<25> か弱い存在こそ

「探すのに手間取っちゃった」

エタの耳に聞き慣れた声が響いたのは、転がったまま夢見の悪さに放心していたときだった。

それが現実に起きたことだと今はもう疑うべくもない夢。脳内で繰り返される記憶の反芻に精神は容赦なく痛めつけられる。

何度もその終幕で目覚め、ついに眠ることを恐れて身体は弱り頭も働かず、塔の窓辺で彼の名を呼び続けた哀れな骸。抉られた傷に穴が開き向こう側が見えるころ、また一人横たわり空を見るのだろうか。

眠りの効果は些少もなく、ぼんやりと詮ないことを考えていた、そんな時だった。


体が床に張り付いている。重い氷像でも乗せられたように、自分自身が温度を持たないただのかたまりになってしまったように。冷たい湿り気のある床に長時間横たわっていたらしく、節々も痛んだ。

「いたたたた・・・」

起き上がろうと体を起こす少しの動作で目の奥がさわぐ。上体を起こしただけで目眩がして、片手で額を押さえる。


「大丈夫?」

ボリスが駆け寄り、背中を支えてくれる。手の平から伝わるのは生者の温もりだ。

扉の前、手袋越しに感じた体温を、百五十年経った今も覚えていると聞けば彼は何というだろう。

「あ、あの〜。リィズさん、そちらの方が、もしかして?」

遠慮がちに掛かった声にはっとする。室内にふたりも入ってきたのに気付かなかったとは。防壁に覆われ、誰にも傷つけられないとしても油断しすぎ、呆然としすぎだ。それでも頭痛でまだ目も開けられないのだが。


「ちょっとそこで待ってて」

振り向いて男性に応え、床は冷えるから、と肩を貸して木箱に座らせてくれた。

聖女になると大見得切って修道院を出てきたから弱ってるところなんて見せたくなかったけれど、冷えた背中を摩る弟の存在がありがたかった。すぐ側に修道院の匂いをさせるボリスがいるという事実だけで少し落ち着き、懐かしい、帰りたくなる家の匂いを胸いっぱいに吸い込む。ん?くんくん。

「ちょっちょっとエタ、エタ」

肉。肉だ。肉の匂いがする。空腹と魔力の急激な消費で倒れたんだった。忘れていた空腹が戻ってきて合唱し始める。

「ちょっとエタ、ホントに近いって、お土産ちゃんとあげるから。ね?」

肩を持って遠ざけ、チビたち相手の口調になるボリスにむっとなった。頭痛くらい自分で治せばいいじゃないか、と気づいて両手で頭を挟んだ。


「ふんっ」

瞑っていても分かる白い光。すっきりした。ついでにこの暗い部屋に照明を、と片手を挙げて天井に向けて光の球を放つ。

ひんっと魔力が鳴った次の瞬間、どんと重い衝撃に揺れる。慌てて球を消す。

目を開け、上を見れば、落ちてくる天井の破片と覗き込む侍従。目が合うと息を吸い込みながら情けない音を出し、作法も忘れて大きな足音で走り去った。

落ちてくる埃にしかめた顔に、睨まれていると感じたのかもしれない。


「あれ?壊れたな」

直上は廊下だったのだろうか。ともかく狭い倉庫の天井がほとんど抜け、一階上の採光が届くようになって陰鬱とした気分も幾らかは上向いた。

隣にいるボリスを見ると呆れ顔を隠しもせずに荷物を降ろしている。生地の感触に覚えがあると思ったら侍女服を着ていた。髪もカツラで整えており、顔立ちは元々女性寄りだったから女装姿には違和感が一切ない。が。

「何を<隠蔽>してるのさ・・・って、肉ぅうう」

「ちょっと待ってて、って何回いわせんのさ!あ、言葉うつった」


言いつつ荷物から取り出した串焼きを二本、うまくずらして片手に持ち、もう片方の指先に火を灯す。串焼きの方を器用に動かして弱めの炎でゆっくりと全体をまんべんなく温める。ほかほかと湯気が立ってきたのを合図に炎を強め、仕上げは香ばしく。

行儀良く待とうと思ったが、涎と期待が止まらない。しかし手慣れた作業に見蕩れている場合ではない。できたてを食べるには、準備が大切。吸い込んだ息にまた分泌される唾液を飲み込み、食前の祈りを。神様に、自分の生と自分の糧となる生への感謝を伝える。


はい、と差し出された串焼きを一本ずつ両手に受け取る。左手の一本には、食べやすい大きさに削ぎ切りされた肉が五つ。

本当はタレを付けたかったんだけど、と説明するボリスの言葉に頷きながら、ひとつを口に入れる。芳香が鼻から目元を潤し頭頂に抜け、弾力が上下の噛み合わせを妨げる。顎に力を足すとぷつり断たれる繊維の感触と内からにじみ出る旨味。仄かに甘い脂が口内に広がり、少し固めの肉を噛む度に絡み合う。一切れで、一口で幸せを運んでくれる、これが森の女王。

薄らと光の注ぐ天井に顔を向けて震える。傍らのボリスの肩を、串焼きで刺さないように軽く叩く。なんて良い仕事をするんだ。


「・・・いや喜んでくれて嬉しいけど、冷めるから」

ひとまず左手の残りはおいて、右手のもう一本も味わってやろう。右手の串は左手の串と趣が異なっている。皮が付いたままの薄切りの肉——皮厚は自分の人差し指の第一関節くらいはある——を蛇腹に串に刺してあるのだ。先ほどの肉の固さからすれば、皮付きならばさぞや噛み切るのに苦労するだろうと警戒しつつかぶりつく。ぱりと皮目が鳴き、簡単にちぎれる。先ほどとは別物。数度噛めばするりと喉の奥に吸い込まれる。柔らかいからではない。皮にある斜め格子模様は、刃物での下処理だ。繊維を切断してあるから食べやすい。それでいて旨味を逃さない工夫がなされている。

「ヤバイ!」

「何それ」

「ん?素晴らしいって意味らしいよ」

ああ皮と身の間に脂があるのか。下処理で身の部分まで刃は届いているから、焼いた時に流れ出るが、炎に垂れる脂が煙を立てて身を燻し、より香ばしくする。一方で切れ目のない部分の脂は保たれ、内側からその身をより熱する。何という料理、何という旨さ。

「ひあぁへほは」

「食べてから喋りなよ」

見事な変装で侍女にしか見えない——ここに来る途中で出会ったおそらく騎士の連れにはリィズと偽名を名乗った——ボリスはババァでも乗り移ったかという言葉遣いで注意してくる。まぁいくら行儀の悪さを指摘しても矯正できなかったのは、ババァの努力が足りなかったんだろう。


「ところでその顔、どうした?」

飲み込んだ隙に。ボリスが隠蔽しているのは元の顔ではない。化粧すればそこいらの女性よりも魅力的に映える顔が悲惨といっていいほど腫れ上がっている。両頬は二倍か三倍、流行病に罹ったかというほど膨れ上がり、左目と右こめかみに青あざができている。

魔導具ではなく<隠蔽>を使える者ならば、<治癒>を施した方が早いというか普通だと思う。串焼きを頬張るのが優先でその辺りを詳しく尋ねはしなかったが、弟分はきちんと意図を汲んだ。


「妻が、照れて」

青あざに赤みを加えて紫に変えながらボリスは答えた。側頭を掻く人差し指は薄桃に塗られている。

妻。配偶者、伴侶。成人前でも婚姻は可能だ。

ふーん、そうか。もぐもぐ。奥さんがねぇ。ごっくん。

・・・?

「え?誰の、何って?」

「だから、ボクのツマ」

「・・・てかさ。加減なくボッコボコじゃないか、それ。照れ隠しじゃぁないよね?まさか無理矢理」

違う違うと、両手をこちらに向けて首と一緒に左右に振る。

「きちんと思いを伝えて、主の方に了承いただいたから」

「主の方に?本人は・・・」

串焼きどころじゃなくなってきた。弟がヨカラヌ行いに手を染めたなら引導を渡すのも姉の仕事だろう。あれ、でも殴られたのはボリスの方だから、相手は無事なのか。

うん。やっぱり串焼き食べよう。

ボリスは、まぁいいかとばかりに串焼きに再び口を付ける自分を見て、あさっての方向に溜息をひとつ吐き出した。それから冷めかけた塊の方の串焼きを再びごく弱火で炙りながら、愛する女性について話し出した。



・・・・・・・・・・・・・・・



一目惚れ、というには初めてその存在を知ってから時間が経ちすぎていた。

師匠が酔った勢いでつい口にしてしまった女性の話。

愛した女の片割れ。失った女と同じ顔をした女性の側にはいられなくて、主の元を去った。情けない男だと、普段自信満々の師匠は卑下した。


興味を持った。師匠が惚れた女性と、惚れることを恐れて距離を置いた女性に。かつての恋人、遠く旅立った恋人の話を聞くのは憚られて、その双子の妹の話をねだったが、結局はふたりの話だった。しっかり者の姉、少し鈍くさい妹。性格がまるで違うふたりは同じ主に仕える仲間。厳しい姉に教わりながら半泣きで戦いの腕を磨く女性。皆が張り詰めた顔をしたときには香りよいお茶と笑顔を振る舞う女性。

姉の死に最も動揺しているはずなのに、涙すら押し隠して主に仕えた女性。

焦げ茶色の髪と瞳は一見地味だが、引き締まった表情、緩んだ表情、明るい顔、暗い顔、笑うときも泣くときも、くっきりと心情を表す輝きに満ちた色。


『きっとボリスのタイプね』


どうして師匠は分かったんだろう。それとも師匠が仕組んだか、魔法でも掛けたんだろうか。離宮の森で出会った相手がその女性だと分かってすぐ、抱きしめて愛を告白した。



『あんまりよくないと思うんだよねー。そういうの』

殴り倒して上に乗っていう科白でもないと思った。僕にはこういう趣味はない。

ともかく離宮にいる強い魔力はパウラ様だと聞き、目通りしてシスターの言葉を伝えた。

傍にはパウラ様が個性的な腕前で料理しかけていたアロンクィンがあったから、先生仕込みの調理で串焼きを作った。

エタに仕えるのなら侍女の方がいいだろうと幾分楽しそうにパウラ様は仰り、赤茶と濃灰の髪をしたふたりのメイドに侍女服を準備させ、女性が着替えと化粧を施してくれた。爪は同じ色がいいというと、まだ早いかな、と薄桃に塗ってくれた。

パウラ様は、ロナが良いのなら構わない、と婚姻について特に条件も何も云わなかった。ただ、大切な侍女だから泣かすなと釘は刺された。



・・・・・・・・・・・・・・・



「ロナ」

「本当はロアンナっていうんだよ」

「出会ってすぐにプロポーズ・・・」

「魔族だからね。願望には忠実に。我慢はしない」

「王妃に回復してもらわなかったのは?」

「彼女に付けられた傷だから、治すのも惜しいかなって」

やっぱり弟はヨカラヌ道に踏み入ってた。師匠が悪いのか、先生が悪いのか。しかし自分が知らないだけで、この事態に備えて皆に技術を教え込んでいたのか、ババァは。ちらり胸が騒ぐ。

「僕らは、エタの選択に従う。もとより」

茶色い目で僅かな心の揺れを感じ取ったボリスは、じっと見つめて言葉を選んだ。

「エタがただのエタであろうがなかろうが、共に育ったことが無くなるわけじゃない。はい」

真剣な表情のまま串焼きを差し出した。




「あー。美味しかった」

食後の飲み物は何種類かの香草で臭みを消した大蛇の血だった。水で薄めるだけでは消えない臭みを、香草を組み合わせることですっきりとした味わいに変えていた。この香草は離宮で採れたものだそうだ。

かつて私が暮らしていたころも様々な薬草が栽培されていた。採取して数刻で成分が変化する薬草もあるから、使用者の近くで育てるのが都合がいい。毎日かなりの量が食事に混ぜられ、気づくこともなく摂取し続けていた。毒は体内に入るとなしに解毒される。私が身に持つ<完全防御>は毒も病原菌も体内での作用を許さない。その代わり毒物に慣れることはなく、量が増えればその分の魔力を知らず消費する。

・・・詳しすぎる。すべてではないとはいえ力を取り戻した自分だから分かる絡繰りを、当時理解して利用した者。父王にそれが可能だったか?


「また。難しい顔になってる」

ボリスがのぞき込み気遣う。話の途中で近くにきた騎士も、跪いたまま不安げになる。皮付きじゃない方——噛み応えがあるため時間がかかる——を食べる自分に、ボリスは離宮入り口で騎士と出会ったと説明した。お伽噺の聖女様をお守りするのが私の夢でした、とコンラート・ネッケと名乗った騎士は礼を取り、そのまま食べ終わるのを待っていた。

ちらり見ると上目遣いの小豆色の瞳と合い、慌てて逸らし伏せた。

正直な話、愛人になれと迫る同僚から逃げてきたというこの小柄な騎士が誰かを守れるわけがない。お伽噺の聖女様と憧れられるのも迷惑でしかない。マルベリがどんな運命を辿ったか教えてやろうか。お話なんて所詮お話でしかないんだよと幻滅させて。

それで、出会えて光栄ですと興奮気味の頭に冷や水を被せて、また自分に嫌悪するんだ。この騎士が、騎士というには頼りない、少年と男の間のような者が、純粋な憧れを向けた時、悪くなかったのかもなと思ったのに。


確かにマルベリの人生は嘘に塗り固められた人生で、嘘でしかないお伽噺に後世の人が頬を染めているのかもしれない。だけど。世界は救われてなくとも正されてなくとも、救われて正されたと思う人がいるのなら、それは本当に救いだったのかもしれない。そう思うことで私は救われる。私を救うのは、その考えだ。


はっとした。光が射した。思い至って。いや、思い至らせてくれた純朴なる魂に私こそが感謝すべきだった。体を守ることだけが騎士や従者の役目ではあるまい。私に必要なのは、心を守ってくれる存在だった。今も昔も。

目の前で頭を下げ続ける騎士、存在はか弱くとも希望を与えてくれるその騎士に、厳かに向き直った。


「コンラート・ネッケ、いえ、身を守るためコーン・アーベルと名乗りなさい。私の護衛騎士に任じます」

ネッケの頭に手を翳し、加護を与える。私を守る意思を失わない限り、この守護もまた失われない。かつてよりも強い効力に、私は私の意思の威力を知った。魔法は使う者の心のあり様が強さを変えると今さらながら理解した。

光に包まれた若い騎士は、はっ、と短く応え、拳を握りしめた。

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