<63> 勇者と聖女のものがたり

——まるで、うたみたい


暖かい微睡の中、旋律が聞こえた。

満月の夜に星は遠慮がちに瞬き、群れて飛ぶ渡り鳥の影が遮る海面の煌めきと、さざなみに揺れる木の葉一枚。

小さな小舟の上で釣り糸を垂らすが、まだ大人にならない高い声で詩を詠じている。昔々のものがたり、世界を破滅へ導く魔王を、聖なる力を持つお姫さまと、その守護騎士が、辛く長い戦いの末ついに討ち滅ぼした。姫君と騎士は結ばれて幸せに暮しましたと。


——もっと……声を。たとえば、君の生まれた場所、育った場所のことを


は訥々と話す。平板な言葉は、それでいてやはりうたのようだった。


山間の村、遠い島国から来た黒髪の女性、栗色の髪と新緑の瞳の青年が抱く赤子。

大家族と風習。戸惑いと悲嘆。裏切りと非難。孤独と、悲恋。

振り返る山間の村は黄色が咲き乱れ、愛を象る花への別れの涙を見上げ、少年は母の手を固く握る。

島国の母のふるさとは海沿いの小さな町。形は似通れど、言葉も色合いも違う人びとは、少年を遠巻きにして。

祖母がいて、母がいればと。しかし、別れは別れを呼び、少年ひとり。

ぽつねんと残されて、何処へ向かうとも——海は、続いているだろうか、母と父とひと夏過ごした運河の街へ。

漕ぎ出した小舟、釣り糸を垂らし。満月の夜、空へうたう。故郷のうた。

生まれ育ち別れた、遠き地の春を想い。

人を辞める積もりなど無く。然りとて。

人に馴染める気配など無く。然らば。

願ったのなら、罪人。であれば。

そこが何処か分からない場所へ。己が誰かも分からない場所へ。



——ねぇ、ぼくの話は終わり。君の話も、聞かせて。


——私の、ものがたりを?


——そう。ぼくと出会うまえの、ぼくを失ったあとの、君のものがたり。


——どうして?いいことなんて、何もなかった


——ほんとうに?


——生まれて、縛られて、利用されて、何もかもを奪われた……でも、


——でも?


——でも、季節は巡った。私は、生きた


——そう、ぼくも母も祖母も、遠い異国の父や父の恋人や祖父母も、みんな生きたから、繋がった、連なった、巡った。

この世界で、君が聖女で、ぼくが勇者になったのも、生命と季節の循環のひとつなんだ


——私が再び地上に戻れたように、あなたもまた、あなたの世界への循環があるかもしれない


——彼女は、きみじゃないよ。それに、ぼくのふるさとは、君のいる場所だ


——決めたのね


——うん


——未練は、ない?


——君に、ないのなら


——、答えね


遠い世界から来た勇者に教えてもらった言葉を、聖女はどんな贈り物よりも大切にした。他愛ない俗語が彼の本来の姿だと思えたから。

ふたりは互いの手を伸ばす。

光の中で瞳の色は分からないが、聖女は勇者の瞳が、生命の息吹に溢れた新緑の色だと信じたし、勇者は聖女の瞳に空の青を映した湖の色が宿っていると信じた。

語り合いたいことはたくさんある。

けれど、互いの瞳に互いの色を映し、互いの手を繋ぎ、微笑み合えれば、今は良い。

またどこか遠くへ、意識すら存在しない遠くへ行くのだとしても、ふたりならばきっと、言語や世界やすべての現象を超えて、語り合える。

それは、願いでなく、確信だった。





——まるで、うたみたいだ


……は、光の音を聞いた。

粒子と粒子がぶつかり、弾け、擦れて鳴る音は、複雑に絡み合い、融け、混ざって、ひとりの口からまろび出る旋律のようで、楽団の奏でる舞踏曲のようでもあった。


——ふふっ、楽しそうだ


……は、光の舞踏会に飛び込む。金色の音色が増え、光の奏でる景色が変わる。つむじ風の律動、さえずる小鳥の和音、森を跳ねる鹿の旋律。乙女、白菫、菜の花、桃花、柔らかな色合いの花々が咲き誇るにぎやかな春、生命の悦び。


——何か、もう少し


……は、つかの間、光とともに踊った。雑然とした中に生まれる自由で想像を掻き立てる旋律も面白かったが、少し物足りない。たとえば、そう、うたじゃなくて、


——聖詞うたを、


しゃららららん。

すべてのひかりが、祈りの詞に転じた。




——神様より地上に降ろされた御遣い

ただ慈愛を以て、ただ叡智を以て、ただ正義に依って、ただ倫理に依って

正しき世へと、真なる世へと

導きは風が浚う、導きは雨が殴る

導きを贄に悪逆罷り通る

御遣いは惑う

使命に惑い、正しさに惑い、真に惑う

神様が真ならば、神様の創られた世もまた真

人の姿なりをして、人の業を正すなど

御遣いの憂いは世の憂い

世は乱れ、人はなく

神様は御遣いへ御言葉降ろす

人であれば、人として生きよ

人であらざれば、もはや禽獣、御遣いとは程遠い——




祈りひかりは霞のような淡い瞬きの真ん中に、ひとつの形を創り出した。人の形を。ただ、手足はまだ祈りひかりに融けていたし、体も取り巻く祈りひかりに打つかられ、ぐにゃり形を乱すほど、頼りなかった。

人の形をしたひかりは、祈りひかりの中でほかの祈りこえを聞いた。


——誰かが、呼んでる。誰を……、は……


ひかりは、己のことを『自分』と思った。ある時には他者を示し、べつの時には己を示すコトバだと理解している。が、咄嗟に口にして、他者と己との垣根を取り払うような使い方に、いたく感動し、真似ようと思っていた。


——あぁ、そうか、が、呼んでいるんだ。自分を


ひかりは、を思い出した。彼が誰かはまだ判然としなかったが、己を呼ぶ彼の存在——彼が存在することの認識は、己自身を認識することと同義だった。

もはや人の形は色濃くなり、周囲の祈りひかりに紛れようもなかった。手足の指の一本一本や先にある爪までもはっきりと存在した。

さらりと髪を、肩に付く長さの真っ直ぐなを揺らして、


——行っても、いい、よね


ひかりは、の唇を開いて、周囲で揺蕩う祈りひかりに問うた。

祈りひかりは、言葉の波に揺らされて、ゆったりと遠ざかり、それから、ゆったりとまた戻る。

ひかりは頷く。

言葉はない。それでも十分過ぎるほど、伝わった。


——行くね


祈りひかりはひかりを見送る。振り返ることなく遠ざかるひかりの白髪の一本は、祈りひかりといつまでも繋がる。祈りひかりは、天とひかりを結ぶ。かつての存在すがたすべてを代償として。




ねえ、私たちはふたり、うた祈りになるの。幸福な、うたに。

ねえ、ときどき、うたって、それから、すっかり忘れて、思いのまま生きて。

生きて。


ね。


エタ。







「……タ、エタ……」


耳にしたことのない、聞き覚えのある声だった。

音としての声は、まったく違う。発声はもう少し高かったし、発音は不確かだった。かつて居た場所の言葉が染み付いていて、厳しく直されていたのに気を抜くと混じってしまっていたから。

けれど、声が内包する言葉の響きが——揺さぶる鼓膜から内へ内へと入り、胸を体を手足の先までを満たす温もりが。


「エ……タ……?」


驚きを含んだ声は先ほど以上に馴染みのない低音だった。植栽の影から飛び出して驚かせた時には、小さな女の子が笑い騒ぐ素っ頓狂なほど高い声を上げたというのに。

その声が己を呼べば、凪いだ水面を揺らす一滴の雨粒と同じく、波紋は同心円を描いて身体の隅々まで運ばれる。


「うぐっ……ひっく……」


エタは右腕で目元を覆い隠した。

静かな波に揺らされた心から、干上がってしまっていた涙が次から次から湧き出した。喉が締め付けられて、勝手に嗚咽が出る。心の揺れは全身に伝播して、顔だけでなく手足の先や身体中何もかもが、痺れたように震えて思い通りにはならなかった。

目覚めて——初めて見せるのが、泣きじゃくる姿なんて。恥ずかしいし、もっと、もっと、正装とまではいかなくとも、せめて身体を清めて身嗜みを整えてから会うものだろう、


「ぅう……」


などと考えていたら、不意に大きな手が髪に触れた。刺激を与えないよう気遣ってか、髪だけをするりと撫でる——心地良さに、エタは避けるように身体を捻り、枕へ顔を埋め震えた。手は、エタの動きを遮らないよう離れたが、今度は背を優しく摩り始める。


「エタ」


耳のすぐ横で声がした。掠れたような囁き声に、ぴくりと肩が跳ねた。天敵に睨まれた小動物の気分だ。動けず、然りとて、その気配、一挙手一投足を逃すまいと全神経を集中し、その集中を妨げるほどの大きさで己の鼓動が鳴る。

耳に息が掛かる距離でのゆったりとした数呼吸を挟んで、声の主は再び口を開いた。


「君が泣くなんて、珍しいから見せて欲しい」


なんて。

なんてことを言うんだ。

そんな、不遜な物言い——不埒で不届きで不調法な笑みを含んだ声音。

名を呼ばれただけで震えていた自身が今度は情けなくなり、エタは枕に押しつけたまま目元を擦り付けて荒々しく拭くと、ぐるり、顔を声の方向へ向けた。


「まお……ッ」


魔王ともあろうものが。

非難の言葉は早々に遮られた。

背を摩っていたはずの手が振り向いたエタの後ろ頭を素早く固定し、唾を飛ばさんばかりのエタの唇は、ひと回りは大きいのではないかという口に覆われてしまったのだから。


「む、むぐ……」


食べられる、一瞬そう思って、これって接吻、と思いながら、見開いた目で相手の何処を見れば良いのか考えて、赤銅色の肌と閉じた瞼は分かるものの近すぎて焦点が合わない。あぁ、目は閉じるのかと慌てて目を瞑ると、感覚がより鋭敏になったようで、唇を這う舌の動きに背筋が騒ぐ。口が莫迦みたいに半開きだったから、こんな風になってしまったのか、唇と唇を軽く触れ合わせるのが接吻だと思ったのに、何で、こんな。


「む、む、む……」


息が苦しくなってきた。

うつ伏せで半端に身体を起こしながら捻ったために、両手はともにエタの体を支え、頭は前後から押さえられている。何より、身体は元より頭の中まで一層痺れた感覚に陥って、取り留めも無い思考以外は何もできない。

拒絶の意を示そうとも——拒絶の意思などあろうはずもない、手を動かして相手を押すなりすれば離れさせられるだろうが、離れてしまうなんて勿体ない、いや、違う、このままじゃぁ、溺れる。


バタバタッ。


エタは、掛け布団の下で泳ぐように両足をバタつかせた。

それで己の所業に——目覚めたばかりの姫君、それも初心で不慣れで純粋な姫君に対するには重く深い口吻だと気付いてか、圧迫的なまでの密着がゆっくりと軽くなり、離れていく。

エタはぱたりと暴れるのを止めた。やはり惜しくなった。息は限界で、本当にダメかもしれない。

でも。離れてしまえば、次があるか、分からないじゃないか。


「あ……」


魔王の口がエタから離れ、ふたりを繋いでいた体液の細い糸がぷつりと切れた。赤銅色の頬が揺れた。距離が開けば焦点が合うはずが、エタの瞳には水膜が張って余計に霞んだ。魔王はエタの頭を優しく枕へと戻し、


「イヤだった?」


問うた。

エタは、顔を枕に埋めてすんすんと鼻を鳴らしながら、首を横に振った。


「うん。私もまだまだ足りないよ。少し待ってね」


振り向き、立ち上がる魔王のマントの裾を、エタは慌て掴んだ。魔王は一瞬動きを止めたものの、ベッド横の椅子へ再び腰を下ろす。

細めた夜空の藍色がエタを見下ろしていた。星の瞬きのような煌めきを内に宿してた瞳と、上気した赤銅色の頬、緩やかな弧を描く秋桜色の唇。見上げるエタを意識してか、緑青色の舌がゆっくり唇を舐めた。ゆったり一つに纏めた同じく緑青色の髪を指先で払うと、エタを見詰めたまま後ろへ声を掛けた。


「私の姫は寂しがり屋のようだ……なぁ、

「左様で」

「パウラ……?」


エタは勢いよく起き上がろうとして蹌踉めいた。魔王の支えでベッドに腰掛け、扉側に控える従者の姿を見る。

白いシャツに黒ベスト、黒パンツ姿と従者然とした姿で凛と立ち、ウエーブした肩までの金色の髪、髪からはみ出す長さで先端の尖った耳、切れ長の瞳は赤い。陶器の白さの肌は、氷の異名を持った王妃で聖女だった女性に相応しいが、背は以前よりも明らかに高く、反面、豊かな胸元は失われて、女性と言うよりは細く頼りない青年のような体格だ。それでも、エタの視線に返した微笑むような目礼と、纏う魔力は確かにパウラだった。


「約束通り、君の役目は終わりだ。何処へ行ってもいい」

「ありがたき幸せでございます。では、これにて失礼を」

「あぁ。そうそう、出掛けににしばらく頼むと言付けてくれ」

「……ほどほどに為さいませ」


一礼し、扉に手を掛けたパウラに、


「ありがとう」


エタは、伝えた。パウラは魔王に対しての表情から一変し、喜びを露わにした晴れやかで気負いの無い笑みを浮かべ、頷いた。もう一度真顔に戻り、魔王に一礼し、扉から出て行く。

魔王は、その背に、


「領地を出るなら、にも同じ言付けを届けてくれ」

「……御意」


扉を閉める寸前のパウラの横顔は、微かに笑っていた。


「……みんな、どうなったんだろう」

「ん?」

「生きて、君とまた会えたから……満足してた。バカだな」


エタは広げた両手に視線を落とした。肌は赤みを帯びて、生命の色合いを呈している。両手を組めば指先に甲の温度が当たる。胸に手を当てれば、鼓動も感じられる。

どうして生きているのか、など考えなくて良い。生きてるなら、生きるまで。

だが、目覚めたばかりとはいえ、仲間たちにすら考えが及ばなかったのは、大莫迦モノだ。


「……二年、眠ってたんだ。君は」

「え、」

「もう、二度と会えないかと思った。目覚めることなく、永遠に眠ったままだとしても、私は君を愛し続ける。けれど」


魔王はエタの組んだ両手の上に己の手を被せた。


「また、待ち続ける日々は……辛かった。私も、辛かったんだよ。エタ」

「そ、か。そうだよな。ごめん」

「世界の均衡は君のおかげで保たれた。魔王直轄領の災厄は私の魔力で抑え続けているし、それ以外の国々は平和が訪れつつある」

「そうか……」

「あの時戦った者たちは、死して循環に戻った者もいれば、生き存えた者もいる。パウラは、人間の身体のまま生命を保つには不可能なほど傷ついていた。<器>である影響もあったから、魔族にするしかなかったんだ」

「うん」

「旧王都含め、直轄領の復興に関しては、参謀バーレリアと配下の数十人が奔走してくれた。バーレリアが育てた魔族たちは知恵者が多くて助かる」

「あのさ、一応確認するんだけど、バーレリアって」

「ん?エタの育ての親じゃないか。忘れたのか、バーレリア・バァルを」

「ババァ……シスター・グレイは、だって」

「前魔王から掠め取った叡智……知識を以て、転生の呪術に成功するとは、さすがとしか言い様がない。魔族は十歳で大人だから、生後半年くらいから参謀の地位に居る」

「……てことは、ボリス。と、ロナ?」

「ふたりは魔の森を中心に警戒任務に就いている。時折り、仕留めた魔獣を届けてくれるから、エタも味わうといい」

「うん」

「……満足した?」

「そう、だね」

「追々、話すよ。でも、そろそろ」


ぼくだけを、見て欲しいな。


魔王は呟くと、エタに覆い被さるように抱きしめた。勢いでエタは押されて、ふたりはベッドに転がり込む。

魔王はぎゅうとエタの身体を抱きしめ、エタも届く限り手を伸ばして魔王の背を抱いた。

しばらくの間、じっと互いの体温を感じていた。

魔王は、両腕を緩めて、エタの顔を覗き込んだ。


「ね、名前を呼んで」

「魔王、エルノー」


エタは愛しい人の新しい名前を、噛み締めるように呼んだ。それだけで胸が温かくなる。相手も同じ想いなのは、悦びに溢れる表情を見れば分かった。


「君が与えてくれた名だ。エタ。ふたりで、永遠を刻むんだ」


ね。

エタの瞳の中、夜が煌いた。



<了>

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君が守った安穏としたこの世界を 沖綱真優 @Jaiko_3515

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