<16> 聖光導く
境界を越えれば空気が変わる。
ひたり突き付けられる清澄な気配。
人びとは一旦噤む。鳥の囀り、虫の鳴き声といった、生命力を誇示する生き物の影も遠のく。風が木々を揺らすさわめきは逆に大きく聞こえる。
自らに意識を戻せば、外界に影響を及ぼす身体という器は希薄になっている。心或いは精神というものが脳にあると言うのならそれが、でなければ魂が、剥き出しとは言えないまでも外から隠す、若くは守るための皮を一枚剥がされた様態となる。普段目や耳や肌から感じる隣の者が、此処ではただ隣にいるという事実すら危うくなる。
立ち止まり前方を見る僅かな動き、それすら、ぴんと張った糸を指先で弾く緊張を孕む。糸で傷つけはしないかなど小さなことを考えはしない。そこに御座す方の穏やかな心を乱しはしないか。いや、結局のところ怒りを買う我が身の心配で、小さいことに違いない。
一歩、また一歩を印す土の、足に戻る力は外よりも強く、踏む小石にすら選択を振り分ける意思が潜む。
祈りと共に歩めば、糸の揺れが作り出す波紋が人の本質を磨く。それは降り積もる穢れを落とすが、柔らかな本質を削り、奥底に仕舞い込んでいた大切なものを曝け出す元ともなる。常に意識を向けて、奥に近づくまでに自身の穢れだけを清め続けなくてはいけない。
神様を祀る場所、神域とはそういうものだ。
祈りを捧げるための、いわば集会所のような村の教会はともかく、都市部の聖堂でさえ肌を切る空気感は無かった。
王国南部の国境に接する村から二ヶ月近く馬車に揺られてやって来た王都の聖堂もやはり街の一角と変わらぬ。
よもや大聖堂までもが。すでに期待は抱いていなかったとはいえ、王国の信仰、祭祀の中心である大聖堂にも、神様の気配は微塵も無かった。
しかし、そこから見上げる場所には確かに薄く漂っている。今もなお。
「それで封印の聖女ってどうやったらなれる?」
他者の心を切り刻む、ひんと張った鋼線のような空気を、目の前の方は確かに出していた筈だ。王宮方向から微かに漂うのに似た空気を。
頭頂から吹き出した魔力に弾かれた掌には軽い痺れの感覚まで残るというのに。
「ねぇってば!」
戸惑う私に業を煮やし立ち上がった動きに、飛び退く。伸ばした手が十字の古傷に触れそうになった。純白の手袋を外したきめ細やかな指先が撫でたそこに触れさせるなど、看過できなかったのだ。
低い姿勢から頭を上げる。所在なく上下に振られる手。
「いや、すまん。驚いただけなのだが」
我ながら言い訳がましいと苦い表情で立ち上がり、目が合う。
「あは、はははははっ」
一昨日、初めて会った時もそんな顔をした。
そう言って、長く共に居る者のように、懐かしさの籠る笑顔を見せた。
よく通る声に表の騎士が扉を叩く。
「ペルル司教猊下、宜しいでしょうか」
諾の返事にそろりと扉が開く。騎士よりは盗賊のように、頭の半分だけを室内に入れる。手はノブを握ったままだ。
その目は、ベッド脇に立つ我が聖女候補を認めると、開かれ、細まり、床に移り、私の顔で止まった。躊躇いがちに開いた口は、一度閉じられ、彼の個人的な感想など挟むことはなかった。そしてきちんと入室し、姿勢を正すと、深々と頭を下げた。
「意識を戻されたのなら、下階にて担当騎士に事情のご説明をお願いします。念のため回復司祭にも診ていただきます」
事務的な言葉は少しだけ揺らいだ。
・・・・・・・・・・・・・・・
「どうなっている」
「少々の手違いがあったようでして」
小聖堂から宿舎に候補者を連れ戻ったオットー・デリウズ司祭はお伝えしたいことがある、と二階一番奥の部屋にテオ・ディストロ司教を案内した。
ディストロはギレス司祭との口論の後、大司教猊下の裁定を仰ごうと大聖堂へ引き返したが不在だった。如何に小娘を追い出すか思案しながら取って返し、こちらも丁度宿舎に来たところだった。
デリウズが連れていたのはディストロが後見を務める候補者である。やや立ち位置が近いのが気になったが、食堂でしばらく休むよう申し付けた。
デリウズ司祭は、テオ・ディストロの詰問に対し、言葉は丁寧だが悪びれた様子もなく答えた。
立ち話も何ですので、と司祭が示したのはマットも敷いていない木板だけのベッドだ。自分は丸椅子を動かしてさっさと座った。その様にも苛立つが、テオは一筋の金髪を手で梳くとベッドに浅く腰掛けた。
「手違いとは何だ」
一つか二つ年上のはずのデリウズ家の四男に詰問口調は崩さない。
「現在の聖女、パウラ王妃を崇拝している女を連れてきたのですが、しくじったようでして」
「しくじって精神が病んだどころか飛んだという。お前の候補者が小娘を始末するはずだろう」
「しかしあれはもう使い物になりませっうっ」
落ち着き払ったデリウズ司祭が言い終わる前に、テオ・ディストロは胸ぐらを掴み、強引に立ち上がらせた。腕力など無さそうな優男風だが、王国でも珍しい氷魔法だけでなく、強化魔法も使える。魔法の才でいえば、聖堂騎士にもなれるほどだ。
「それでどうするつもりだ?ここで私の手に掛かるか、下に行って小娘を手に掛けるか、選ばせてやっても良いが」
「ご冗談を」
「では」
「お前が誰をどうするって?汚れ仕事は手下に、私に遣らせて高見から眺めるだけのがっっごぅっ」
薄く氷を纏った右手が鳩尾にめり込む。デリウズの身体は空でくの字に曲がり、すぐに戻ってきた。ごふっごふっと幾度も激しく咳き込み、顔を歪ませる。が、持ち上げられて高くなった位置から、テオの金色目掛けて血の混じった唾を吐きかけた。
「お望み通り殺してやる」
怒りに震える左手はより力を込め、デリウズの首が絞まる。
「ぐぅっ。遣、れるものなら、遣ってみればいい。がっ。だ、大司教、も」
その単語を聞くとなしに左手の力は緩む。落とされた格好となった男は尻をしこたま打ち付け、先ほどよりも悶絶した。
落とした方もまた荒い息に肩を揺らし、何故離したか理解できぬと己の手を見る。それから舌打ちと共に脚を踏みつけると、懐から取り出した小布で髪を拭った。
「如何為さいましたか?」
騎士が扉を叩き、伺いを立てる。テオは少し音を立てすぎたかとまた軽く舌打ちした後、軽く深呼吸してから作り声で答えた。
「何でもありません。転んでしまっただけです。お気遣い感謝します」
がたっと扉が音を立てた。踏み込んでくるのかと身構える。
「何だと!すぐ行く」
廊下の向こうからした呼び声に答えたのだろう騎士は、テオに対する返事をせぬまま立ち去った。
扉のすぐ外から去った気配に、空を煮詰めた色の瞳で床に這う男を睨み付けた。
「ここまで使えないとは思わなかった。街の奴らにも手を切るよう話しておく」
「そんなのもういないぜ?」
「何?」
「お前の代わりくらい簡単にできると思ってさぁ。三つ四つ引き受けた仕事が全部ぽしゃって。お縄か逃げたか。散り散りってヤツ」
あっはっはっ。
躙られていた脚を引き抜くと、今度は自ら身体をくの字に曲げ、床を転げ回って悦ぶ。
ディストロ司教の衝撃に歪んだ顔が憤怒に変わる。
「凍てつくほどに 冴え冴えと 奪え奪えその熱を」
右の手刀から氷の刃が伸びる。ひゅっ。軽く空を斬る。
「待てって、おい、冗談だって」
瞳の色にやっと本気を悟ったか、転がったまま逃げようと青ざめる男の前で。
氷剣をもう一度高く掲げる。永遠の別れを告げようと。
その時、廊下に大声が響き渡った。
「奥の部屋にテオ・ディストロ司教がいる。すぐに拘束しろ!!」
驚いて動きを止めるテオを下から眺め、デリウズ司祭は破顔した。
・・・・・・・・・・・・・・・
ペルルはエタと共に騎士に従い廊下に出た。
今しがた階段を上り終えたメイドが、此方に頭を下げた後、急足でやってくる。
「聖女様と騎士団長閣下がもうすぐお見えになります」
二人は顔を見合わせた。聖女様は候補者を確認する為に来られるのだろう。が。
「閣下の用件は伺っているか」
「いえ、騎士団長閣下は偶々乗り合わせたと先触れの者は申しておりました」
辻馬車でもあるまいし、聖女様の馬車に偶々乗り合わせるなんてあるものか。
ペルルは、カテナ・フンメルの件でまた余計なことを仕出かさないよう釘を刺しておく。
「分かっていると思うが」
「分かってるって。聖女様には無礼なことしないよ。たぶん」
分かってない上、伝わらなかった。かと思いきや。
「聖女になれば、騎士団長とも正式に話が出来る、だろ?」
「それも保証はできない。が、まぁ候補よりはマシだろう」
「・・・おっちゃん、実は権力ない?」
「はっはっはっ。平民出にあるわけなかろう」
騎士に先導されるまでもないと、二人で階段を降りる。玄関は開け放たれており、整列する騎士たちが見えた。すでに馬車が到着間際なのだろう。聖女候補が前後不覚に陥ったくらいで騎士団長が出張るとも思えないが、用といえばそれくらいしか思いつかない。
そういえば聖女様を迎える食堂は整っているだろうか。ペルルは、先を歩くエタに追いすがる。食堂の大きな両開きの扉は、その前で警護に当たる騎士が開けてくれた。
「あれ、そういえばさっきの人たちって」
白髪の聖女候補が、食堂入り口で振り返りペルルを仰ぐ。
少女に視線をやる目の端に、女が駆け寄るのが写る。朗らかに笑うその胸の位置には刃が光る。
「っなぃ!」
咄嗟に身体を入れ替えた刹那、どんと重い音が背に打ち当たり、身体が弾き飛ばされた。少女を抱き抱える格好になるが、体を捻り横向きに倒れ込む。
「がっ」
打ち付けた肩よりも背が熱い。喉に濃い液体が上り、溜めることもできず口から流れ出る。
しかし我が事よりも。
おぉっっちゃんんん。
くぐもり引き伸ばされてはいたが、その方の声を耳に入れ。
満足したペルルは目を閉じた。
自分を庇って刺されたおっちゃんが動かない。一緒に倒れたけど、体側をぶつけたくらいだ。右側の頭から頬に掛けて血がべっとり付いている。拭った手の甲にも。自分のじゃない。おっちゃんの血だ。口から、どれだけの血液を吐き出したんだ。
背に刺さるナイフの周辺も血が滲む。
意識を戻させたい。揺さぶっちゃいけないのは知ってる。でも優しく肩口を叩いて起きるのなら、すぐにでも目を開けて起き上がってくれるだろう。
「何故お前が、またっ」
声に振り返る。食堂入り口で銀髪の女性が呟いた。今にも縋り付いて泣き出しそうなのは声音だけだ。厳しい目を向けると、すぐに填めていた白い手袋を脱ぎ捨て、隣に、血で汚れた床に膝をついた。
「おい、お前?おい!しっかりしろ」
おっちゃんを刺した女を取り押さえた騎士が声を上げる。まさか。最悪の上塗りだ。
「毒か。時間がない。娘、抜きなさい」
女性は言いながら両手を組んだ祈りの姿を取る。魔力が集まっていく。
「タイミングは?」
答えない。集中の為かと自分も女性の動きに神経を注ぐ。かたかた。微かにだが女性は震えていた。血の付いていない左の手で彼女の腿に触れる。
「大丈夫。アンタなら助けられる」
気休めになるかどうか。こんな小娘の言葉など。
だが震えは止まり、一度深く息を吸い込んだ女性の手に眩いまでの魔力が集まる。目線で問うまでもない。
「抜くぞ!」
ずぼっと低い音を出しナイフは抜けた。すれ違いざまに拳を切られ、噴き出す血を浴びながら女性の両手が傷口を覆う。魔力の高い唸りと共に回復魔法が白く輝く。幾度かの瞬きのあと、傷は塞がり血は止まったように見えた。
しかし彼女は厳しい顔を崩さない。
「足りない」
汗が、浴びた血と混じって顎を伝う。呟いた唇も染まる。豪奢な白装束には朱と濃赤の模様が描かれている。
白い光が僅かに明滅する。
込めた魔法と傷或いは毒の浸食がせめぎ合っているかに見えるその実、回復する速さと命が尽きる速さは拮抗していない。
間に合っていないのだ。
至る所を赤く染めながら顔色だけが青白いおっちゃんは、意識を戻したのか、濃い隈の上に薄く開けた目を女性に向ける。
「・・・御身・・大切なお方を、守・・・わた・・ど・・・」
「待ってっ」
心からの叫びは、ほんの囁きだった。隣でいる自分にもやっと聞こえたくらいの。
一粒だけ涙が、微笑むような優しい口元を再び閉ざしたおっちゃんに掛かった。
——君を守るから。
あの人に守られた私は守れなかった。
私はまだ私を思い出さないけど。
この人を助けたいのなら。
力を、願って。
自分は守られてきた。
守られるばかりで守れやしない。
自分はまだ魔法も使えないけど。
おっちゃんを助けたいから。
力を、願う。
願って!
願う!!
瞬間、エタの身体から一際明るい白い光が迸る。光の幾らかは柔らかにペルル司教の身体を包み込み、青い泡を浮かび上がらせた。
ぱちんぱちん。泡が弾け消える中、ペルルに触れる聖女の手をエタは両手で覆った。
その手の持つ力強さにエタの方を振り向いた聖女は、片目の赤い光に息を呑む。その口から聖詞が出た時、纏っていた光が変わった。
手の甲に重ねられたエタの両手から、聖女に静謐で清浄な魔力が流れ込む。毒が消えたなら。この魔力なら。聖女は自らの魔法の効果をできるだけ押さえ、エタの魔力を導く。聖女の身体を通すより、エタ自身の魔法として行使する方がより威力が上がる。
手を、入れ替えた。エタの手をペルルの傷口に当て、聖女は上から重ねた。そうして、エタの方を向きながら聖詞を寿ぐ。何刻か前に大聖堂前でエタも聞いた。頭も身体も変調を来したあの聖詞が、今はその力を増幅させる。
<帰還>の聖詞。我と我の大切な者たちを無事帰還せしめた神様への感謝を込めた聖詞。必ず帰るから。聖女は迷わずそれを選んだ。
「帰って来て!」
願いと共にエタが発した光は回復魔法となり、ペルルの内部を癒やしていく。白い光を浴びていても、土気色をしていた顔色が良くなっていくのが分かる。冷え始めていた身体に熱が戻っていくのが分かる。
そして、エタの手の上からずらして直接身体に触れれば、その鼓動が規則を取り戻したのが分かった。
安堵した聖女はいつの間にか光が消えているのに気付いた。疲れたのか、傍らの少女が凭れ掛かかってきた。
「貴女」
小声で話し掛けた白髪の少女の意識はなかった。安定した呼吸に大事は無いと分かる。その身体を薄い衣のように白い魔力が覆っていた。
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