六章 * 誰そ彼に咲く花【Bloom in the twilight】

第26話 * 既成事実

 まっさらな朝日に目を覚ます。


 ――夢を見ていた。

 嫌な、吐き気を催すような夢を、見ていたような気がする。

 ――夢のようなことがあった。

 昨日の放課後、僕は胡蝶の告白に答えたのだ。

 ――まだ夢を見ているのかと思った。

 目を覚ますと真っ白な少女が僕を覗きこんでいた。昨日はベッドの脇から、今日はベッドの中から、


「おはようございます……蒼斗さん」


 フルートの音色を思わせる清澄せいちょうな声がした。タオルケット一杯に充満する僕以外の香り。シーツの上に零れる銀色の髪。まっすぐに僕を見つめる青い瞳。一糸まとわぬ姿の僕の許嫁――兼、恋人が、僕の隣で横になっている。

 

 カーテンの向こう側から雀の鳴き声が聞こえて、胡蝶が目を瞬かせた。どうかいたしましたか? と僕の体調を案じているような顔をして、そこでようやく僕は目の前の現実に意識が追い付かず、フリーズしていたことに気が付いた。息を飲み、微笑みかける。


「……おはよう、胡蝶」


 すると、ふわりと

 ――ずきり、頭が痛む。


「昨日、一緒に寝てないよね?」

「ええ、朝食の支度を粗方終えましたので」


 答えになっていない。が、褒めてくださいと言わんばかりに放物線を描く目を見ていると、そんなことは些細な問題のように思えてしまう。寝起きで夢と混濁しているのか、朝食の支度を終えたら恋人の布団に入る常識を知らない僕が悪いのか、どちらか定かではないけれど、とにかく昨日の記憶が朧気だった。

 一昨日おとといの朝、僕は胡蝶に告白された。そして。とはいえ節度は守るべきだという胡蝶の言葉に僕も不平不満を覚えることなく、昨日は恋人らしいことなど何一つなかった。

 今朝も相も変わらず早起きして僕が一人で暮らす水無月家に来て、許嫁の証とでも言わんばかりに朝食を作ってくれていた。かと思えば、今度は恋人になった証とでも言わんばかりに僕の隣に横になっていた。

 何か、ちぐはぐなのだ。恋人としての自覚みたいなものが芽生えたのだろうか。いずれにせよ、と。胡蝶の身体から必死に目をそらしながら次の疑問を口にする。


「なるほど。それで、服は?」

「恋人というのは本来、一緒に床に就くものなのでは?」

「それは偏見だし答えになってないような?」

「蒼斗さんは、私と一緒に寝るのは、嫌ですか?」


 吐息の熱が目を乾かす。胸を押す柔らさが、僕の胸が早鐘を打っていると教えてくれた。何より、胡蝶も同じように胸を高鳴らせている。


「私との子ども、欲しくないですか?」


 想像したのは理想の家族だった。他の何より仕事より家族を大切にする父親になった僕。胡蝶は僕を、おかえりなさい、と温かく出迎えてくれる。生まれたばかりの子どもがいても、生傷が絶えない子どもがいても、思春期まっさかりな子どもがいても、そこに苦労はあれど不幸はない。でも――


「―—そういうのはまだ早いと思うんだ」

「でも、私、どうしても不安で……」

「不安?」

「蒼斗さんはお優しいですから、誰か他の女性ひとに取られてしまうのではないか、と。ですから子どもが欲しいのです。そうすれば、既成事実さえあれば、優しい貴方は私から離れられない。他の女性ひとに振り向くことなど決してありえない。既成事実があれば貴方は私だけのものになる――」


 タオルケットがふわりと舞う。

 胡蝶が僕を押し倒した。


「―—ですからどうか、卑怯な私を許してください」


 僕を逃がすまいと仰向けに押し倒し、馬乗りになる。


「なんだ、そんなことか」


 僕は、胸を抑える手を掴み、引き寄せた。

 支えを失った胡蝶の身体は、いとも簡単に僕の胸に抱くことができた。撫でた髪は新雪のように滑らかだった。


「大丈夫、。それに――」

 

 ――ずきり、頭が痛む。

 仲のいい異性だって、君しかいない。そう言いかけたときだった。僕は咄嗟に言葉を吟味した。僕の価値観はいつだって、カッコいいかカッコ悪いか、それだけだった。


「―—それに、僕らの子どもに向けてお前はパパとママを繋ぎ留めるために生まれて来たんだなんて、言えないだろう?」


 そう言えば、胡蝶は笑ってくれるような気がした。ぱあっと花開くような笑顔が脳裏に浮かぶ。抱き締めて香る胡蝶の香りが、頭痛を和らげてくれるような気がした。抱き上げるようにして身体を起こし、ベッドに座る。抱き合った身体は離して、けれど手は繋いだまま。胡蝶はやはり気恥ずかしかったのか俯いていた。


「でも、蒼斗さんがこれから先、他の女性ひとに言い寄られない保証はありません。いえ、むしろ言い寄られて然るべきなのです。だから今、子どもが必要なのです」

「過大評価ありがとう。心配させてごめん。でも、今は僕を信じて欲しい。君が僕を嫌いにならない限り僕は――僕は何度でも、君を選ぶから」

「何度でも、私を……?」


 胡蝶は重なった手を見つめ呆けるように呟いた。氷細工のような手が僕の手を引き寄せ、頬ずりを始める。


「うふ、うふふふふふ……わかりました。では、ここは引きます。これから先、私たちには幾らでも時間がありますものね」


 ぱあっと花開くような笑顔が僕の内から消えていく。

 ――頭が痛む。


 *


 それから。

 裸に割烹着なんて新進気鋭のファッションの胡蝶を見送って、ふとスマートフォンの時計を見た。

 六月七日、七時六分。

 まだ出かけるまでには余裕がある。誰かを迎えにいくような予定もないし、生徒会や部活に関わりのない僕には早く登校しなければならない理由はない。スマホと一緒に枕もとに鎮座する立方体を手に取り、手の中で弄ぶ。

 青、赤、白、黄色、緑、オレンジ。それぞれ3×3の正方形で一面につき一色を与えられた正六面体―—ルービックキューブを回して崩し、整合性のない五十四の正方形の塊ができあがる。それからタイマーをセットしてパズルを始める。

 僕の手の中で六つの色が縦横無尽に駆け巡り、みるみるうちに色が揃っていく。けれど、正六面体が元の姿を取り戻すことはなかった。

 ふと、硬い音の引っ掛かりがあった。僕の手が止まるより、崩壊の方が早かった。ルービックキューブは僕の手の中で壊れて、零れ落ちた。

 思わずため息が出る。


「幸先、良くないなあ」


 別のパズルゲームになってしまった六等分の欠片をかき集めてベッドの上に放り、身支度を始める。ポケットの中身を確かめると住所不定の鍵が出てきた。


「なんだ、これ」


 馴染み深いキャラクターのマスコットがついていたけど、鍵そのものに覚えがない。スラックスを履き間違えているにしてはサイズに違和感もない。このゲームをやっている奴なんて身近に一人もいないから、誰のものか見当もつかない。

 ――頭が痛む。 


 *


 鍵については学校で聞いてみることにした。身支度を整えてダイニングに向かうと、テーブルには湯気の立つ湯飲みがあった。胡蝶が淹れてくれたのだろう。湯飲みを傾ける。頭痛を低気圧のせいにしようと目を向けたテレビの画面には変死体だの殺人事件だの物騒な文字が並んでいた。

 ――ふと、違和感を覚える。


「あれ、珍しいね。今日は緑茶なんだ」


 今までは胡蝶が僕にお茶を淹れるときは大抵、僕の好みに合わせてほうじ茶を淹れてくれた。胡蝶が答えるより先に、テレビに映し出されているのが見慣れた校舎であることに気が付いた。思わず女性キャスターの声に耳を傾ける。


「ただいま入った情報によりますと」


 身近な事件に興味こそあれ自分とは何ら関係のない事件のはずだった。遠い世界のできごとのはずだった。原稿に目を落としたキャスターは一呼吸置いて、無感情にこういった。


「遺体は湯上ヶ丘藍花高等学校に通う高校一年生・倉石カンナさん(一五歳)と、同じ高校に通う三年生・碇谷掟さん(十七歳)であることが判明しました。残りの一体は損傷が激しく――」


 ――ぐわんぐわんと、頭が痛む。手にした湯飲みを落とし、膝を着いてしまう。まるで脳に刻まれたしわの一本一本に舌を這わせて脳漿のうしょうすすられているみたいだ。


「蒼斗さん?!」


 近寄る胡蝶に心配かけまいと微笑む。

 ―—大丈夫、雨の日にはよくあることだよ。

 吐き気がして、言葉は荒い吐息に代わってしまう。

 頭が痛む。

 目が眩んで、四つん這いになる。

 頭が痛む。

 胡蝶の顔が見れない。

 笑えない。


 こんな結末、あってたまるか。

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