第6話 * 不敵な笑みの後輩・倉石カンナ

 僕らは口数少なく駅に向かう。挨拶代わりのお決まりのやりとりから十数分、最寄り駅付近のY字路に辿り着いた。二人だけを残していくのは申し訳ないけど、全員仲良く遅刻というわけにもいかない。特に胡蝶の皆勤に泥を塗るわけにはいかない。


「それじゃ、カンナを迎えに行ってくるよ」

 放っておくと学校をサボりがちな後輩を迎えに行く旨を伝えると、二か月前は渋っていた二人も慣れたらしく、胡蝶は快く、葵は不承不承といった様子で了承してくれた。


 二人はY字路の広い方へ。僕は狭い方へ。そこから脇のコンビニを横切って入った路地は、軽自動車と歩行者がすれ違うために壁に張り付くように歩かなければならないほど狭い。閑静な住宅街の奥にそびえ立つ、頭六つ分くらい抜き出た高層マンションこそが僕の目的地だった。


 通学鞄の奥からゲームのキャラクターを象ったキーホルダーを掴んで合鍵を引っ張り出し、インターホンとオートロックを潜り抜けてると赤い絨毯と全面鏡張りの玄関ホールに迎えられる。落ち着いた雰囲気のBGMが豪奢なホテルのようなイメージを助長していた。


 エレベーターに乗り込み最上階へ向かう。その一番端の部屋、916号室に彼女は一人で住んでいる。鍵は案の定、開いていた。そして館内を循環する空調に反発するかのように、微かに開いたドアからむんむんとした熱気が漏れて喉に張り付く。


 玄関を閉めて中に入ると、室内の湿気と自分の汗との区別が付かなくなる。薄暗い空間を照らしているのは、奥の部屋の大型テレビのモニターとカーテンの隙間から漏れる光だけだった。むせ返るような空気を多分に吸い込み彼女を呼ぶ。

「カンナ! 起きてる?」


 小綺麗な廊下から奥の部屋まで見渡すと感傷が湧く。いつからだろう、ここに来てお邪魔しますを言わなくなったのは。ふと、熱気の中に甘い香りが混ざっていることに気が付き、この暗さの原因に思い当たる。時すでに遅し、廊下の中腹にある洗面所から、人影がぬっと姿をあらわした。


「舐めてもらっては困ります。私を誰だと思っているんですか?」


 倉石くらいしカンナ。

 昨日、僕に告白してくれた少女の一人。


 体調不良を疑うほどに青白い肌。白濁した右目と黒すぎる左目、それと濃い隈と一緒に浮かべられた不敵な笑み。フローリングすれすれまで垂れ下がった黒い髪が重たげにかき上げられる。白いワンピースと血痕と闇が似合いそうな姿に、僕は恐怖よりも安心感を覚えていた。今日も彼女は生きている。


「別に舐めちゃいないよ。でも、少し舐めたくなる」


 口にしてから変態的だと気付き、苦笑した。カンナはというと、合鍵と同じマスコットが付いたゴムを口に咥え、ツインテールを作ってから自らの豊満な胸元を五指で示し首を傾げた。


「……舐めてみます?」


 押し上げられたワイシャツが示す細いウェストとのギャップに、苦笑を張り付けたままで目を逸らす。


「お前を過大評価していたかもしれないから、過大評価されたままでいたかったらまず服を着ろってんだよ」


 カンナは、今度は反対に首を傾げる。

「着てるじゃないですか」


 ここぞとばかりに前のめりになる。僕の退路は残すところ玄関から出ていくしかなくなってしまった。このままでは他の住人にカンナの痴態が見られてしまうかもしれない。


「屁理屈を言うな。お前が着ているのはパンツとワイシャツだ」


 なんせワイシャツに至ってはボタンの一つも閉められていない。


「ねえ、センパイ?」

 一歩、カンナが僕に近づく。きめ細かな肌は火照り、汗の輝ながら何やら甘い香りを放っている。半開きの吊り目はやはり不敵に笑って僕を見つめた。

「サボっちゃいましょうよ」


 白く濁った瞳は何度見ても痛々しい。熱い唇から漏れる吐息を頬に受けて、僕は彼女に近づく。

「駄目だ」

 右目を労るようにカンナの右頬に左手を、左肩に右手を当てて押し戻した。

「お前と一緒に留年する気はない」


 手の甲を撫でる前髪がこそばゆい。

 すると、僕の手に上にしなやかな右手が重ねられた。

「つれないですねえ。まあ、私は天才なので進級しますけど」


 手首の傷跡は未だに赤々と残ってはいるが、増えてもいないようだった。少しだけ嬉しくなって手を重ねたままで頬を撫でる。

「お前が先輩とか、ぞっとする」


「安心してください。もしそうなってもセンパイのことセンパイって呼んであげますから」

 カンナの硬い表情筋が浮かべる不敵な笑みも心なしか柔らかかった。あまりの熱気と互いの汗に、僕らまで溶け合って一緒になってしまうような空想に駆られる。挟まれた左手を引き抜き、僕自身の首の後ろで静かに拭って誤魔化した。


「公開処刑もいいとこだ。そうなったら僕の方が学校やめるかも」


 カンナの右手は名残惜しそうに空を掴んでいた。

「そうしたら私もやめます。センパイのいない学校とか行く意味ないですし」


 わりと現実的で甘美な共依存の未来を想像する。そんな未来が、少しだけ名残惜しい。


「そんなことより、ほら、さっさと準備しろよ。今日こそは絶対に間に合わせてみせる」


「大丈夫ですって。私たちなら暮らしていけますって。昨日も大勝だったんですから」

 そういうと暇を持て余していたボタンを留め始めた。大勝、というのがeスポーツの賞金のことを差しているのか、それとも株取引きのことを言っているのか。僕の家庭環境を考えても暮らしていくだけならたしかに可能だろう。


「話をそらすな」

 落ちていたスカートの端を掴んで手渡すと、カンナは受け取った形のままで固まってしまった。


「そらしてるのはセンパイの方です。まだ、私に決めてくれないんですか?」

 カンナは笑っていなかった。眠たげなツリ目が僕を睨みつけているように見えた。


「……ごめん。今日中には決めるから、もう少し待ってほしい」

 素直に頭を下げた。


 あと二回は気まずい思いをする覚悟をしなければならない。すると頭が柔らかいものに包まれた。目の前にはワイシャツの腹部と、スカートと、サイハイに包まれた細い脚と見え隠れする絶対領域。どうやらカンナの胸に抱かれているらしい。

「ま、別にいいですよ。でも、今日も私、ちゃんと学校に行きますから。だから約束通り、帰ってきたら私に、いいこいいこってしてください」


「――ちゃんと最後まで授業を受けたら、考えてもいい」

 そういって抱く腕を解いた。


 不敵な笑みは赤らんでいた。

 えへへ、と。


 それから。

 誰もいない室内にカンナがぼそりと呟いた。 

「いってきます。パパ、ママ」


 ドアを開くと薄明光線に目が眩む。


「センパイ、傘持ってます?」

 徹夜明けなのだろう。一緒に歩き出したカンナの足取りはどこか危うい。アナログ表示の腕時計を見ると電車の発車まで五分を切っていた。


「折り畳みはいつも鞄に入ってる」

 僕はカンナの手を取り駆け出した。

「明日からは持ってくるように」


「別に、明日からも必要ないですし」

 繋いだ手が汗ばむ。


 指を絡め、離さないように。

 転ばないように、電車に間に合う歩幅でカンナに合わせる。ツインテールが激しく揺れる。コンビニを過ぎた頃には、今にも死んでしまいそうなほど息を荒げていた。

「大丈夫?」


 カンナは汗まみれで不敵な笑みを浮かべながら、こくんと頷いてくれた。

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