<27> 汝の務めを果たせ

——神様は天を創り 地を創った

天は光を 地は影を司る


神様は二人の王を 地に遣わした

二人は<聖>と<魔>を司る


神様は二人の王に 聖女を与えた

二人は<慈愛>と<叡智>を司る


神様は二人の王に 人を与えた

二人は<人間>と<魔族>を統べる


聖典 序文より———



夜闇に目を慣らし、割り当てられた部屋から中庭に出る。月光は地を温めはしないが、無ければ余計に風は冷たい。乾いた音で地面を転がる枯れ葉は森から帰還した騎士たちが運んできたものだろうか。水分を失い土に還るだけの欠片を、連れてくる意味などないというのに。

北部駐屯地に設けられた祈祷室からでは神様にもあの方にも祈りは届くまいと、誰もいない時間帯に建物の外で日課の読誦を行っている。人目を忍んでといいたいところだが、杖を突く音は響き、監視の者だけでなく修道女にも気づかれているようだ。

しかし、この場での読誦を始めて三日もすれば、松明を手にした夜警が踏み歩くざりざりとした土の音が近づき誰何をあげることもなくなった。

私という存在にさして価値がないことがよく分かる。

ただあの方たちの枷として手元に置いておく。使い処は、少なくとも私自身が決められるものではない。


傷が消え、寂しくなった額を撫でる。へこみも歪みもない、つるりとした面白みのない額。側頭にかけて禿げていたそこに毛があることに、まだ慣れない。

こちらに来て気づいたこともあった。大聖堂で感じていた薄ら寒い悪意が、王妃陛下の持つ清廉な魔力により中和されていたことだ。逆に王妃陛下の魔力は王城内では小さく感じられる。王妃陛下とともに討伐に参加していた第一騎士団の一部や第二騎士団以外が無礼な態度を取っていた理由がやっと分かったのだ。

聖錫を手にすれば魔法は使えなくなるという伝承。常人には感知しにくい、聖魔法を扱う王妃陛下の魔力。

さらに何らかの魔力を相殺していたのならば過小に評価されていたのも納得できる。遠征の折に魔物を討伐していたのは第二騎士団で、聖女という位を守るためにその実績を奪っていたと考える者がいても何らおかしくはない。

蒙昧な者は哀れだ。自らの目や耳や感覚よりも、上役とはいえ他人の言のみを信じる、信じなくては生きていけないと信じる者はさらに哀れを通り越し滑稽ですらある。

それが策とはいえ、矮小に見せかけて嘲笑を煽る聖女様——王妃陛下——にも苛立ちを感じなかったといえば嘘になる。私ごときを幾度も助けてくださった御方に。それでも表情を消した主の隣に立ち、沈着に振る舞うことにどれだけの忍耐を要したか。


仰ぐ天には星影もなく、時折思い出して強く吹く風に、雑に羽織った上着を奪われないよう襟元を重ね握る。同じ空の下などと感傷に浸るほど若くはない。

結局、私ができることといえば祈ることだけなのだ。魔の森の勤めに出る騎士たちに、せめて平静な心で魔獣と相対できるように祈る。あの方を傷つけようとして正気を失った候補者たちの休心を祈ったのは、私の我が儘であったが。こちらに移動させられる前に無理に頼み込んでまで回復させたのは、あの方が気に病むだろうと考えたからでもあるが、私自身が犠牲者を増やしたくなかったからだ。所詮、私の覚悟などその程度のものと呆れかえるばかりだ。


毎日、聖典を序文から詠んでいる。口の中、すぐ隣に来れば聞こえるかもしれない程度の音量で。

序文の四行目、その聖詞を詠む瞬間には必ず、かつて掛けられた言葉が思い出される。


『この国でその聖詞を詠むのは、刑場への近道ね』

今日の夜風など温かい、氷温の叱責。神聖語に宿る温度に、そぎ落とそうとした感情が逆にありあり浮かんだ。

修道服に身を包み、声色を変え、正体を隠したつもりでも、言葉に宿る品格、堪能な神聖語、纏う気配。気づかぬ訳がない。まだ十六であった聖女様は私の行いを慮り、声を掛けてくださった。

それからは大聖堂本堂では王国内で使われている聖詞のみ詠むことにしたが、あんなものに力はあるまい。


人質としてこの駐屯地にいる。見張りも付いている。禁書である本来の聖典の聖詞は、聞き咎められ処刑されてもおかしくない。

なんと愚かしい行為か。

それでもあの方を王城にお連れしたのは私だ。悲しい思い出話をしても泣けない小さな娘に平静と平穏を祈りたい。私にできるのは、祈ることだけだから。

頼る月明かりのない夜に、せめて聖典のお導きを。



・・・・・・・・・・・・・・・



——壊したいのなら、手に取るがよい——


ぴりと空気が締まった。いや、締まったのは、魔力だ。周囲の魔力が一層この部屋に集約される。白い髪から黒いドレスの裾、爪先まで、全身遍く白く光らせた僕の主は手をぴくと揺らした。

眼前の令嬢たち、女性八人に向けられていた意識が、振り返りもせず背後に向けられた。

隙がないと思われたエタの魔力が満ちるこの部屋に、穏やかに緩やかに清澄な気配が漂ってきたのだ。

それは早朝の森、ひんと冷えた空気に鼻の奥が痺れる中、突然口内、或いは喉か上顎が感じ取る甘い香り。何の疑問も抱かず側に来いと呼ぶ香りだ。

小さな体すべて花の中心まで埋め、招かれた羽虫は生殖の手助けとなるか、さもなければ丸ごと養分となるか。

気配は声を運ぶ。声は届く。届けるべき、自らが地に降ろした遣いに。


声は余韻を持つ。一度だけ、おそらくたった一度聞こえたその声が、頭では幾度も繰り返される。繰り返される情景。瞬きをする度に、エタの中では誰かが失われる。瞬きをしないこの瞬間もやはり、失われている。

命が、命が、命が。

守るために奪った命が。奪うために奪った命が。奪うことで守れなかった命が。いったい、何程の。

罪を背負わされたというのか。


主の手は動く、滑らかさを欠いた角張った動き。抗いながらも抗えない動き。手の動く先、行き着く先は、天。

張り詰める。張り詰める。空気が、魔力が、エタが、エタ自身が。

願いを、望みを、役目を。

そのために、ここにきた。そのために、ここにいる。

そのために?

破滅を導くために、エタは生まれてきて、僕たちと育ってきたと?

違う。

漂う気配は本物だ。

だけど、違う。違う。違う!

神様は、唆したりなんかしないっ。


「エタ!」

叫び、飛びかかる。つま先立ちよりも高く、宙に浮かぶ主に、主の手に。両手を掲げてはいけない、聖具を呼んではいけない。今、怒りに我を忘れた今、それを手にすれば。

左右行儀良く同じ角度、まだ斜め下に軽く上がっただけの腕を掴まえようと、飛びかかった。

「がはっ」

次の瞬間、壁に背を打ち付け床に崩れる。息が詰まる。薄目の先、白く光を帯びる手は真横に向かう。



——終わらせればいい。遣り直せばいい。そのために来たのだろう——

——終わりは素晴らしい、終わりは美しい、終わりは——

——簡単だ——

——お前にとっては——

——簡単な、終焉——


悪意。悪意、悪意。

神様の気配漂う中、聞こえてくるは底知れぬ悪意。

滅びを望む声、その者の心を誘い。

ぼやける視界、徐に動く主の腕。

向こう側、縄の魔法使った赤い衣を着た女、大仰に傾いだ首、揺れる背骨、両手のみ直線的に、僕の主に構え、地の力持つ黄色い魔力の放出、何故、動ける、何故、先ほどまでよりも強い力で、エタに放たれ。

間近で、放たれ。


「聖女さっがっ」

叫びに、澱んでいた意識が戻される。

間に飛び込むネッケが、黄色い魔力の弾に撃たれ押され、エタに。エタを覆う魔力に肩からぶつかる。ネッケはエタのすぐ前に崩れ落ち、令嬢も倒れた。



「コーン!」

「たたたっ、だ、大丈夫ですっリィズさんこそっ」

後ろ手に体を支え起き上がる姿勢、僕よりもよほど張りのある声。加護に守られたか。無事。

黄色い光が消え、また黒と白の世界。



——滅ぼせ、あの方を滅ぼしたお前が、すべてを滅ぼせ、滅ぼしてしまえ——

——安穏も安寧も与えられぬ、お前には与えられぬ、滅ぼして奪え奪え奪うしか得られぬ——


飾りもしない、繕いもしない、唾吐きかける勢いで捲し立てられる悪意。

ぶつかってきたネッケに止まったエタの腕が、再び動き始める。

ゆっくり、ゆっくり、環を描いて。

滅びは、円環を聖具が貫いたときに。



——地は裂け 人びとを飲む

天は幾筋もの光を降らし 免れた者を焼き尽くす

大風は地を攫い 人の造出物を払う

大水は野を這い 人の培養物を流す

あらゆる命を道連れに

やがて平らな大地だけが 在る 

                    聖典 滅尽より——



終焉が、訪う。



打ちつけた背はまだ痛み、片目は開かない。見える目も霞み、嘲笑が掠める。そこで終わりを眺めていろと。ゆるゆる姿勢を変えるだけが精一杯の抵抗。

「・・・?」

微かに声が聞こえた。滅びを望む悪意とは別の声が。

祈り。祈る声。平穏を、安寧を、祈り、支え、導く声。

「これも神様の気配・・・?窓向こう」

空の暗闇に隠されず、清らかな祈りは届く。太く低い声、不穏も不安もただ包み込む、人肌の抱擁。穏やかで静かな、しかし確かな希望。

細く伸びた一筋の、光。窓も壁もないあちら側、夜の世界から運ばれてくる誰かの祈りは、エタに届くと柔らかに灯る、水辺の朽草の儚い青白さ。

目を凝らさなくては気付かない僅かな強弱が示す、希望。


「頭?ネッケっエタの頭頂にっ触れてっ」

言葉の代わりに血だか胃液だか上りつっかえる喉を叱咤し叫ぶ。

エタの前、座り込むネッケは慌て立ち上がり伸び上がれど小柄なその手は届かない。

「跳べっ殴れっ」

「うはぃっ」

跳ぶ。真上に。

力強く、小柄な騎士は跳ぶ。

エタの魔力の中でも、加護のおかげか、ネッケの身体強化は体を跳ばす。

すでに斜めに上がるエタの両手の真ん中、頭の天辺目掛け手を。振り下ろす。

「っけー!」

「えいいっ」

正気に戻れ、この馬鹿!!



どたん、派手に鳴る。白い魔力を纏った主は転けた。

手が触れる寸前、エタは確かにそれを避け、地に着かない足を滑らせた。

避けられた騎士は体勢を崩しながらも静かに着地、次の動きを取れる姿勢。

魔力が晴れる。

明かりの消えた部屋に、ぼうと白く光っていたエタの魔力が霧散して暗闇が訪れる。だが、先ほどまで光だと思っていたものは光ではなく、辺りを照らすどころか永遠の暗闇を導こうとしていたのだ。

胸を押さえる。全身の毛穴からは血だか汗だか分からない粘ついた液体が吹き出す。どどと激しい動悸で、闇が拡縮を繰り返す。ごくり鳴る喉は痛み、迫り上がる塊を吐き出した。


目の前で。

滅びが訪れるところだった。シスターに教え込まれた聖典、滅尽の章。

怖くて眠れなくなった滅びの詞。招くのがいつも隣でいた少女なんて教えられていない。守れといわれても、こんなの職務外だ。

けど。何とか、たぶん、何とかなった。

ほぅと息をつこうとして、口からは液体が漏れ出る。

背中が痛い。体中が。あちこち折れてるかヒビ入っているか。頭だけは打つけないよう力を込めたけど、他の部位は衝撃を減らせなかった。

あ、ダメだこれ。気を抜いたら。気を失ったら。目覚めない。

ぜんぶ終わったら、返事くれだなんて、ロアンナに云ったからかなぁ。

もしもまだ此岸にいられるなら、一発殴ろう。馬鹿姉。

そうして瞼を閉じたところで、閉じていても分かるほどの光が浴びせられた。





天井には照明代わりの光球が浮かび、血塗れ汗塗れの侍女服の中身はすこぶる健康体で、跪いた姿勢でどうしたもんかと辺りを見廻すネッケが目に入り、むしろ称賛すべきだと分かっているのに睨み付けた。びくと少し怯え、頭を下げ床を見る騎士は、先ほどよりは控えめだが、周囲の魔力に感覚を澄ます。

多分危機は去った。悪意は聞こえない。だが、気配を探ろうとして総毛立つ。震えに抱く自らはちっぽけだ。

深い眠りに落ち、しばらくは目覚めそうにない令嬢や侍女たちは誰かに運び出させるとして、この部屋の惨状。いや、庭園から戻ってきた時は汚され臭気も酷かったから、家具の一つも無くなった、だだっ広い部屋であるこの状態はむしろ好転しているといえるのか。

青い布切れも、拘泥していた割に吹っ飛ばしたらしい。エタの魔力に負けなかったのは僕が修道院から持ってきた聖衣だけだった。さすがというか、よく残ったというか。

両手を組んで伸び上がる。首を回すと前後に揺れるはずの髪がない。カツラは無くなり普段の短髪に戻っている。掻き上げた手を握り、ふたつを一度打ち合わせる。準備運動終わり。

うん。順番に捌いていこう。まずは。


顔を両手で覆って蹲り、違う違うと繰り返す主の胸ぐらを掴んで立たせる。

何故か顔から首から耳から真っ赤に染め上げ、白髪との対比も愛らしい、湖色の目、桜桃の唇をした可憐な少女。殴るなんてとんでもないと思うだろう?


「ふ、ざ、け、る、なっ」


殴る手の方が間違いなく痛いのを承知の上で振りかぶったそのとき。


——汝の務めを果たせ——


再び、今度は紛うことなき神様の、声が聞こえた。

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