第16話 * 追跡vs束縛・蕾
掟先輩が図書室の扉に手をかけた。覗き窓の先にも血痕が続いている。両開きの扉に鍵はかかっていなかった。入って左の貸し出しカウンターには誰もいない。血痕は迷うことなく、教室隅の掃除用具ロッカーに続いていた。
胸が高鳴り、催した吐き気が口から漏れる。
「……もう、やめてくれ」
くすり、と。
耳に熱い吐息がかかる。
「聞こえませんよ。どんなに愛を込めたとしても、蒼斗様にお貸ししたのは〈千里眼〉と〈地獄耳〉のみです。それに今はわたくしとお喋りしているのですから、他の女と話すことなんてないでしょう?」
「でも、このままじゃまた……」
……また、誰かが死ぬ。命か記憶か、残酷な選択を強いられる。
「流石は蒼斗様。お優しい。ですが、これが現実です。倫理観や道徳観の欠如なんて珍しくありません。恋は盲目、というのでしょう?」
嘆くのは簡単だ。悲劇のヒロイン気取りは誰でもできる。いつの間にか口の中が血の味で満たされていた。歯を食い縛り過ぎたらしい。
「いけませんよ、蒼斗様。血はそんなに美味しくないでしょう?」
唇に何かが触れた。アスターの唇だと気付いたときには口から血が零れた。差し込まれたのがアスターの舌だと気付いたときには血の味は失われた。
「……悪くないですね。わたくし、蒼斗様の血でご飯三杯はいけそうです」
馬鹿なことをしている間に、掟先輩がロッカーに手をかけていた。
「やっぱり貴女ね、こういう凡ミスを犯すのは。二年一組出席番号三十番、緋鉈葵さん」
左手に包丁を、右手はロッカーの取っ手を掴んでいた。包丁の切っ先をロッカーに添えるように構え、こういった。
「みいつけた」
ロッカーが開く。包丁が突き込まれる。大動脈からロッカーに、窓に、床に、赤い花が咲く。掟先輩が自らの首から吹く血を抑えていた。
「それはこっちの台詞よ」
「学ばないわねえ、貴女」
次の瞬間、葵が地に伏していた。バタバタと本が落ちる。葵は本棚の下敷きになっていた。掟先輩の四肢に巻かれた包帯があっという間に大動脈を治し、本棚を引き倒したのだ。うつ伏せに倒れた葵は包丁を落とし、しかし、唾液で濡れた布はしっかりと握り締めている。
掟先輩がくすくすと葵の目の前にしゃがみ、葵の奥歯がギリリと鳴った。
「っていうかそれ、何?」
葵の頬が赤く染まる。
「べ、別にアンタには関係ないでしょ?! やめて! 触んないで!」
抵抗も空しく、葵の閉じた指が一本ずつこじ開けられる。
「……これって、もしかして」
葵に頬張られて涎塗れになったそれは、酷く見覚えのある男物の下着だった。
「そうよ! 蒼斗のパンツよ! 悪い?!」
掟先輩が鼻で笑い、妖しい笑顔と一緒にパンツを自分のポケットにしまった。
「なんでや」
声に出た。
「本当はわかっているんでしょう? 無駄よ。彼の好みは貴女みたいな貧相な子じゃない」
「……ってるわよ……そんなこと……あたしだって、もっと背が高くて、おっぱいも大きくて、皆に愛されて、アンタや冬馬みたいな大人っぽくて綺麗な女の子になりたいわよ! でも仕方ないじゃない! これがあたしなの! 葵斗の好みじゃなくても、葵斗は私を認めてくれる。これまでも、これからも!」
「そうねえ、彼は誰にでも優しいから。貴女が認められているのは貴女が偶然、彼の近所に越してきたからでしょう?」
「そんなのアンタだって同じじゃない! 蒼斗との付き合いはあたしが一番長いんだから! アンタみたいなぽっと出の性悪女、さっさと消えちゃえばいいんだ!」
「よく吠える犬ですこと」
逆再生、という表現がしっくりくる。倒れた本棚が空になりながら元の位置に戻り、葵がそれに続いて立ち上がる。そこに葵の意思はなく、足はついに床を離れた。掟先輩の意のままに四本の包帯が蠢いて、葵が吊るし上げられる。
黄金色の夕日に照らされてなお、葵の瞳は真っ赤に輝いていた。元から明るい色よりもずっと赤く、赤く、与えられた〈愛の力〉で何かを見ている。
「……ええ、どうしてだかわかる?」
「透明になる能力だけじゃどうしようもないもの。他にも能力があると見るべきかしら?」
「教えるわけないでしょ?」
「あら、別に私は教えて貰う必要なんかないのよ? どうせ貴女は手が使えなければ攻撃できないのだから」
「はん、ちょっと包帯を操れるだけで、ちょっと回復力がヤバいだけのアンタなんかに使うまでもないだけよ」
「ふうん? 時間がかかるの、その目」
「……教えるわけないでしょ」
一本の包帯に両手首を括られたまま、葵が中庭に顔をそむける。眩さに目を閉じた。掟先輩は狐のような顔をして、首を傾げた。
「じゃあ、待ってあげるわ」
「……え?」
「五秒につき指一本ね」
「……ひ」
「あら大変、これだと一分で手の指が全部なくなっちゃうわね」
ぐるん、と。葵が逆さに吊るされた。両手足を無理矢理大の字に広げられ、下着が露わになる。ワインレッドは彼女には大人っぽさが過ぎる。辱めを受けて声にならない声をあげても、手足の包帯は緩まない。
掟先輩が立ち上がり、右ふくらはぎの包帯から包丁を抜いた。踊るように葵の周りを歩き、ひたひたと距離を詰めていく。
「い、いや、やめて! 来ないで――」
葵は唯一自由の効く頭をぶんぶんと横に振った。長い黒髪が乱舞する。しかし、それで掟先輩が止まるはずもない。
「覚えているかしら、自称堕天使さんは制限時間については何も言っていないの。この意味がわかる? そもそも私たちが殺し合わない可能性を考慮していないのよ。まあ、制限時間があったとしても指は全部落とすけど」
ぎゅっと閉じられた左手をこじあけようと、掟先輩の両手がかかり切りになった。葵はついに諦めてしまったのか左手から目をそらし――
「―—なんてね」
黄金色の光が瞬く。葵の右手には包丁が握られていた。逆さまになったブレザーのぶかぶかな袖の中から滑り落ちて、葵の手の中で逆手に握られた。右手首の包帯は切断され、切っ先は流れるように掟先輩の目に突き入れられる。眼鏡にひびが入り、吹き飛ぶ。
が、それだけだった。
「もういいかしら?」
逆さまの瞳が驚愕に見開く。使った包帯は四本でも、その端は二つある。伸ばせる包帯は八本あった。
逆さまの唇が内側からの衝撃に押し開けられる。
「かっ、はっ」
切り落とされた包帯は再び右手を拘束し、残った包帯は全て自らの右手に巻き付けた。四肢の動力が伝わる右拳が葵の腹部に叩きこまれる。揺れる姿はサンドバッグのようだ。
咳き込み、吐き出し、滲み出す。お人形さんみたいと評されてきた顔はありとあらゆる液体に塗れてぐちゃぐちゃになっていた。ジョワァッと雨が降り出すような音がして、逆さまの黒髪を固める赤の上に薄らと黄色が混ざる。きっと立ち上る蒸気の中にはアンモニアの臭気も混ざっているだろう。
「正気のうちに何か言い残すことは?」
「……じゃあ、一つだけ」
けほけほと、体液混じりの咳が滴る。
しかし、赤い眼光は揺るがない。
「凡ミスはアンタだって同じよ、ばぁぁぁあか!」
「あ……ぇ?」
グシャリとバキリの間、たとえるなら大量の水分を含んだ木材を叩き割ったような音がした。掟先輩の額から直径一センチ、全長三十センチに迫る角が生えていた。額を見上げた眼球に血が届くころには痙攣が始まる。
硝子の砕け散る音がした。
額から生えたそれは角ではなく、一本の矢だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます