二章 * 第二次天界大戦・華

第9話 * 雪月蓮は飄々と笑う

 ふっ、とピンク色の空が陰る。神の造形物である手のひらが差し出されていた。蒼斗様、と僕を呼ぶ鈴のように可憐で鐘のように荘厳な声に背筋が凍る。不安げに僕を見下ろす茜色の夕日があった。


「行かないのですか? 冬馬胡蝶を助けに」


 天使のように見えた彼女が今は悪魔に見える。堕天使であるなら当然か。僕は差し出された手を取れなかった。どうして僕を愛しているといいながら、僕を他の異性の元に向かわせるのか。どうして一途で誠実でカッコよく在れなかった僕を、一途で誠実でカッコよく生きさせようとしているのか。


 ねえ、アスター。

 喉から零れた声は自分のものとは思えないほどか細い。六月六日を三度繰り返しても、僕には理解の及ばない何かがある。


「君はどうして、そこまで僕のために――」

 ――僕のために、動くことができるのか。

 言うより早く、アスターは僕と同じ目線に立って、僕の手を取った。

「貴方を愛しているからです」


 愚問だった。

 即答だった。

 誰だってそうだった。


 存在意義さえ僕に依存する許嫁〈愛する人のためなら、どんな困難でも乗り越えられる〉


 ストーカー行為を普通だという幼馴染〈愛する人のことはすべて、知っていたい〉


 僕との甘い妄想と現実を混同する後輩〈愛する人は、記憶の中ではもっと愛おしい〉


 心も身体も僕のために改造する親友〈愛する人が思ってくれるのなら、自分の生まれ持った姿さえ捨てられる〉


 拉致監禁も厭わない先輩〈愛する人と、一時たりとも離れたくない〉


 僕自身、十年前にアスターと約束していた。

 愛は、この世で最も強い理由になる。


 でも、

「――僕は、君のことを好きになれそうにない」

 だって僕は、胡蝶のために一途で誠実でカッコよく生きると決めたのだ。


 アスターは諦観の籠った笑みを浮かべ、こういった。

「知ってます」

 僕に〈ちょっとした洗脳〉をかけたときと同じように。


「都合が良すぎるっていうのはわかってる。その上で、頼みがある」

 彼女の想いと能力だけは信用することができる。

 アスターの手を握り返した。

「助けてくれ、アスター」


 僕に頼られたのが余程嬉しかったのだろう。蕩けるような笑みがあった。

「かしこまりましたあっ!」


 取引を持ち掛けることだってできたのに、アスターは僕の願いを聞いてくれた。十年前と同じように。今度こそ。


 *


 僕は胡蝶を誰にも取られたくない。けれど、どうやら相手は異能〈愛の力〉を用いるらしい。僕にそんな力はない。ごく普通の男子高校生だ。他の誰かがいて初めて自分の存在を証明できるような、どこにでもいるありきたりな存在。だから誰かに助けてもらうしかなかった。


 生徒会室の扉に手をかけたとき、あることに気が付いた。


「ねえ、アスター」

「はい、なんでしょう?」


 扉に鍵がかかっているわけではない。扉を開かずに、繋いだままのアスターの手を握り締める。


「体育館倉庫の前まで、瞬間移動ってできるかな?」


 アスターは目を丸く見開いていた。

「蒼斗様、いつの間に瞬間移動酔いを克服したので?」


 克服したわけではなかった。平衡感覚を失って、地に着いているのが足なのか見上げているのが空なのか、朝焼けなのか夕焼けなのか僕が飛んでいるのか世界が流れているのか、自分の存在すら曖昧になってわからなくなってしまう。酷い瞬間移動酔いを克服する方法なんてまるでわからない。


 でも、

「僕が一番怖いのは胡蝶が僕以外のものになってしまうことだ。それ以外の問題は問題じゃない」


 ――苦手でも、やらなければならなかった。苦手なことをやってなお、やりたいことがあった。悠長に胡蝶以外の手を引いて全力疾走などしていられない。


 アスターは嬉しそうにぎゅっと手を握り返した。

「流石でございます。では僭越ながら」 



 浮遊感があった。ふわり、地面が消える。重力が消えて、空も消える。繋いだ手の感触だけが僕の存在を証明する。上も下も主観も客観も曖昧模糊として胃がひっくり返るような吐き気と同時、世界が返ってきた。


 瞬間移動した先はさっきまで見ているだけだった体育館倉庫、その分厚い鉄扉の前だった。いやな予感があった。背筋が凍りつくような寒気が襲い、心臓が早鐘を打っているのがわかる。屋上前の鉄扉を思い出し、戦いの予感が強まったのだ。


 僕の方から繋いだ手をそっと離した。震えが伝わらない内に、けれど無下にしてしまわないように。鉄扉に手をかけたとき、中から悲鳴にも似た声が聞こえた。


「お戯れを!」


 フルートのような清澄な音色というには激しい。けれどそれは間違いなく胡蝶の声だった。ガタン、と何かが大きく揺れる音。それと肌が肌を力強く打つような音がした。


 迷いはない。鉄扉が重い。鍵はかかっていない。手のひらほどの隙間に身体を捻じ込むようにして、体育館倉庫に飛び込んだ。


「胡蝶!」

 予感は間違っていなかった。


 人が一人通れるかどうかという小さな窓しかない狭い空間、ゴム製品と汗と埃の混ざった匂い、新体操用のマットの上で僕ではない他の誰かに向けられた青い瞳は冷ややかだった。蒼斗さんと僕を呼び、青い瞳に涙が溜まる。エメラルドを思わせる瞳は僕と合うなり丸く見開かれ、にやりと笑うと胡蝶に向き直る。頬は赤く腫れていた。


「……ボクは本気だよ、冬馬胡蝶。キミを、他の誰にも渡したくない」


 囁き程度の大きさで、しかし耳を傾けたくなってしまう、抜き身の刀身のような声だった。大理石のような白髪とエメラルドの瞳の少年が飄々と笑い、胡蝶を口説いている。


 両手首を掴み、胡蝶を新体操用のマットに押し倒して、すでに互いの吐息は交換しているだろう。口づけまであと一歩、というところで僕はようやく駆け出すことができた。そしてほぼ同時に――二人の頭部が交差する。


「嫌ぁ!」

 胡蝶の頭突きが炸裂した。


 少年は大仰に仰け反り、体勢を崩した。ボクサーがノックアウトされる寸前のスローモーションを見せられているようだ。すかさず、僕の傍に駆け寄ってきてくれた胡蝶を抱き締める。息は荒く、微かに震えていた。態度こそ気丈だが、怖かったのだろう。その恐怖の理由が僕と同じであれば申し訳ないけれど、嬉しい。


 胡蝶の肩を抱きながら、アスターと並ぶ。


 少年は飄々した笑みを向けながら鼻血を拭う。抱擁してやるから飛び込んでこいとばかりに大手を広げ、こういった。


「気をつけなよ。あんまりふらふらしてると可愛い可愛い彼女を取られちまうぜ? ボクみたいにね」


 最後の一言にひっかかりを覚えた。単に大切な人を取られた経験があると語っているにしては含みがある。順当に考えればそれは――そっ、と桃色の翼と手のひらが僕と少年のあいだに差し出された。


「蒼斗様、ここは私に任せてください」


 可憐な鈴の音は聞こえない。荘厳な鐘の音色百パーセントの威圧。


「じゃあ、あいつが……?」


 ぶわっ、と威嚇するように桃色の羽が揺れる。

「今度こそ、傲岸不遜な神の野郎をぶっ殺します」

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