第15話 * 「君を離さない」

 除夜の鐘に似た轟音が響く。開かずの鉄扉がひしゃげて転がる。規則的な足音、妖しい光を宿した瞳、濛々もうもうと煙る埃を切り裂いて、掟先輩が一歩、また一歩と血痕付きの階段を上がる。

 彼女と出会ったのもたしかここだった。


 *


 二か月前、僕がまだ彼女を会長と呼んでいた頃、窓から吹き込む風がやけに冷たかったのを覚えている。

 胡蝶と楓は部活、葵は委員会、カンナは徹夜明けで休み。暇を持て余した僕は、打倒カンナを目標に放課後の予定とコンボを組み立てながら階段を二段飛ばしで下りていた。

 開かずの鉄扉てっぴの前に足の生えた荷物があった。僕と入れ替わるように、荷物が一段目を踏み外した。


「あっ、とっ」


 荷物が円錐を描いて揺れる。汗の玉と栗色のボブカットが乱舞して、眼鏡が吹き飛んだ。


「危ない!」


 咄嗟に手を取った。段ボールが僕の足を潰して涙がにじんだけれど、辛うじて微笑むことができた。


「大丈夫、ですか?」


 目を丸くしていたのも束の間に、彼女は鼻の頭を擦る。しかしそこに眼鏡はない。


「ええ、問題ないわ」


 懲りずに一人で大荷物を運ぼうとするものだから手伝いを申し出ると不承不承といった様子で了承してくれた。

 この学校の生徒会長はストイックの鬼である、というのは有名な話だった。誰よりも早く登校して昇降口に立ち、追い出されるぎりぎりまで生徒会室にいるという。噂によると彼女のストイックさについていけなくなった役員が全員、辞めてしまったらしい。

 資料整理の最中、役員を取り戻すのも仕事の内ではないのかと冗談めかして聞いてみた。すると、


「私がどういう人間か聞いたことくらいはあるでしょう? 二年一組三十六番、水無月蒼斗君?」


 掟先輩は手を止めず、僕に見向きもせずにそういった。物悲し気な目を見て、僕も手を止めずに答える。


「在籍する生徒一人一人のプロフィールを把握するくらい真面目な生徒会長ってくらいは」

「それだけ?」

「とてもストイックな方だと」

「そういうこと。そして私はストイックであることをあの子たちにも強要した。望んで私についてこようとしてくれたような子たちを呆れさせてしまう、要領の悪い努力馬鹿。それが私」

「来るもの拒まず去る者追わず、といういさぎよい考え方もできます」

「そんなに綺麗なものじゃないわ。私があの子たちを追いつめ、罪悪感を押し付けた。二度と同じ過ちを繰り返さないために私が全部一人でやるの」


 掟先輩はノートパソコンに資料の要点を打ち込み、僕はファイルを漁る。開校以来の資料の電子化が専ら最近の仕事らしい。作業に没頭している内に、外はあっという間に暗くなっていた。


「これ、毎日やっているんですか?」

「いいわ、疲れたなら帰りなさい」

「最後まで付き合います。それなら会長も休めるでしょう?」

「……ありがとう」


 それは自己犠牲というにはあまりも身勝手だった。こちらが何をしても傷は増えるばかりで、痛々しくて見ていられない。僕は彼女の力になりたかった。それから暇を見つけては掟先輩を手伝うようになった。

 変化があったのは手伝いを始めて三週間、毎週水曜日に配布している生徒会便りを作っていたときのことだ。掟先輩がパソコンの画面を見たままでこういった。


「ねえ、水無月くん。どうして貴方は私を手伝ってくれるの?」

「別に、今日は暇だっただけですよ」

「そうじゃなくて……私に媚びなんか売っても何も返せないわよ?」

「じゃあ、生徒会便りそれが完成したら休んでください」


 その日、キーボードを叩く音が大きかった。その日、何度も頭を抱えていた。その日、ずっと泣き出しそうな目をしていた。休んでください、というと泣き黒子の上を大粒の涙が通り過ぎた。


「別に誰かに認められたいわけじゃなかった。でも、自己も努力も否定されると流石に、堪えるわね」


 それから、掟先輩は吐き出すように涙の理由を話してくれた。

 掟先輩の作る生徒会便りは完璧だった。例年よりも内容が充実していて読み応えがあり、ユーモアと読みやすさも兼ね備えていると密かに好評だった。水曜日の配布が恒例で、今日は火曜日、月曜日に原稿を提出するのが暗黙の了解だった。いつも何度でも納得がいくまで直していたのを僕だけが知っている。

 まず、情報量が多いから減らせと言われた。次に、情報量が少ないから手抜きをするなと言われた。次に、情報量が多いから減らせと言われた。水掛け論に反論すると、言ってほしくなかったことを一通り言われたらしい。

 この程度のことができないなら会長なんてやめてしまえ。何でもできるのも嫌味。結果の伴わない努力は無意味。努力してみることに価値がある。要するに、掟先輩を否定したかっただけなのだ。

 それから、掟先輩はこう繰り返した。


「ねえ、水無月君。どうして貴方は私を手伝ってくれるの?」


 ずっと一人で戦い続けて傷ついていた人が、強くて優しい彼女が今、折れそうになっている。儚い輝きに自ずと言葉が漏れ出した。


「似ているんです、僕の許婚に。だからなんていうか、放っておけないんですよ」

「……二年二組出席番号二十二番、冬馬胡蝶さん?」

「はい、だからですね、胡蝶や掟先輩に比べたら頼りないかもしれませんけど、僕のことは幾らでも頼ってください」

「……うん、ありがとうっ」


 それから僕は彼女を名前で呼ぶようになり、掟先輩も僕をフルネームではなく苗字で呼ぶようになった。僕が生徒会室におもむくより先に彼女が仕事を頼むようになった。そんなある日のこと。


「ごめんなさい、せっかく来てもらったのにお仕事終わっちゃった。だから、少しお話していかない? 会長特権でいいお茶とお菓子もあげちゃう」

「子どもじゃないんですから」

「お話、してくれないの?」

「いいですけど」

「お茶とお菓子は?」

「貰いますけど」

「んふ、嬉しい」


 昨日の様子だと終わりそうになかったから手伝いに来たはずだったのに、何が彼女をそこまで追い立てたのか。あとから思えば簡単なことだったのだ。


 *


 答えは昨日、理解した。掟先輩の呼び出しに応じて、彼女の待つ屋上に向かった。鉄扉を開くと、屋上の中心に見慣れた学習椅子が放置されているのが見えた。辺りを見渡すより先に、雨の音ではない音に気付く。開いたドアの裏側に誰かがいる。


「……掟先輩?」

「いらっしゃい。水無月君」


 遠くの空が閃いて獣のように唸る。掟先輩は二か月前と打って変わって瞳に炯々けいけいと妖しい光を宿していた。足元のエナメルバッグには用途不明の物品の数々。文化祭の出し物の相談でもするのだろうか。などと能天気でいれたのは4度目の緊張感で中和されてしまったからだろうか。

 重い鉄扉は掟先輩が背を預けても動かない。


「水無月君」

「はい」

「私のことを放っておけないって言ったの、覚えてる?」

「はい」

「私のこと、好き?」

「……ええ、尊敬しています」

「じゃあ、私を貴方のものにしてよ。貴方に恩を返すにはもう、一生貴方に尽くすしかない」

「そんな、大層なことをやった覚えは」

「貴方がいなければ、私の心はきっと壊れていた。少なくとも私は貴方に救われた。私も貴方を放っておけなくなっちゃった。貴方のためにできることならなんだってやる。貴方が生きるために必要なことは全部、私がやってあげる。だから、私の恋人になって頂戴」


 そうして僕は掟先輩に背を向け、問題を先送りにした。

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