第7話 * vs束縛・華
蕩けるような笑みがあった。黄金色の髪がたなびいていた。茜色の瞳が放物線を描いて僕を見下ろしていた。頭上の真っ赤な輪と一対の翼はピンク色の夕日を背負ってなお薄くならない、圧倒的な存在感。
天使が存在するとしたら、きっとこんな形だろう。それが人を愛して堕ちたなら、こんな色になるのだろう。黄昏を象ったような堕天使が僕だけを見て、僕を抱き締めていた。お姫様を救う勇者ではなく、買い与えられたばかりのぬいぐるみに喜ぶ少女のように。それから胸いっぱいに吸い込んだのは掟先輩のストッキングに匂い。僕にわかるのはそれくらいだった。
液体のように伸縮して重機のような力を発揮する包帯が出てきたと思えば、今度は堕天使の腕に抱き締められて、堕天使は蒼斗様独占禁止法だなんてルールを恥ずかしげもなく言ってのけた。何が何だかわからないというか、正直理解が追い付いていない。
「聞いたことないわね、そんな法律」
怒気の籠った声がした。今や掟先輩の瞳孔は開ききり、荒い鼻息が亜麻色のボブカットを揺らしているように見えた。僕が入るはずだった段ボールは斜めに両断され、包帯の切れ端と一緒に散乱している。
しかし、それはあくまで包帯の一部分。両手首の包帯が今度は蛇が
僕らの困惑を知ってか知らずか、菊池さんは大きすぎるほどの胸を張った。気に留めていないともいう。そろそろ息が詰まってしまいそうだ。
「私が作りました、なう」
僕を奪われた上に、ふざけた態度を取られて気に障ったのだろう。掟先輩が抱擁するように手を伸ばした。
「貴方は殺すわ。どうせ法で裁かれないもの。天使殺しなんて」
呼応するように四本の包帯が生徒会室内を駆け巡る。生徒会長専用席や会議用のテーブルに引っかかり、菊池さんの四肢に絡みつく。
アスターの手足が捻り上げられた。身体ごと持ち上げられて、辛うじて残った右手だけで僕を抱えている。右手だけは、包帯の方がブチブチと悲鳴を上げ始めても決して離そうとしない。
「……一応、聞いておきましょうか。
アスターの四肢からミシミシと嫌な音がする。
「これは私の〈愛の力〉。水無月君への想いが具現化した、彼を絶対に離さないという意思の表明。それ以上でもそれ以下でもないわ。二年一組四十二番、菊池紫苑さん。それとも――」
掟先輩の笑顔が妖しく歪む。
「――アスターって呼んだ方がいいかしら?」
――ずきり、頭が痛む。
今度は菊池さんの瞳孔が見開かれた。気圧だけでは説明が付けにくい鋭い痛み。脳の奥をアイスピックで小刻みにつつかれているみたいだ。冷や汗が止まらない。僕を支えていた手も捻り上げれて、僕は会議用テーブルに囲まれるように、しけった書類の山に尻餅を着いた。
「……蒼斗様、冬馬胡蝶がどこにいるかわかりますか?」
口に詰められたストッキングを取り出して口を拭う。
「胡蝶は、転校生と体育館倉庫に」
チッ、と菊池さんの顔が憎々し気に歪む。
「冬馬胡蝶を助けたいですか?」
「当たり前だ」
食い気味にそういった。本当は今すぐにだって胡蝶のところに行きたいくらいだ。けれど、二人の口ぶりから察するにこの状況には転校生も関わっているらしい。転校生もこの〈愛の力〉とやらを使えるのなら、僕にはどうすることもできない。
僕の即答に菊池さんは笑っていた。今にもどこかに行ってしまいそうな、消え入りそうな儚い笑みだった。寂し気な笑みに十年前の面影を見る。
そのとき、ピンク色の光が赤く瞬いた。強い熱と風を受けて目を開けていられない。薄目の先に見た夕日の色は変わっていない。菊池さんの四肢を捻り上げていた包帯が燃えている。焼かれてのたうち回る姿は包帯と言うよりひも状の生き物のようだ。
「蒼斗様。わたくしは貴方に三つ、謝らなければなりません」
一つ数えたとき、菊池さんは僕の腰に跨っていた。
「蒼斗様が碇谷掟に襲われたのはわたくしの失態です。申し訳ありません」
二つ数えたとき、菊池さんは僕の肩を撫でていた。
「蒼斗様から大切なものをすべて奪おうとしているのはわたくしの知り合いです。わたくしの失態でこのようなことになってしまい、申し訳ありません」
三つ数えたとき、菊池さん唇から干したての布団のような匂いがした。
「蒼斗様はようやく一途で誠実にカッコよく生きることができるようになったというのに、わたくしが今からする行為で裏切らせることになってしまったらなら、申し訳ありません」
四つ数えたとき、唇が触れた。
たしかに、これは胡蝶に対して誠実とはいえない。酷い裏切りであるようにすら思える。けれど僕は菊池さんを――アスターを突き放すことができなかった。蛇のように絡みつく彼女にされるがまま、口腔を蹂躙される。
酷い頭痛がした。
ザザザザザザザ、と砂嵐の只中で頭の中身を晒されているような、身体と脳内が別々の場所に存在しているような感覚。
唇で唇を食まれたときを最後に、僕の意識は現実を離れた。辛うじて僕を現実に繋ぎ留めていたのは鼓膜をつんざくような、掟先輩の怒気に塗れた悲鳴と、アスターの舌と唇の感触だった。
「離せこの
その他にも何か言葉の形を成していない悲鳴を上げていた気がするが、そのすべてがどこか僕とは関わりのない遠くのできごとのように虚しく響いていた。
息苦しささえ僕のものではないような気がした。身体の神経全てが口腔内に集中する。
まず舌先を吸われ、舌を咥え込まれた。舌が舌の裏を擦り、上顎の表面をなぞられる。まるで
その最中、唾液に混ざって何かが喉の奥へと流れ込んできたのだ。息苦しさに涙ぐみ、世界がぼやける。肺が酸素を求めて流れ込んできたもの飲み込むたびに、その毒は脳を蝕んだ。走馬燈のように、僕の生き方が脳裏を駆ける。
思考のすべてが、六月六日と六人に占領される。
すべて、思い出した。
六月五日、僕は本当は六人の少女に告白されていた。
六月六日、違う世界の今日。みんなが僕を求めて殺し合った。
六月七日、明日のイフ。本当は、僕がいなくてもみんなは幸せに生きると知って、僕は僕のために、胡蝶一人のためだけに誠実に生きると決めた。そうして誰も殺し合わない今日――六月六日に辿り着いた。
はずだった。
「うるさいですねえ」
蕩けるような笑みを見た。つぅー、と唇と唇のあいだに無色透明の橋がかかる。いつからか拳でアスターを殴りつけていた掟先輩が床と平行に吹き飛ばされた。不可視の力――念動力とでもいうべきだろうか――に動かされてふわりと、生徒会長専用の武骨な机の天板に仰向けで叩きつけられた。
肺の中の空気を押し出されて息を荒げる掟先輩の身を案ずることもなく、アスターは指を鳴らす。すると机が微かに浮き上がり、エナメルバッグから真っ赤なロープが伸びて、あっという間に掟先輩を机に縛り付けてしまった。
ロープは手足を拘束するだけに留まらず、掟先輩の身体のラインを露わにした。ワイシャツの上から乳房の形が明らかになり、スカートの上から鼠径部の形すらも見て取れる。
アスターが指の代わりに顎で指し示すと、吐き捨てたストッキングが放物線を描いて掟先輩の口に詰め込まれた。もう汚い言葉も悲鳴も音でしかない。
アスターは一度も掟先輩を見ていなかった。
「こちとら二○○○年以上の付き合いです。貴女にだけは、わたくしは決して負けはしなかった」
僕はといえば、走馬灯が脳裏に焼き付いて離れなかった。
現実逃避ともいう。
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