<13> 御守り
——目を閉じて
贈り物をさせて欲しいと彼は言った。
お互いに思いを伝えることなど許されない。それでもその目はどんな言葉よりも愛を語る。視線を絡めるだけで、官能的などんなことよりも満足できる気がした。
その彼が物質的な何かを。
違う気がした。
でも、断るという意思は示せなかった。大切な人が贈ってくれるのなら、それはきっと旅に出る私を守ってくれる。
そう、信じて。
——左手を、前に出して
頭のどこかが痺れて、片手を出すという簡単な動きが緩慢になる。手を取ることもせずに、彼は箱から出した何か、輪を私の手首に通す。
ハッとした瞬間、ぱちんと金具を固定した音がして、目を開けるとすぐ前に眦を下げた彼がいる。
腕輪には、彼の目と同じ色の石が付いていた。その石は時々ふんわりと光を放ち、それを見た彼もふんわりと笑う。
その笑みを前にすれば、私の懸念などは些末なもののように感じられたのだ。
動悸を彼のせいにして、私も笑った。
・・・・・・・・・・・・・・・
ごく薄い雲が掛かっているのか、やや白い青空の下、大聖堂前広場は賑わっていた。無事に大型魔物の討伐を終えられた聖女様を迎えるため、大聖堂区域に勤める者たちが大勢集まっている。
すでに王宮を出立した馬車は大聖堂の大階段とレイグノース初代王の像との間に停まる予定だ。そこから大聖堂の階段まで歩かれる間の御姿をできるだけ近くで見る為に、夜明け前から詰めかけている者までいる。
聖女様は大聖堂の主の一人であるから、この出迎えは公式の行事といえるがそれ以上の熱気に包まれていた。
昨夜王城に戻られた貴い方は、王宮にて王への拝謁、同行した騎士たちと共に晩餐に参加と、行事をこなされている。帰還後大聖堂での祈祷までは聖女としての役目を重んじられ、王妃である自身の部屋には立ち寄られない。更には宰相、騎士団長への討伐報告及び不在時の情報のすり合わせなどまで『王宮に立ち寄ったついでに』行われる為、ほとんど睡眠すら取らずこちらに来られるのだ。
「何で貴い我が主よっていいながら腹鳴らすんだよ」
心配の余りペルルの口から飛び出た神聖語に腹の音が被さった。
耳聡く聞き付けた聖女候補がベールの中から揶揄う。その揶揄いは古神聖語だ。知らない者には言葉にすら聞こえない言語。
しかし、腹が鳴る原因の殆どはこの聖女候補にある。
昨夜の件についてはそこから対応できることはもはや無かったが、少なくとも詳細に報告だけはまとめる必要があった。大聖堂の自室で書き掛けた報告書の続きとして、宿舎執務室で業務を行った。殿下の取られた行動についてどう書いたものかと思案しているうちに夜明けを迎え、日課の聖典読誦を終えた辺りで記憶が飛び、候補者が食堂に集まる足音で目覚めた。
聖女様を出迎えるにあたり、聖女様付司教であるペルルは当然正装である。正装を取るには身を清める必要があり、時間が非常に押していた。食事を取る時間など有りようがない。
大聖堂に駆け足で戻り、支度を整え、出迎えの皆が並ぶ中、まるで位の高い者のように——実際に高いのだが——この場に悠然と現れた。深く刻まれた眉間の皺の向こうで、間に合って良かったと安堵しているなどと誰も思うまい。
「何事もなく良かったが」
同じく古神聖語でいう。
未だ目覚めぬ助祭——しかも自分の身代わり——には申し訳ないが、自らの後見する聖女候補に然程効かぬ薬で助かった。抜け出す機会をまた伺うかもしれないが、騎士たちにも申し付けてあるから簡単にはいくまい。
それに。
本当に本気で遣ろうと思えば、誰が止められるものか。
大聖堂では助祭以上の聖職者による祈祷が始まっていた。
王都に三つある聖堂からも聖職者が参加し、百人以上による聖典読誦は本堂より離れた広場までよく聞こえる。
聖女様は身を清め、鎮魂拝礼の為の御衣装に身を包まれた後、数人のみ従え、聖職者たちと入れ替わりに大聖堂に籠もられる。そして二刻ほど掛け、神様の御許に戻られた者たちへの御祈祷を捧げる。
今回北東部に出たのは六本の蛇頭を持つ大型の魔物で、聖女様が討伐に出られるまでに数十名の死者が出ており、また、聖女様と共に戦闘に当たった騎士の中にも犠牲が出た。
魔物の毒で亡くなった騎士の亡骸は持ち帰られることはなく、現地で弔われる。魔の気——血や体液——を浴びた衣類、装備類も<浄化>魔法を掛けられ、共に埋葬されるため、討伐に出る前に騎士団本部に預けた品物だけが遺品となる。
<浄化>。灰すら焼き切る、超高温の青い炎だ。
ペルルが昨日の宿舎の炎を思い出した時、ざわついていた周辺に緊張の糸が張り、集まった者たちは皆、諸膝を突いた。聖女様を乗せた大聖堂紋入りの馬車が向かってくる。
ペルルは典礼用聖衣の裾を後ろに長く跳ねると、片膝で頭を垂れた。白地に深緑色で紋を入れた司教帽は落ちない作りになっている。
下げた頭に祈祷と蹄音と微かな呻きが聞こえた。
石畳に響く馬の蹄と車輪の音は、貴人を乗せた箱がペルルのすぐ近くまで来ると止まった。
聖堂騎士がふたり、扉を開ける。
聖女付司教はすっと立ち上がり、馬車のすぐ側に寄ると、段の横で手を差し出す。
白い手袋が触れる。
軽く握った手が、薄布越しに体温を伝える。
段に降りれば現れる半月ぶりの尊顔は眩しすぎて目を背けたくなる。
顔の横に流れる銀髪は討伐の旅の後でも輝きを失っていない。露がなくとも煌めく髪と同じ色の睫が縁取る冷ややかな薄青が一瞬、ペルルの古傷を撫でた。
地に着けば手は離れ、一歩二歩。聖女様は待ち侘びる人びとの方へ歩く。
旅装の簡易な聖衣を、修道女が左右から整える。
聖女様はまずは大聖堂に向かい、深々と頭を下げた。腰だけを戻し、組んだ手を額に合わせ、自らと騎士たちの帰還を聖詞で寿ぐ。最後の部分を集まる者たちも復唱する。
その声に混じり、近くからゴフッと吐き気を催したような音がした。
「神様の元、皆が出迎えてくれたこと嬉しく思う。これより此度の討伐にて出た犠牲を弔うための祈りを捧げる。皆それぞれの持ち場にて片隅でも良い、祈る心を持つことを願う」
氷の聖女様ともいわれる貴い方は厳しい表情を変えずにいうと、ちらりとペルルの方に顔を向けた。それを合図に動き出す。
深緑髪の聖職者に先導させ歩く聖女様の、さらに半歩後ろを騎士、その後ろに数人の修道女が続く。
聖女様が通り過ぎれば頭を上げ、後ろ姿を眺めることができる。
にこりとも笑わなくとも王国の民を守る聖女様の御姿を、少しでも長く見るため、順序よく上がっていく頭は穏やかな日の湖面に起きる波紋のように続いた。
やがて聖女様が大階段を上りきり大聖堂内に姿を消すと、人びとは立ち上がり、それぞれの職場へと散っていった。
聖職者たちの祈祷が続く中、広場には幾つかの固まりだけが残った。
この場で祈祷に参加する二十名ほどの修道士女は、助祭の指示に従い、大階段のすぐ下で祈りの姿勢を取った。聖女様の御祈祷は半刻後から二刻ほどだが、その終了まで石畳の上で祈祷するから間違いなく修行だ。
「では我々は小聖堂に移動しましょう」
聖女付司教筆頭とともに最前列で聖女様を迎えた聖女候補者四名を引率するハロル・ギレス司祭がいう。本日の予定として小聖堂での祈祷と連絡してある。幾つかの聖詞を覚えた後、聖女様の祈祷の間小聖堂で祈りを捧げるのだ。
皆と同じ修道女姿をした候補者の一人が立ち上がろうとして蹌踉めいた。他の女性たちよりも小柄なその候補者は隠していてもあの白髪の娘だと分かる。
「気分でも?」
ギレス司祭が受け止めたのを、脇から別の候補者が支える。先ほどまで聖女様の吸い込まれた大聖堂をうっとりと眺めていた者が、もう片方の脇を支えて立たせた。
「私たちが。候補者同士助け合いが大切ですから」
「疲れが出たのかもしれませんから、ゆっくりと連れて行きますわ」
「そうですか。では、お願いして。もう一人の候補者と助祭は先に行ってください。私は大聖堂で所用を済ませてから参ります。向こうではデリウズ司祭が準備を整えてくれています」
ギレスは聖女候補者たちに笑いかけると、すぐに背を向け歩き出した。
おっちゃんを揶揄って遊んでいたバチなんだろうか。それとも他人を
頭の中で鐘を鳴らしているみたいだ。街にある聖堂の鐘楼の落ち着いた音色ではなくて。癇癪を起こした赤子の甲高い叫びに似た鐘が容赦なく響く。
頭の天辺から入り込んできた音は、身体中を巡り、内臓まで覆っている薄皮を剥いでいく。ぺりりぺりりという繊細な悲鳴は外に漏れることはなくとも、鐘の音に混じり不快さを増幅させる。
音に誘発された吐き気も止まらない。酸い液体が喉を上ってくる。目を固く瞑り、呼吸に集中しても具合は良くならない。いっそ意識を失えば苦痛から解放されるのに、苦しみが増すほどむしろ鮮明になる。
周りの動き出す気配に無理に立ち上がろうと蹌踉めいて、状況は悪化した。
両脇を抱えた候補者たちが、引き摺るように歩かせる。呼吸を整えるために口元に手を遣りたいのに、食い込むほどに腕を掴まれていては届かない。
鳴り止まない響きの中ぼんやりと気付く。あの聖詞だ。
大聖堂から聞こえてくる聖詞。聖女が寿いだ聖詞。あれはババァに教えられた聖典には無い。
あの嘘の聖詞が。嘘、の?
——彼らの御魂に
朽ちた闘技場の前に立ち、祈りを捧げる。
魔法で崩壊を食い止めたこの巨大な建造物にて、かつて数万の人間が魔族に殺された。例祭は彼らの御魂を鎮めると同時に、生きる私たちが抱く、魔を統べる者への敵意を新たにさせる。
鎮魂の聖詞を紡ぐ。
独特の抑揚が場を支配する。居並ぶ重鎮も屈強たる騎士たちも、衣摺れの音さえ立てずに聞き入り、共に祈る。
響き渡れ。
人間の未来を願う、私の祈りよ。
朗々と、朗々と。
瞑った瞼の裏に浮かんだ映像は、耳から入る聖詞に導かれ、より立体感を増した。灰色をした空、少し生ぬるい風、刈草の青臭さ。やがて雨が降り出し、聖冠も聖衣もその純白を灰掛かった澱みに変える。
雨に打たれても祈祷は終わらない。紡ぐ声が雨音に消されようとも。
遠くで雷が落ちた。
『君は守られていた。そろそろ自立すべき頃だと思わないか』
・・・・・・・・・・・・・・・
ふたりの聖女候補者には、小娘の状態は良くなるどころか悪化しているように見えた。足はろくに動かず、殆ど両脇を支えるふたりの力で歩いている。引き摺っているといってもいいくらいで、軽いとはいえ完全に力を抜いた者を運ぶのは楽な仕事ではない。
広場から小道に入って然程進まず、ふたりは林の方にその娘を連れて行った。
「いい加減、重いわ」
一人が言いながら振り回すように手を離す。体重を一気に掛けられたもう一人が、エタと一緒に転んだ。
「ちょっ何すんだっ」
「あらゴメンなさい。私ももう限界だったから」
ベールの中では灰色の目が楽しそうに細められている。転がされた聖女候補には、はっきりと悪意が感じ取れた。
げほっ。おぇええ。げほげほっ。
ちっと軽い舌打ちに、倒れた娘の嘔吐が被さる。
「汚いっ離れろっ」
慌てて飛び退くと、転んだ勢いでずれた修道帽とベールをエタに叩きつけた。
「ふざっけんなよ。くそガキが。お前も。『一緒に懲らしめましょうよ』じゃないのかよ」
砂の付いた手で髪を掻き上げる。濃灰の髪色に砂粒は飾りにもならない。
「そぉよぉ。司祭もそれを期待して三人にしてくれたんだし。遅ればせながら気づいたんでしょう。新しい聖女が上司と組んだ詐欺師だなんて、聖職者が許せるはずないもの」
吐くものが無くなってもまだ嘔吐を続ける聖女候補に近づくと、その様を見下ろしながら、ゆっくりと修道帽とベールを外し、きちんと畳んで紺垂れの中に仕舞う。軽く振った赤茶の髪から香油の匂いが広がる。
「聖女付司教をどうやって誑し込んだのかしら。脱いでもきっと骨と皮でしょう、これ」
「あんたは慣れてそうだけどな」
隣の聖女候補の言葉に軽く吹き出すと、そちらに目線を移して肩を竦めた。
「貴女じゃぁあるまいし。今朝の噂話聞いたでしょう?騎士団長に、王太子殿下まで。ご興味を抱かせる何があるのかしら。見目も魔力も司教の手品でしょう?」
戻し疲れて荒い息で横たわった白髪の娘を覗き込んだ後、振り返る。
「もう少し奥まで行った方が良かったわね。もう提げたくないし」
小首を傾げ短く息を吐き出すと足を小娘の身体の下に入れ、転がす。二度転がすと木の根に引っ掛かり、優しく蹴るだけでは動かせなくなった。
「仕方ない。・・・貴女、そちらの手を持って。もう少し奥の木に寄りかからせたいの」
「何をする気だ?」
「ほら、私たち魔力検査がまだでしょう?ここで素晴らしい力を持つこの聖女候補に確認してもらいたいの。私たちの、魔法を」
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