ぎ取られていくような感覚。

圧倒的な魔力、人間の身には強すぎる魔力が——魔王陛下が復活された。

半分も開かなくなった目で空を眺める。

灰色を幾十も塗り重ねた曇天が、風に煽られた煙のようにゆっくりと薄らいでいく。遠く地平線の近く、太陽が姿を現す。

太陽は地上の光景を空に映すかのように黒雲を下から染め上げ、或いは蘇芳、或いは深紅、或いは茜色に、群青が混じり合う。時間などとうに失念していたが、もう夕刻になっていたのか。


あぁ、聖詞が止んだ。


魔王陛下がお戻りになられ、人間の聖者の、ただの器である方が祈り続けるなど出来ようはずもなく。けれど、私の命が尽きるこの時にあの方の導きが得られないなど——私の意識が先になくなってしまえば良かったのに。


あの空と、私の血はどちらが赤いかしら……。







「闇よ、晴れよッ」



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る