第4話 * 花開く笑顔の許嫁・冬馬胡蝶

 翌朝。

 六月六日、七時六分。


 七時半に設定したスマホの目覚ましよりも早く起きた。目覚ましに代わって僕を起こしたのは雨の音でも同じタオルケットに潜り込んでいた裸のアスターでもない、味噌汁の香り。それこそが僕の目覚ましだった。

 あるいは我こそが目覚ましとでも言いたげにドアが叩かれる。コンコンとリズムよく二回、控えめなノックだった。

 ……嘘だろ?


「おはようございます、蒼斗さん。起きていますか?」


 どうやら嘘ではないらしい。

 柔らかくも芯のある、清澄せいちょうで、フルートを彷彿ほうふつさせる声。そして目前には僕の腕を枕にしてよだれを垂らすアスター。腕は痺れて感覚がない。胡蝶とでさえ未だに一つのベッドの上で寝たことがないというのに。


 アスターは昨晩、話し合いの末に床に敷いた布団の上で眠ったはずだった。しかも服を着ていない。


 この光景を見られたら何を言われるだろう。胡蝶は何を思うだろう――もう一人分、朝食を用意し始めるか。それとも。


 いずれにせよ一途さも誠実さもカッコよさもなく、万が一全てを満たせたとしても印象は最悪。天然な胡蝶が軽蔑するかどうかはわからないけど、軽蔑されても言い訳のできない絵面。カッコよくやり過ごすにはどうするのが適切か。


 万事休す、ドアが開く。


 刹那、タオルケットがふわりと舞い落ちた。ぼさぼさの黄金色の髪の下、眠たげな赤い瞳に冴えないウィンクを残し、アスターがふっと虚空に消えた。起き抜けとは思えない敏捷びんしょうさ。これ見よがしに上半身を起こし、微笑む。


「やあ、おはよう、胡蝶。いい朝だね」


 ドアから顔を覗かせたのは雪白せっぱくに輝くセミロングと、どこまでも高く遠い冬の空のような青い瞳の少女だった。ワイシャツの上に着た割烹着かっぽうぎと新雪のような白い肌がアンバランスな僕の許嫁。


 冬馬胡蝶とうまこちょう

 昨日、僕に告白してくれた少女の一人。


「おはようございます」

 優雅な礼を一つ、それからぱあっと花開くような笑顔で、蒼斗さんと僕の名前を呼んでくれた。


「もしかして、また夜更かしですか?」

 小首を傾げて、雪白のセミロングが揺れる。


「そう見える?」

「ええ、心なしか顔色が優れないような……」


 嫌な夢を見ていた、などと言って心配させてしまうのは何かカッコ悪い。ふと、スマホの隣に鎮座するルービックキューブを見る。

「おかげで新記録だ。六秒の壁を越える日は近い」


 すると胡蝶は控えめに手を叩き、微笑んでくれた。

「まあ! 流石です! でもやりすぎは禁物ですよ? お身体にさわります」


「ああ、気をつけるよ」

「本当ですよ。私は心配です。それと、せっかくですから早く来てくださると」


「せっかくって――」

  枕元のデジタル時計は7時過ぎを示している。

「――ああ、朝練休み?」


 帰宅部の僕と違って、胡蝶は弓道部に所属している。大抵の場合、弓道は屋内に立ちながら屋外の的を狙う。そして矢の羽は長時間濡れたまま放置すると傷み、矢の飛び方を不安定にする。すぐに回収して乾いた布で拭いたり、油で防水加工をするなど対策自体は存在する。とはいえ、そもそも天気が荒れているときは弓を引かないのが一番良い。と、いつだったか胡蝶が僕に教えてくれた。


 胡蝶は物をとても大事にする。いくらでも買い換えられるだろうに。いくらでも、他にいい人はいただろうに。


 ――たとえば高校入学に合わせてドイツから日本に帰ってきた胡蝶と空白の時間を埋めるように世間話をしていたとき、あるいは彼女が日本の武芸に精通していると聞いて僕の中の意地悪な男の子の部分が露わになったときのことだ。


「競技用とは言え人に当たった場合はただでは済まないと思うんだけど、怖くはないの?」


 すると、胡蝶の目から光が消えた。僕は胡蝶の、どこまでも高く遠い冬の空のような瞳が好きだった。そのときの胡蝶の瞳は、深く暗い深海へと落ちていくようで、酷くショックを受けたからよく覚えている。


「ええ、決してあってはならないことです。容易に命を奪えるからこそ、誰より命をとうとばねばなりません――でも、一番怖いのは蒼斗さんのお嫁さんになれないことです。運動に怪我は付き物ですからね」


 胡蝶は恥ずかしそうに笑ったけど、僕を見る青い瞳は笑っていなかった。


 ――こうして普段通りのぱあっと花開くような笑顔を見ていると、あの時の顔が僕の見間違いだったような気がしてくる。最近は雨が続いて朝の鍛錬ができず鈍ってしまうなどと零しても、その声色も表情も愚痴っぽさは少しも含まない。

 しかし一転、僕が部活の話題を出すと花開くような笑顔はどこか歪んでしまった。


「そうなんです。ですから一緒に朝食を、と。それと、あの……」

「わかってるって。冷めないうちにいくよ」

「あの、それもそう、なのですけれど……」


 彼女が言い淀むのは珍しい。言い淀んでいるのは僕の答えが気になるから。その原因は僕が告白の答えを先送りにしているから。本来の胡蝶は老若男女誰に対しても意見を言える気丈な子だ。僕の思い上がりじゃなければ、彼女が言葉にし辛そうにしているときは僕に何か意見を求めるときだけ。ふるしき時代の男尊女卑を自らに課しているようで、それが僕のためであると知っていると嬉しさ半分に胸が痛む。

 

「大丈夫、そっちの件も今日中には答えを出すよ」


 まだ答えが出ていないにも関わらず、今はとにかく彼女を安心させたくて、精一杯に微笑んで見せた。するとカーテンの隙間から漏れる光に照らされて、胡蝶はぱあっと花開くような年相応の笑みを見せてくれた。


「そ、そうですか。なら、いいんです……私、先にほうじ茶を淹れておきますから、冷めない内に降りてきてくださいね!」

「ありがとう、流石は僕の許嫁だ」

「っ……いえ、私は将来、蒼斗さんの妻になる女ですから。蒼斗さんに喜んで頂けるのなら、できないことなど何一つありません」


 きびすを返した胡蝶の耳が赤くなっていた。ドアの隙間から見えたガッツポーズじみた拳を見て表情が軽くなった半面、鳴りを潜めていた罪悪感が僕の胸を締め付ける。タオルケットを握りしめると、耳に息を吹きかけられて背筋が凍る。


「大丈夫です、蒼斗様。全て、わたくしにお任せください。わたくしの全ては蒼斗様のものです。一宿一飯の恩も増えてしまいました。ゆえに、不肖わたくしめが貴方いかなる望みも叶えてみせましょう」


 アスターの蕩けるような笑顔が、息がかかるほど近くにある。彼女に頼めばいかなる望みも叶えられる。ここで堂々とお願いするのは何だかカッコ悪い。でも、悩んでいるのは事実だった。


「……僕はこれから学校に行くけど、家で待つか一緒に来るか、好きにしたらいい」


 どうするか選べなくてアスターに選択を委ねた。囁くような「かしこまりました」に彼女の髪を撫でて答える。カッコ悪く、カッコつけた。アスターは再び姿を消した。


 一階に下りて、手癖でテレビの電源を点ける。今日の降水確率は80パーセント、夕方は雨が降るらしい。

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