第32話 * 徒花を妬く

 少女は独り、悲劇を繰り返した。

 少年は耐えられなかった。


 アスターは懐かしむように語った。声は鈴の音に似ていた。鐘には遠い。風に揺れる鈴の音。サファイアのような在り方を夢見た少年と、二人の夢を叶えるために二千年超を戦った堕天使の話。


 頭を抱えて、顔を覆い、目を開けたまま項垂れる。コンクリートに黒色のマーブル模様が広がっていた。被害者面を浮かべるのも、悲劇のヒーローぶるのも得意技だった。目を擦る。光が網膜を焼く。頭の奥がずきずきと痛む。


 夕陽、風の音、不存在の屋上にて。

 視野を狭める一対の翼。背中合わせの温もり。漂う太陽の香り。僕は光を、彼女は影を見ていた。


 辿り着いたはずのハッピーエンドは神の手で覆された。

 二十四万五千八百三十回目の悲劇。

 そもそも僕がいなければ、とは思わないよう努める。それは僕を想ってこの世界を目指した彼女に対して不誠実だ。


 アスターが僕の心臓になったことで世界にかけた嘘が明かされようとしている。すでに一回目ほどの力は残っていないのだろう。黄昏時だけが彼女の維持できる不存在なのだ。


 事実は一つ。

 アスターは終始、僕のために在ろうとしていたこと。


 残された愛は三つ。

 僕の命はアスターのもので、神の力は不安定で、明かされた記憶は特に辛い部分にはモザイクがかかったままだった。


 誠実な花を咲かせようと奮闘した日々を思う。繰り返した日々が無駄ではなかったと証明し続けた彼女の思いを想う。想いは誠実なふりをして、無責任な口を突いて出る。


「知らなかった」

 すると、楽しげな声が答える。

「知っています」


 ――だって、彼女自身が忘れさせていたのだから。

 三日間も必要だったわけではない。三日間しか、僕は耐えられなかったのだ。


 ごめんなさいが遠い。


「君は悪くない」

 すると、慣れた調子で答える。

「貴方は悪くありません」


 ――彼女は僕の背負えなかったものすべてを背負ってくれていた。

 誰も悪くない。僕が悪者になることを許さない人がいるなら、僕は僕を一辺倒に悪だと自覚することを許せない。


 聞きたいことは山ほどあった。神の異能、天地創造クリエイションとは。先送りにするたびに伸びている復帰までの時間について。いつから僕の思考を読めなくなっているのか。


 おそらく、難しい話ではない。優しい嘘は僕が教えを乞うより先に崩れ始めていた。終わらせなければ僕の生命を維持することができなくなっていたのだとすれば、ほかのことにも説明がつく。


 大きく、大きく息を吸う。苦しくなるまで息を吸い、長く、長く息を吐いた。肺の中が空になって一息、必要な分だけ息を吸う。

「アスター」 


 楽しそうに彼女は答える。

「はい、蒼斗様」

 名前を読んだだけで声が踊ってしまうのだ。


 唇を噛み締めていう。

「振り向いても――」


「いけません」

 昏い声でアスターは答えた。

 僕は立ち上がり、振り向いた。

 

 太陽は影を作っていなかった。

 金髪灼眼の前に広がっていたのは、星のひとつもない闇だった。


 校舎すらも闇に飲まれかけていた。アスターがいなければ僕はどうなっていたのだろう。思わず目をそらしてしまいたくなる。彼女の背中に思いとどまる。


 肩甲骨の辺りから伸びる巨大な翼は薄桃色で、天使のイメージからはほど遠い。肩の上で揺れる金色の髪はぼさぼさで、内側はところどころ赤く染まっている。たわんだお尻を包む深紅の布は焼け焦げ、切り刻まれ、辛うじて下着の体を成しているような有様。細い――大小様々、古傷から生傷まで数えきれないほどついた――背中は猫のように丸まり、学習椅子の背に座っていた。


 その背中を綺麗だと思った。

 心の声を聞かれなくて良かった。

 躊躇いながら、僕は手を伸ばした。


「ありがとう。アスター」


 夕日のような髪は羽毛のように柔らかく、力を加えればそのまま癖になってしまいそうだった。形のいい耳が赤く染まる。


「いけませんと、いったのに……」

「どうして?」


 肩をすくめて、耳を弄る手に縋る。自身を抱いて震える姿は寒がっているように見えた。

「こんな醜い姿、見られたくありませんでした」


 鈴のような声だった。

 恥ずかしがっているだけだった。


 思わず頬が緩む。 

「こんなことをいうのは不誠実かもしれないけど――」

 かもしれないけれど、きっと喜んでくれるから。僕のために命をかけてくれた人を労わらない僕は、きっと胡蝶に嫌われてしまうから。

「――僕は、君のいう醜い姿を、愛おしく思うよ」


 誠実であるためには、不誠実であることも受け入れなければならない。繰り返された放課後、僕はそう学んだ。


 アスターの背が震えた。笑っているようにも、泣いているようにも感じる。時折漏れる声が、必死に息を飲んでなにかを堪えていることだけ教えてくれた。


 鈴が震える。

 耳を澄ます。

「ずるいです……っ」


 唇を噛みしめて闇を見据える。

「――あれは僕の死ってことになるのかな?」


 こくり、金色が揺れる。

「――……はい」


「僕はどこに向かえばいい?」

「……あそこです」


 背中を見せたまま、傷だらけの手のひらが校舎への入り口を示した。手を離すことはできなかった。両手のひらが手を挟み、両手のひらを頬と肩が挟んでいる。

「いってしまうのですか?」

「いかなきゃ。胡蝶が待ってる」


「どう、なさるおつもりですか?」

「大丈夫だよ。大切なことはもう、すべて君に教わった。負けない方法なら見つけてる」


 頭を押し上げ、指を一本一本、引き剥がした。


 鐘のような声がする。

「どうか、忘れないでください。わたくしの全存在をかけて、貴方を死なせはしません。しかし、生き返るまでのあいだ有存在である身体は無防備です。目が覚めたとき数回の死を経験し、再び死に至るという可能性もあります」


 鉄扉を掴みかけた手が止まる。

 それはつまり――


「誰かがいなければ永遠に死に続けるということを、どうか忘れないでください。たとえ貴方は自分が傷つくことを許しても、貴方を思う者は誰ひとり、貴方が独り傷つくことを許しはしません」


 そう聞いて、鉄扉を掴む。

 あっち側で待っているのは、胡蝶ひとりではない。


「……死なない程度に死ぬ気でやるよ」


 鉄扉が重い。

 全体重を乗せて鉄扉を開く。

 白い光に身を包まれる。

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