<55> 魔王の間へ

「過保護だな」


引っ切りなしに魔獣の遠吠えが聞こえる。地にうねるような吠え声と木々を貫くような嘶きが、遠く近く途切れることなく森に響く。

慣れた道とはいえ、この魔の気配に満ちた森を普段と変わらない速さで駆けられたのは、結界の魔導具のお陰だった。

売れない屑魔石を使って、ババァが作っていたのを覚えている。自分も手伝ったことがある。ロナかボリスが道々設置していってくれたのだろう。

相も変わらず自分は守られている。


世界を守る、世界を正す。


ご大層な使命を持って下ろされた割には我が身一つ守ることままならず、幼い頃から今の今まで誰かに守られて生きている。


「だからこそ、遣るべきことは遣らなくちゃな」


花畑は一年近く前とは違う色合いだ。

去年、季節は冬になったばかりというのに寒さが厳しくて、まだ一歳になったばかりのナルと七歳のビクターが相次いで彼岸に渡った。

枯れ草色の森の中、地衣類の緑が妙に鮮やかで。花畑では中紅色をした秋の花が散り、冬の白い花が咲く前の葉だけがつんつんと天に伸びていた。

年長の自分とボリスが、ふたりを埋葬した。

決められた場所に埋める。祈りを込めて埋めて、次はもっと長く生きられますようにと、戻した土に祈る。修道院への帰り道、もう来なくても良いようにと、また祈った。


目の前の花畑は、目に痛いほどの黄色の花と三角の花弁が可愛らしい紫の花が咲き乱れる。

懐からシスターの遺髪を取り出す。手の平に乗せて、指先でそっと撫でた。


「こんなに、なっちまって。なぁ、ババァ。……助言無しは酷くないか」


ババァ、シスター・グレイの遺髪が、転移の魔導装置の鍵。

魔王城、おそらく居城の中心部に繋がっているはずで、魔王封印から捕らえられるまでの間に出口側を設置しているのだから、さすがすべてを見通す<叡智>の聖女だ。

百五十年近く掛けて入口側を完成させた執念も恐るべし。


「過保護かと思えば、放任というか、信頼というか」


アンタなら、分かるさね。

ババァの声が頭の中で鳴る。含み笑いの嫌らしい声だ。


時間がない。

ヒントもない。

そして、この手の魔導装置は一度間違えば再起動しない。

まぁあれだ。ほぼ嫌がらせだ。

愚痴っても相手は聞きやしない。始めよう。


「配置の確認」


以前に土に還った子たちを掘り起こさないようにと、誰がどこに埋まっているか教え込まれた。

四隅は、リム、イルカ、アトス、グリーグ。

いや、森と花畑の境目を直線として、垂線を引き、正方形の区画を作っていくのならば、リムは縦の端にはなるが、一番奥の横の線は他の子の区画が作る。

イルカの斜め横にはロムス、グリーグの斜め横、アトスの斜め横にも他の子がいる。


「斜め横に、並ぶ……これ、どこかで」


ひとりひとりではなく、全体を思い浮かべる。

散らばる点。

横に幾つも続いて、三つ途切れて、また三つ続く。

かと思えば、手前の端から中央に向かって斜めに点の無い箇所が広がる。

四隅に点はなく、四隅を結ぶ線上にも点は少ない。


「陣地を、取り囲んでいるみたいな。……いや、そのものか」


誰が、どこにいるか知っているから、花畑を個々の墓として見れば、それは見えない。

花畑全体を正方形の盤に見立て、子らの眠る場所を交点と考えれば、十九掛ける十九の盤面が出来上がる。


陣取り合戦。


修道院の院長室、古びたランプの灯りの下でババァと向かい合って遊んだ、交互に白黒の石を置く陣取りゲームだ。

相手の石を囲めば、取り除けてその分自分の陣地が増える。石の生き死にはゲームの基本だが、局面により複雑で難解に変化する。

つまり、この盤面での最善手が鍵を挿すべき場所だ。


「手番は。どちらだ。人数は偶数、次は奇数で黒」


灰色の修道女だから、白黒の遊戯か。巫山戯すぎだろ。


「だが、どれが黒で白か。名、違う。性別、数が合わない。なら、ここに来た順序だけで色を変える。黒、白、黒、白……」


花畑の盤面をエタの視点が忙しなく動く。

見えた。

白優勢に見えて、実は急所への一撃で中央が広く黒に奪われる。


「というかこれ……」


やっぱり、ババァはふざけすぎている。

ルールも何も関係なく、最後の一手はど真ん中じゃないか。


静かにその場所に歩く。

腹立ち紛れというか呆れ半分にずかずか乗り込みたいところだが、咲く花の下で眠る子らを起こしてはいけない。


「ここだ……そうか」


その場所に立てば、遊戯でも巫山戯でもないことがよく分かった。

しるしも何もない花畑の真ん中で、両手を真横に広げて天を仰いだ。遠く魔王城の稲光が真上の灰色の空も薄灰色に変えて、絶え間ない明滅が信号のように急かす。

握る遺髪がじりじり手の平を擦る。感傷に浸る暇などないよと、手の内からも急かされる。

徐にしゃがんで、遺髪を握った拳で花畑のど真ん中の地面を殴った。掘り返したばかりの畑みたいに柔らかに沈み込み、土の中で拳を開いて灰色の髪を置いてくる。


「天の元へ、運べ」


低く呟く。

見送った子らの真ん中に聖女を置き去りにして、駄洒落みたいに転移の魔法陣は作動する。



・・・・・・・・・・・・



光に包まれたのか、いや魔族に相応しく闇に包まれて。

魔導装置は瞬時にエタを転移させた。

閉じたつもりのない目を開けば、そこもまた暗闇だった。

頸を巡らせても灯りひとつない。

世界にひとり残されたような心細さ、音もなく沼の底に沈んでいくような不安が過ぎる。

沼は自らの裡に際限なく広がり、果てしなく深い。誰かが引き摺りこむ訳ではなく、意図せずとも己自身が望んで嵌まり込むその沼は、かつて聖女すら呑み込んだ。


知らず詰めていた息を吐き出す。ゆっくり吸おうとして、喉に傷みを感じて眉を顰める。

余所者を受け入れない清廉さを空気に漂わせた魔王の城。魔の気配は森とは比べようも無く濃い。

ひ弱な人間の身体には酷過ぎる。

空気ですら、喉を胸を刺し突いて傷みと冷えで精神をいたぶる氷の針だ。

素早く吸えば小さな幾つもの針が、裁縫道具箱にある針山みたいに肺の内側を埋めて、大きくゆっくり吸えば大きくて太い串が、内臓全体を刺し貫く。


ふん。

気持ちを保つには、ちょうどいい刺激だ。

足元のぶよぶよの沼だって、踏み固めて遣るよ。


威勢の良い思考とは裏腹に、一呼吸ごと身体は蝕まれる。手が震え、足もがくがくと揺れだし、じっとりとした声が、けだし鼓膜を揺する。



——神の遣りそうなことよ——

——世界を正したその後に、お前は遺らない——

——復活した魔王はお前以外の聖女を娶る——



「そして幸せに暮らしました、と、さ」


膝を押さえ、床に向かってエタは独り言ちた。

さすが長年暮らした魔王の城には、まだ先々代<叡智>の悪意が残るらしい。それともエタ自身の懐疑が起こした幻聴だというなら、冗談にならない。


「ふぅ。行くか。ボリスっボリースッ」


暗闇の向こうにぼんやりと灯りが見えた。

遠目にゆらり揺れたと思ったら、もう目の前にある。

光は望めば手に入るんだ。小さな蝋燭の灯りでも、裡に広がる昏い沼の支えくらいにはなるのさ。


「エタっ……さま」

「付け足すくらいなら、要らない。あー、きっつい。例のアレ」

「ハイ」


ボリスは背負っていた布包みを下ろし、血や泥で汚れた布包みを同じくらい汚れた指で解く。小指の爪だけは赤く塗り整えられたままで、そこだけは汚れを弾いているようだった。

ボリスの包みの中からはシスター・グレイの聖衣が現れる。ただし、純白の聖衣は黒く染められている。

記憶が戻った後、エタは王太子クラウスに操られた振りをして機会を伺いつつ、裏では準備を進めていた。

そのひとつがこの聖衣だ。

魔族の血を引くものたちの魔力を縒り合わせて表面を覆った。エタの指示に合わせて、ボリスが見事に完成させた。

エタは真っ黒の聖衣を羽織ると白い腰紐を結んだ。


「黒はこれ以上染まらない魔の色。すべての色を合わせれば黒になる。だが、別の見方をすれば、色の集まりは白になる。世界はいつも、狭間で揺れている。

だから、正す者は黒を纏い、白を帯く」

「魔の力を弱めてるんだよね。少し楽になった?」


格好付けさせろよ、とエタは思ったが、そもそも相手がボリスでは意味もない。素直に頷いた。


「助かった。ロナは?」

「城門で魔獣を使役しているけど……数が多くて」

「城門は守る必要ない。入れていいよ」

「儀式の邪魔に」

「大丈夫。邪魔にはならない。魔王の間は聖域だし、それに」

「それに?」

「すべての魔の者の主、魔王様の復活だ。盛大に祝ってもらう」

「そっか。じゃあ、そこ出て右行って左曲がって真っ直ぐね」


雑な道案内と灯火をひとつ残して、ボリスは恋人の元へ駆けて行った。

こちらを気遣っていたが、ボリス自身も傷だらけだった。恐らくロナも無事とは言い難い状況だろう。

だが、生き残って欲しい。

命永らえて、そして幸せに暮らしましたと、のちのち語られるくらい長生きして欲しい。


エタは燭台を掲げる。

小さな炎にうっすら照らされたこの部屋は小部屋ともいえる小さな空間だった。

魔力を押さえているから床に設置された魔法陣の詳細は読み取れないが、道具になったものは髪と血と魔力くらいだっただろう。

魔王が封印されたのち、残された<叡智>はひとりこの部屋に隠れて、いつか魔王の封印を解く者が容易に戻れるよう、魔法陣を組み立てた。

失意と孤独に、苛まれなかったのだろうか。


ともに役目を果たすはずの従者を魔王封印の贄としたのち、自らの招いた結果に絶望してただ死を望むだけの骸となったマルベリ。

ともに世界を守るために力を与えられたはずが、欲望と絶望に呑まれて魔王を滅ぼした先々代<叡智>。


ふたりには足りなかったモノを、先代<叡智>ババァは持っていた。

生まれて十年ほどの少女だから絶望を感じなかったわけではない。ただ、矜持と信念と信心が上回っただけだ。


エタは床に燭台を置くと、もう一度腰紐を固く結び直す。

燭台を拾うついでに、黒曜石の床を指の関節で軽く叩く。


「いい硬さだ。きっとよく響く」


立ち上がり、動き出す。

小さな扉をくぐって部屋を出ると、大柄な魔族も飼い慣らした魔獣も楽々歩ける広い通路だ。右に向かう。

壁の上方に設けられた松明台に灯りはなく、形も素材も思い出せないが、朽ちていなければ台だけがひっそりと佇んでいるはずだ。


手元の小さな炎は、向かう先を間違っているとでも言うように、揺れながら後ろに靡く。逆向きに歩けば、その逆を指すくせに。

照明として優秀とは言い難いこの炎が照らすのはほんの少し先だけで、自分の影は生まれることもできず、ゆえに漆黒の床と溶け合うこともない。

ただ床は足音を鳴らすだけで、かつて濡らしていた血や体液や乱雑に重なる人間や魔族や魔獣の屍やそれらの身に付けていた装備品や腹に蓄えていた種々の品々はもう天に還り、存在しない。

あれから長い長い年月が過ぎて、再び踏み入れた城の中を往く。


こつりこつり柔らかな音を立てて、軽やかでもなく重々しくもない足取りで。

闇よりも深く黒い聖衣の裾を翻し、小さな炎の灯る燭台一つを携えて。

何色にも染まらない透明な白髪を肩で揺らし、空の水色を写す湖色の瞳で前を見据えて。


突き当たりを左に折れ、真っ直ぐを真っ直ぐ。

静寂に、足音だけが響く。

こつりこつりを、こつこつ、やがて、こっこっと変わる。

燭台の炎は、より後ろに靡く。

ぼんやりと、大扉が見えた。

歩を緩め、すぐ手前で立ち止まる。

炎が、小さく鳴いた。



人間の背丈の何倍も何倍もある扉、金属の鈍い光沢を持つ扉には、下から上に向けて絡まる蔦が彫り込まれている。

大聖堂の扉に刻まれた意匠と同じだ。闇に閉ざされて見えはしないが、上方には双翼の神使が描かれているのだろう。

かつて愛した魔王の居城と同じ意匠を、魔族女は魔王滅亡の橋頭堡たる王城に刻んだのだ。

人間の力では開けられないその重苦しい大扉に視線を留めたまま。

そっとつぶやく。


「自分が、開けるよ」


無意識に右手が上がる。

今はない鎧姿の背中に添えた右手は、その冷たさ、真冬の修道院の門柱の凍える冷たさに似た容赦のない冷たさを感じ取る。触れれば張り付き、身動きできなくなるあの冷たさを。


記憶の鎧からべりと手を引き剥がし、まじまじと見詰める。間近の蝋燭の灯りで見る自分の掌は陰影が濃く、この世のものではないみたいだ。


『大丈夫。君は僕が守るから。世界も君も、僕が必ず守るから』


この世のものではない言葉、響く。


眉根寄せ、瞑り。


窄めた唇からゆっくりと息を吐き。


戻る空気で大きく肺を膨らませ。


かっと目を見開き。


「聖錫よ、顕現せよ。魔王の間へ我を導け」


白い力が、重々しい扉を開く。

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