第13話 * 追跡vs束縛・種

 視界が切り替わる。小さな窓から夕日が差し込み、床にはタイルが敷き詰められている。壁を埋める個室と鏡、誰もいない女子トイレ。いけないことをしているような気分になったのも束の間に、鏡にふっと映る姿があった。


 現れては消え、消えては現れる、切れかけのフィラメントのように明滅しながら首を振るう、怪談の如き少女。きちんと姿を現したと思えば、今度は明るい瞳が落ち着かない様子で辺りを見渡した。つややかな黒髪がふわりと舞う。


「大丈夫……大丈夫、あたしが一番、蒼斗あいつのことを知ってるんだから」


 そういって、自らの笑窪えくぼを人差し指で押し上げて笑顔を作る。笑顔の練習をする葵なんて初めて見た。その姿がやけに似合っていて、それを言えば彼女はきっと不貞腐れてしまう。そうして溜め息を吐いて、謝る僕にデートを強請ねだるだろう。


「〈愛する人のことはすべて、知っていたい〉」


 葵がそう唱えると、明るい色の瞳が小さくなり、三白眼さんぱくがんの中で鮮やかな赤色に染まった。それから、目だけで何かを追った。確かめるように呟く。


「生徒会室に一人、屋上の前に一人、弓道場に一人。生徒会室にいるのは会長で、弓道場にいるのは冬馬、あと一人は……楓? 倉石? もう、誰かいなくなっちゃったの? 楓が、蒼斗を好きじゃなかったの? それとも、倉石が蒼斗を弄んでいるだけだったの?」


 声はだんだんと泣き出しそうに尻すぼみになった。目を一度ぎゅっと閉じて、ぱちぱち見開く。


「いやいやいや、別に悲しくなんてないんだから。ライバルが減って嬉しいくらいよ。ただ蒼斗は優しいからあたしたちの内の誰が死んでも悲しがるかもなって思っただけで、いや別に蒼斗のためってわけでもなくて!」


 そういうと勢いに任せて自らの両頬を平手で打った。小さな顔を覆ったままで鏡の中の蒼白な顔を確かめている。


「あたし、誰に言い訳してるんだろ。今さら隠したってしょうがないのに――あたしは、蒼斗のことが好き」


 再び、長い睫毛まつげの下で小さくなった瞳が赤く輝く。


「とりあえず近くに敵影はなし。弓道場から校舎に向けて移動してるのは冬馬で間違いない。生徒会室から移動してるのは生徒会長のはず。楓か冬馬だったら話し合えるかもしれないけど、倉石と会長はヤバい」


 顔を覆ったままの手を下ろし、瞳の色を黒に戻した葵は再び透過した。声だけが鏡に反響する。


「まずは戦えるようにしないと。透明になれるだけでも、相手の場所がわかるだけでもダメ……家庭科準備室、開いてるかな?」


 キィ、と。ドアが開く。

 そこは二階の渡り廊下にある女子トイレだった。さっきまで図書室にいたのだろう。言葉通り、家庭科準備室を含む特別教室が並ぶ南棟に向かっている。渡り廊下も例に漏れず黄金色の西日が差し、しかし猫のごとく音を殺して歩く葵の影すら映らない。


 階段を過ぎた先には生徒会室があるが、掟先輩はいないようだからとりあえずは安心だ。南棟一階の最も東から二つ目の教室が家庭科準備室だった。そのスライドドアが音を立てずに開いたのを最後に、視界を切り替える。


 *

 

 壁際に並ぶ棚には包帯や茶色の瓶が並び、窓際にはベッドが二つ並んでいる。教員用のデスクの上には開いた救急箱がある。おきて先輩がいたのは保健室だった。保健室も南棟にあり、家庭科準備室との間には家庭科室と資料室、教室二つ分の距離がある。


 掟先輩は救急箱から大量の包帯を取り出し、自らの手足に巻いていた。怪我をしている様子はない。今や手は二の腕から指先まで、足は太ももから足首までが包帯に覆われている。明らかに過剰な量だった。


 両手と左足に包帯を巻き終わり、右足に巻く包帯が半ばとなった頃だった。掟先輩の動きが止まる。閉めていたはずのドアが開いていた。ドアが開く音はしなかった。代わりに荒い息遣いと嗚咽おえつが掟先輩の背後に迫っていた。


 掟先輩がくすりと妖しく微笑んだ。


「たとえ好きな人のためでも人殺しなんかできない。それは悪いことだから、それが原因で怒られてしまうかもしれないし、嫌われてしまうかもしれない。とか、そんなところかしら? 彼の近くにいる子で、こんな風に躊躇うのは貴女あなたよね……息、漏れてるわよ? 二年一組出席番号三十番、緋鉈葵ひなたあおいさん」


 襲撃者、仮定・緋鉈葵の息が詰まる。代わって声が漏れる。


「う、あ、あぁぁぁぁぁぁぁあああああああ!」


 黄金色の中に人影が二つ。掟先輩のいう通り、背後に立っていたのは葵だった。葵は逆手で包丁を握り、大きな涙袋から形の良い顎の先にまで涙を滴らせていた。


 殴りつけるような一刺しだった。背中に包丁を突き立てる音は矢が的を射抜く音と大差なく、あっけないものだった。掟先輩が地面に叩きつけられ、救急箱の中身が散乱し、巻いている途中だった包帯が明後日の方向に転がっていく。葵の手には血染めの包丁が握られている。


 掟先輩は床にバウンドして仰向けになっていた。眼鏡は吹き飛び、血の海が広がる。苦し気な咳も赤黒い。葵は膝が汚れるのも構わず、死にゆく掟先輩に馬乗りになった。


「こうしないと、蒼斗が誰かに取られちゃうから。あたしの知らないところに行っちゃうから。そんなの嫌だから。だから、だからだからだからだからだからだからっ、仕方ないのよ。これは仕方ないことなんだから! 蒼斗はきっと、仕方ないことなら許してくれるから!」


 包丁が振り下ろされる。それでもなお、掟先輩は笑っていた。母性さえ感じる微笑みは妖しい光を宿している。そして、肉の爆ぜる音がした。


 吹き飛んだのは葵の方だった。廊下まで投げ出されて全身を強かに打ち付け、窓硝子の破片が頭の上から降り注いだ。吹き飛ばしたのは保健室のベッドだった。掟先輩は指先一つ動かすことなく、ベッドを葵にぶつけたのだ。


 ふと、歌うような声がした。

 掟先輩の声だった。


「〈愛する人と、一時いっときたりとも離れたくない〉」


 掟先輩は倒れたままで、しかしは彼女の代わりに乱れ踊っていた。四肢に巻き付けていた包帯それがほどけて、ひとつひとつが別の生命体のように蠢いている。明後日に転がっていたはずの包帯はベッドの足に巻き付き、残りは掟先輩を中心に蜘蛛の巣のように複雑に絡み合っている。特筆すべきは彼女が宙に浮かび上がっていることと、滝のように流れていた血があっという間に包帯に吸収されてしまったことだ。


 さらに、赤く染まった包帯はあっという間に元の白さを取り戻した。掟先輩は直立でふわりと床に降り立ち、包帯は螺旋らせんを描いて四肢に巻き付いた。一見、体操選手のリボンを思わせるが、僕には今や血を啜る類の触手にしか見えない。長くしなやかな指が背中を擦る。傷は跡形もなくなっていた。


 狐を思わせる視線の先では窓が割れていた。散らばる破片のいくつかには血糊が付着している。葵はいつの間にか消失していた。血糊は点々と、家庭科室に向けて続いている。


「確かに仕方ないわね」


 そういって、掟先輩は葵の取り落とした包丁と、自らの眼鏡を拾い上げた。


「仕方ないから、一回には一回で許してあげましょう。貴女を一回で殺してしまうのも仕方ないし、貴女が記憶を失くしてしまうのも仕方ないし、仕方ないから水無月君もきっと貴女のことを諦めてくれるものね?」


 思わず視界が切り替わる。見ただけでかびと紙の香りを想起する空間。葵は昔から図書室が好きだった――好きにならざるを得なかった。

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