七章 * 初恋【ファーストラブ】

第33話 * 胡蝶蘭を摘む

 ――声が聞こえる。


「……とさん……蒼斗さん」


 ――長い、長い、夢を見ていたような気がする。ずきり、頭が痛む。酷い悪夢だったはずなのに上手く思い出せない。薄暗くて、黄金色と茜色で、なんだか切なくて悲しい心地が胸に残っていた。身体も汗でべたべたで、嫌な動悸が止まらない。けれど、目を開けた瞬間、五感の全てが彼女に独占される。

 網膜を焼く朝日は彼女の雪白の肌と髪を、鼻孔を撫でる味噌汁の香りは彼女の強さを、汗を吸ったタオルケットは彼女の優しさを。きっと夢の中でさえ、僕は彼女に焦がれていた。

 眩さの乗り越えると青い瞳と目が合った。夢に見るほど恋焦がれた少女が、唇さえ触れ合えそうな距離で僕を見ている。

 雪白の頬が曼殊沙華のように赤く染まる。物憂げな瞳が見開かれ、枕代わりにしていた腕と一緒に姿勢を正した。


「あっ……起こしてしまいましたか……?」


 息を飲んだ。恥ずかしそうに微笑む彼女を見て安心したはずなのに胸の高鳴りは治るどころか激しくなり吐き気さえも催す。そうして不足した部分を彼女の匂いが埋めると鼻の奥がつんとして、目の奥が熱くなる。思わず乱暴に押し倒すように抱き付いて、ぎゅっと抱きしめた。

 勢い余ってベッドから落ちる。けれど、謝るより先に、朝の挨拶より先に、伝えたい言葉があった。


「君を絶対、離さない」


 スマホも一緒にベッドから落ちて点灯していた――六月五日、七時六分。


 あっ、と。漏れ出した吐息が声になって、僕は言いようの無い恐怖に襲われた。もしかしたら、拒絶されるかもしれない。悲鳴を上げて、僕を押し返して、許婚なんて時代錯誤な約束を破却されるかもしれない。想像しただけで血の気が引いていく。

 杞憂きゆうだった。

 僕が衝動的に抱き締めたことに驚いたのか、胡蝶は初めびくりと震えたが、間もなく抱擁を返してくれた。僕自身も驚いた。こんなにも掠れて今にも泣き出しそうで情けない声を出してしまったのに、取り繕う気が起きない。僕でさえ痛いほどにきつく抱き締めていた。強張る身体に二人分の鼓動が反響していた。微笑みを控えたような溜息が続く。日々使い倒されて荒れていながらも華奢で冷たい、氷細工のような手のひらが、僕の腰をぎゅっと引き寄せて、頭を撫でていた。


「大丈夫です。私は蒼斗さんに断りもなくいなくなったりしません」


 フルートを彷彿させる清澄な音色に視界が滲む。後頭部を撫でる手にどうしてか嗚咽が零れそうになって、唇を噛み締める。拒絶されるかもしれない、なんて思っていた自分が恥ずかしくなる。けれど、不安は消えてくれない。言葉にしないと不安で堪らない。


「でも、こうしていないと胡蝶がどこか遠くに行ってしまうような、そんな気がしたんだ」

「断じて有り得ません」


 即答だった。胸の高鳴りは収まらない。不安が思考力を奪っていた。

 撫でる手は離れなかった。嫌われるのが怖くて大人しく抱き締めていた手を緩めると、胡蝶の恥ずかしそうな表情を見ることができた。視線が合わなかったせいだろうか。今を逃したら全てが終わってしまうような予感があった。

 抱き締める代わりに、抑え込むように肩を抱いた。これでもう、逃げられない。誰にも取られない。胡蝶は僕だけのものだ。不思議と安心感があった。安心感と裏腹にいきり立つ鼓動は止まらない。僕に覆い被さられた胡蝶と目が合う。サファイアのような青い瞳は呆気に取られたように見開かれてこそいたが、恐怖や嫌悪の色は浮かんでいないように見えた。微笑みかけるほどの余裕はない。

 大きく息を吸うと胸が張り裂けそうになる。肺に取り込んだ空気が全身の血管を巡り、興奮が全身を巡る。心の許容量を超えた。


「君が僕以外のものになるくらいなら、僕は君を殺してでも僕だけのものにする。僕が君以外のものになったなら、君は僕を殺してでも僕を君だけのものにして欲しい」


 どうしてそんな言い方をしたのか僕自身にもよくわからなかった。 優しい甘さの呼気と一緒に涙が零れたのを見て思わず微笑んだ。


「――そのくらい君を愛してる。これからは結婚を前提に恋人として、僕と過ごしてくれないか?」


 冬の空を象ったような瞳が今日一番の驚きに満ちて間も無く、放物線を描いた。


「……はいっ」

 胡蝶の声色はフルートに似ている。清澄な音色は珍しく演奏に失敗していた。

「喜んで、お受けいたします」

 ぱあっと花開くような笑顔があった。

「私もずっと、貴方をお慕いしておりました」


 堪らずもう一度抱き締めると涙が零れ落ちた。

 六月五日七時七分、僕は胡蝶と恋人になった。


 *


 そうして。

 僕と胡蝶は婚約者でありながら恋人になった。とはいえ、同棲生活が始まるわけでも朝食が今さら豪華になるわけでもなく、現状の変化と言えば精々普段よりも気恥ずかしそうな笑顔を垣間見る回数が増えた程度。やるべきことは変わらない。雲行きも降水確率も相変わらず、今日も夕方から雨が降る。

 その他に、胡蝶と付き合うことになった件とは別に変化が一つ。会話も疎らに朝食を終えていざ登校しようという段階でインターホンの音が鳴った。訝しる胡蝶と目を合わせてモニターを見ると、日本人形や幽霊に似た独特のオーラを放つ少女が頬を染めていた。

 葵の家の方へ目配せをすると胡蝶は笑顔で頷いてくれた。


「今、出るとこだからちょっと待ってて」

「べ、別に、急がなくてもいいんだからね?」


 潤ませたまま逸らさない瞳に違和感を抱かないほど短い付き合いではない。笑窪の目立つぎこちない笑顔に何も思わないほど鈍感でもない。脳裏に反芻したのは起き抜けの記憶。何かあったのかもしれない。というよりは、葵も僕に告白をしようとしているのかもしれない。そう考える程度には長い付き合いで、感情の機微もわかるつもりだった。


「お、おはよ。蒼斗」

「うん、おはよう。葵」


 ぎこちない笑顔と真っ直ぐな瞳と真っ赤な頬を除けば――それさえも、駅に向かっているうちに前言撤回することになる。

 葵は笑顔を作っているだけではない。壁を作っていたはずの胡蝶の話にも好意的に応じていたのだ。思わず葵を呼び止めてしまった。


「何か困ったことがあれば相談に乗るからね?」

「……じゃあさ、今日のお昼休み、空いてる?」


 今日の昼は胡蝶と――天気が心配だから教室で彼女手製の弁当を食べる予定だった。大抵、楓やカンナも一緒に昼食を摂って、時折僕は生徒会というか掟先輩の手伝いに駆り出されたりするのだけど、それらを差し置いて解決すべき問題だと直感的に思った。素直な葵はやはり普通ではないと感じたからだろう。胡蝶に目配せすると、やはり快く頷いてくれた。


「うん、大丈夫。空いてるよ」

「なら、一人で図書館に来て欲しいの」

「わかった。昼休みになったらすぐに行くよ」


 視線が合う。その表情はいつも通り不愛想で、嬉しさの滲んだ笑窪だけが浮かんでいた。


「や、約束だからね!」

「うん、約束だ」


 声にならない声とガッツポーズから目を逸らすと駅前のY字路が目前に迫っていた。つまり、学校をサボりがちな後輩――カンナを迎えに行かねばならない。

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