三章 * 天使殺し・種
第12話 * 常花の餞
誰かが僕を呼んでいる。
蒼斗。アオト。水無月蒼斗。
陰暦の六月を示す
呼んでいるのは
腹の底を殴って心臓を打つような声の主は、僕が目を覚ますと涙ながらににかっと歯を見せて笑った。僕はどうやら、神に殺されたまま体育館倉庫にぶっ倒れていたらしい。
上体を起こしながら問う。思ったより身体は軽かった。死の間際を彷徨っていたとは思えないほどに。
「……胡蝶は?」
泣きながら笑っていた顔が陰る。
「……悪い、何もできなかった。でも、伝言がある」
楓が立ち上がったことで、僕は彼女に膝枕をされていたことに気が付いた。女っ気が薄いわりに筋肉質な脚は太く、寝心地は悪くなかった。などと言えば、楓はきっと僕の頭を叩いて嬉しそうな顔をすることだろう。
意識して口を閉ざさずとも、僕は口を噤むことになった。
楓の姿に目を奪われてしまったのだ。
すぅ、と楓が大きく息を吸った瞬間、雰囲気が変わった。
「『七海楓か。キミはたしか表現者の子だったね。彼が目を覚ましたらこう伝えてくれ』」
まるで楓に神が宿っているかのようだった。明るい色の目が座り、飄々とした顔で僕を見下ろしている。茜色の日差しがスポットライトの代わりをしてくれた。
抱擁を待つように手を広げ、楓は続ける。
「『ボクと〈契約〉して殺し合いをしようよ』」
――お前はいったい何をいっているんだ。
というのが正直な所感だった。
無論、その程度は見抜いていたらしい。あるいは、あえて神様らしく遠回しで思わせぶりな言葉選びを心がけているのだとしたら少しは好感が持てるだろうか。胡蝶に指一本でも触れたらマイナスだから二度と好きになることはないが。
遠回りをして思わせぶりに、神のふりをした楓が続ける。
「『天の七戒律、その六。人の願いを選んではならない。試練を与え、契約せよ』」
ふっ、と楓が笑ったように見えた。そうやって人を小馬鹿にしたような態度、普段の楓であれば決して表に出しはしない。
「『これは〈試練〉だ。キミはこの〈試練〉を乗り越えることで冬馬胡蝶を取り返すことができる。〈試練〉を受けないということは〈契約〉も成立しないということだ。ボクはキミの命に等しいアスターを取り返すことができないが、キミも冬馬胡蝶を失うことになる」』
アスターか胡蝶か、どちらかを選ばなければならない。というだけの話なら、迷うはずがなかった。でも、今の僕にとっては実のところ究極の選択に等しい。なにせ――
「『キミがアスターを差し出すというのなら、ボクも大人しく冬馬胡蝶をキミに返そう。無論、アスターの返還はキミの命の返還と同義だが。まあ、それはまた別の〈罰〉だ。ボクの知ったことじゃない。残念だけどね』」
――僕の命は、アスターによって繋ぎ留められている。であれば、少し話が変わってくる。僕が考えるべきことは〈胡蝶とアスター、どちらを選ぶか〉ではなく、最悪のパターン〈僕の死と胡蝶の消失、どちらを選ぶか〉だということだ。
僕が死ねば、間違いなく胡蝶は悲しむだろう。きっと僕のために泣いてくれるだろう。それはそれで悪くないが望むところではない。しかし、胡蝶の消失などもってのほかだ。そんなの死んでも許さない。
神様が消失なんて言葉を使うからには、アスターがやったのと同じように存在ごと抹消してしまうのだろうか? 胡蝶のいない世界で生きるくらいなら死んだ方がマシだ。それだけは、たとえ胡蝶が相手でも譲れない。
「『さて、ここまでが前置きだ。どうせキミやアスターのような生き物は有無を言わさず命を賭けるだろうから本題に入らせてもらう――キミが参加する殺し合いについて』」
くすり、楓が笑う。
僕は立ち上がる。
馬鹿馬鹿しい。
だって、すでに三回、僕は繰り返している。
「『ルールは単純、学内にいる三人の刺客を倒せ』」
ほらね。
一応、楓に免じて耳を傾ける。
「『場所はキミなら覚えがあるだろう、キミの知る藍花学園であり、キミの知る藍花学園ではない。関係者以外を巻き込む心配のない別次元――不存在の学園だ』」
アスターが作り出したものとまるっきり同じ、恐らくカンナの〈愛の力〉に似たものだろう。雨の音だけが異様に大きく聞こえる。
「『武器の代わりといってはなんだけれど、学内にキミの大切なモノを残してある、好きに使うといい。っていうか堕天使の心臓を持っているんだ、ボクからの施しなんて不要だろう? それに愛に堕ちた彼女のことだ、どうせキミと接触する手段やキミを守る手段くらい残しているんだろう?』」
そういって楓は髪をかき上げた。燃えるような栗色のベリーショートに白銀のポニーテールが重なるようだ。
「『以上だ。七海楓、キミも苦労するね。そんな男のために自己を犠牲にするなんて』」
その言葉を最後に楓は颯爽と背を向け、糸の切れた操り人形のようにふらついたかと思えば新体操用のマットの上に大の字に倒れた。天井を向いた顔には憎々し気な表情と玉のような汗が浮かんでいる。
「だってよ。神だかなんだか知らねえけど、オレ、ああいう軽薄な奴は嫌いだ」
まるで人が変わってしまったようだった。とはいえ、これは初めてのことではない。こういう彼女だからこそ、〈整形〉などという〈愛の力〉に目覚めたのだろう。
「なあ、アオト」
呼吸を整えながら、楓がいう。
「オマエは、トウマのどこが好きなんだ?」
薄汚れた天井を仰ぎながら、楓は続ける。
「オレじゃ、トウマの代わりにゃなれねえか?」
首の後ろを掻きながら上体を起こし、バツが悪そうに腕を組んだ。
「たとえば――こう」
楓が呟いた。
――愛する人が思ってくれるのなら、自分の生まれ持った姿さえ捨てられる。
はっきりとは聞えなかったが、僕にはその内容が理解できた。
声に伴って組んだ腕の中で二つの膨らみが目に見えて膨らむ。最早腕で胸を支えるほどの豊満さだった。
さらに楓は片手を額の高さに掲げた。
「あとは――こう」
額から顔を覆うように手が降ろされ、再び現れた顔に胸がきゅっと疼く。ずきり、頭も痛む。
栗色のベリーショートは雪白のセミロングに変わり、明るいとはいえブラウンの強かった瞳は冬の空のように澄み渡った青に変わっていた。
楓は小さく咳き込み、続ける。
「で――こんな感じでどうでしょう。アオトさん?」
フルートのような清澄さが過剰なまでに強調された声だった。少し遅れて、ぱあっと花開くような笑みが浮かぶ。僕は思わず目をそらしてしまった。
「やめろっ!」
僕が叫んだのと、楓が腰に巻いたブレザーを翻したのは同時だった。僕が嫌悪感を示したときには胡蝶のふりをやめたのだ。
「悪い、やりすぎた。二度とやらねえよ」
本人も思うところがあったのか、見ると申し訳なさそうに俯いていた。しかし、すぐに視線が合う。力強く、正義感に溢れた熱い瞳だった。
「オマエはトウマのことが好きだってのはわかってる。これから命を賭けた戦いをしようとしてるってのもわかる。だからこそ、これだけは済ませときてぇ」
すぅ、と楓が大きく息を吸った瞬間、明るい色の瞳が見開かれる。プリーツスカートがめくれるのも構わず――意外にも白――マットに背中を預け、腕力と遠心力を用いて跳ね起きた。僕の目の前に立ったとき、すでに僕に向けて頭を下げつつ手を差し出していた。
まるで校舎裏にでも呼び出されたような気分だ。校舎裏に呼び出されたことなんてないけれど。燃えるようなベリーショートを向けたままま、楓が叫ぶ。
「この戦いが終わったら、オレと結婚を前提に付き合ってくれ」
髪のあいだから覘く形のいい耳は紅葉のように朱に染まっていた。どんなに暗記を得意としていても、演じることに慣れていようと、〈整形〉の〈愛の力〉に目覚めていようと、恥ずかしいものは恥ずかしいのだろう。
が、しかし、
「……は?」
楓の告白を、僕は一辺倒に理解することはできなかった。
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