幕間 * 走馬灯ラブコメディ①

第8話 * 月、焚火、天蓋にて

 これは僕と胡蝶が恋人になる以前の、甘い日々の記憶である。


 六月五日、僕は胡蝶に告白して、胡蝶も以前から慕っていたと答えてくれた。そもそも両片思いをしていたのだ。思い返せば頬が緩むような経験は少なくない。


 よほど胡蝶が取られてしまうのが怖かったのか、あるいは僕が胡蝶以外のものになってしまうのを恐れたのか、六月六日と六人分の告白を繰り返したことと一緒に、僕は胡蝶のことを想っていた。



 たとえばあれは去年、僕と胡蝶が再会して半年ほど経った秋に行われた藍花高校の後夜祭でのことだ。一般公開されるイベントが終わり、内部の生徒だけの時間が始まる。文字通りに火ぶたを切る役目を担ったのが、当時すでに弓道部のエースとして顔役になっていた胡蝶だった。


 明るいうちに一般公開の出し物の片づけを終えて生徒のほとんどが――見当たらない生徒はばっくれたか、あるいは人気のない校舎内で――胡蝶と僕の姿を重ねて頭を振った。校庭の中央に設置されたキャンプファイアの枠組みと一緒に、お化け屋敷のおどろおどろしい人形や、射的や輪投げの看板、占いの館のセットなど文化祭の残滓が燃料に浸かる。食欲をそそる残り香も燃料の臭さに上書きされた。


 生徒会長が朝礼台に立ち、マイクを通して彼女を呼んだ。

「弓道部、一年二組二十二番、冬馬胡蝶さん」


 体育館と校舎の一階を繋ぐ渡り廊下の中ほどに、弓道着姿の少女が立っていた。プラチナブランドのセミロングが、料理をするときと同じように頭の後ろで括られている。僕一人だけに見せる特別な姿だと勘違いしていた。さらに普段僕には見せない凛々しい表情を見ると胸が苦しくなる。誰もが胡蝶に気を取られ、みるみる喧騒が失われる。


 胡蝶に気を取られている内に直径四〇センチ弱の的が祭りの残滓に添えられていた。白い円が三つと黒い円が三つ交互に連なった的と胡蝶の距離は三〇メートル強。胡蝶はいつもより少し遠くて緊張したと言っていた。矢より先に的を射抜く冷たい瞳には緊張なんて露ほども読み取れなかったけれど。


 弓を構えると、顧問らしき人物が油紙の巻かれた矢尻に火を点けた。弦の軋む音がギリリと伝播して――弓と矢の交差が解かれた。中央を射抜かれた的から、遅れて風船の弾けるような音がして、轟々と炎が昇る。


「これより、第七十六回藍花高校後夜祭を開始いたします!」


 誰もが炎に目を取られた刹那、ぱあっと花開くような笑みを見た。

 あの笑みを見たら、誰もが恋をせずにはいられない。


 *


 これは持論だが、後夜祭には二つの楽しみ方がある。


 一つは、キャンプファイアを囲んでクラスメイトたちと祭りの余韻を楽しむこと。朝礼台に立って生徒会役員が一年間の生徒会活動を締め括るような話をして、その前後で陽気な連中が好むノリの曲でタオルを回したり、陰気な連中もそれに乗じてみたりする。 


 二つ目は、祭りの熱気が残る人気のない校舎の暗闇に男女で浸ること。僕と胡蝶は後者だった。クラスメイトに交じってノリノリでタオルを振る楓と、楓に背を押されて恐る恐る周りと調子を合わせる葵を尻目に、僕は胡蝶の元に急いだ。


 周りと違うことをしているのが何だか悪いことのように思えて、我先にとキャンプファイアへと急ぐ弓道部員の気配を感じるたびに息を殺した。渡り廊下と体育館、それと体育館倉庫を超えた先に弓道場はある。


 耳を澄ませても道場から人の声は聞こえない。生徒たちの声も放送機器から出る割れた音も遠く、張り合う鈴虫の鳴き声に負けていた。


「後夜祭の火矢のあと、よかったら弓道場に来ませんか?」

 胡蝶がそう、誘ってくれたのだ。

「他に人がいるかもしれませんから、合言葉を決めておきましょう」


 胡蝶にしては抜け目がないなと思った。

 僕は大人しく胡蝶に従った。


 大きく息を吐いた。月は満月には少し足りず、微かに雲がかかっていた。キャンプファイアーの前に上げた花火の痕かもしれない。長く、長く息を吸って二回、コンコンとドアをノックした。すると、扉越しにフルートのような清澄な音色が聞える。


「月が、綺麗ですね」

 少し、震えていた。


 喉が鳴った。答える。

「私、今なら死んでもいいわ」


 ぎい、と鳴って覗いた青い瞳と白い髪を見て、台詞が逆だったなと苦笑した。


 真っ暗な空間、射場はシャッターが下りていて的も見えない。一つ屋根の下に二人きりなんて珍しくないのに、上手く言葉が出てこなかった。


 今日初めて見た道着姿に、よく似合ってるよと言おうとした。けれど今さらのような気がして飲み込んだ。キャンプファイアに誘おうとして、寸前で思いとどまった。僕がこれだけ肝を冷やすのだから、誘った胡蝶は相当な勇気を必要としたはずだ。何をするのか聞こうとして、直前のやりとりを思い出して何も言えなくなってしまった。


 もしかしたら、告白そういうことだってあるかもしれない。だとしたら、僕の方からするべきじゃないかとも思った。けれど、当時の僕は彼女のことが好きであるという確信も、彼女と付き合えるだけの一途さと誠実さとカッコよさを身に着けられている自信もなかった。異性と付き合うには不相応だと考えていたのだ。


 ――あのとき僕が誠実に想いを告げていたのなら、六月六日の悲劇は起こらなかった。


 *


 ミシミシと嫌な音がした。薄い鉄板の接合部がどこか錆びているのかもしれない。僕らは弓道場の屋根に上っていた。告白じみたやりとりのあと、辛うじて僕の方が先に提案したのだ。あるいは、それが胡蝶の狙いだったのかもしれない。


「……屋根からなら、キャンプファイアーも見れるんじゃないかな」


 すると胡蝶は少し迷ってから頷いて、シャッターに向かった。内側から鍵を開けると、的を設置するために盛られた土が見える。それより手前、射場から的までのあいだには人が入れないよう、ひし形を連ねた鉄製のネットフェンスが張られている。


「昔、矢が屋根の上に載ってしまったときはここから上ったんです」


 ここまで来て、それでも何か悪いことをしているような気がして、ここから上ろうとは言えないのだろう。僕だって普段なら好んで上ろうとは思わない。けれど、今日は後夜祭だ。少しくらい羽目を外したって罰は当たらないだろう。


「大丈夫、もしものときは僕が一人で勝手にやったことにすればいい。胡蝶はそれを注意するために危険を冒して上ってきた。そういう理屈なら、万が一見つかったとしても僕の微々たる信用が地に落ちるだけだ」


 悩まし気だった胡蝶がむっとした。

「……嫌です。もしものときは、私も一緒に怒られます」


 思わず微笑んで、頷いてしまった。

「わかった。もしものときは一緒に堕ちよう」


 そんな顔をしてくれると知っていたから、独り善がりな僕を怒ってくれるとわかっていたから、僕は誠実なふりをしたのだ。我ながら本当に卑怯な奴だと思う。


 フェンスをよじ登り、雨除け用の小さな屋根に足をかけた。そこのまま体重をかけたら学校内の信用と一緒にベキベキと落ちてしまうような気がした。事実、薄い鉄板はどこか錆びていたのか嫌な音がした。けれど、僕が何とか男を見せて先に上り、胡蝶を引き上げることができた。胡蝶の手は想像よりもずっとぼろぼろで、想像通りに冷たく、心地よかった。何もかもが上手くいっていた。屋根の上に上り切る、そのときまでは。


 僕は雨避け用の小さな屋根よりさらに上、傾斜の激しい金属面に腰を下ろしていた。同じ高さまでこれたことで胡蝶がほっと胸を撫でおろした瞬間、僕は足を滑らせた。


 急転直下。

 月が視界を一閃する。


 胡蝶が悲鳴とも吐息ともつかない声を発し、僕は大きく鉄を鳴らした。


 バアン、と。

 僕らだけの花火が胸を打つ。


 僕は、図らずとも胡蝶に覆い被さっていた。


 何から守るわけでもなく、他意はなく、体制を立て直そうとした結果、月を背にして青い瞳と見つめ合っていた。互いの吐息がかかり、胡蝶の白い顔に差す朱色が薄暗い中でもよくわかる。荒れた手とは裏腹にニキビ跡の一つもない綺麗な顔を、呼吸を忘れて見入っていた。


 そのまま身体を重ねることもできた。手を繋いで、抱きしめ合って、キスをすることだってできた。きっと僕らは同じことを考えていたけれど、見つめ合う以上のことは何なかった。


 ――どれだけの時間、そうしていたのだろう。屋根を叩いた手の痺れが全身に回っていたのかもしれない。ふと、胡蝶が目をそらした。


「お……おたわむれを……その、子どもは、まだ早いのではないかと……」


 自分の人差し指を食むように唇に当て、キャンプファイアの逆を向いていた。雪のような肌をかあっと赤く染めて。


「ご、ごめん。違うんだ。ちょっとバランスを崩しただけで、その」


 そういうつもりはなかったのだ。と口にすることすら恥ずかしくて心臓の激しさに反して息は止まりそうになってしまう。ああ、息が止まりそうだから心臓が激しかったのか。呼吸を思い出して、僕はそっと胡蝶の隣に腰を下ろす。キャンプファイアが遠い。


 ここにきて緊張が解けるということもなく、僕は胡蝶に弓道の話を聞くことにした。火矢を放つ姿があまりにも綺麗で、誰も彼もが胡蝶に夢中だったという話。弓の重さの話に、どの道具が何という名前なのかという話。それから、人を殺めるだけの力を持つのなら相応の責任として命を尊ばねばならないという話。胡蝶は人も物も大切にする。僕以外にも、良い人は幾らだって見てきただろうに。


 そうやって遠い灯を見下ろしながら、二人だけの世界で他愛のない言葉を交わした。あの頃の僕らは上手く目も合わせられず、指先の感触を確かめ合う程度の婚約者だったのだ。

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