第35話 * 妄想vs束縛

 始業五分前の鈴が鳴る。汗だくになった甲斐かいがあったというものだ。息を整え直す暇もなく、聞きなれた声が僕らを呼び止めた。


「おはよう。水無月君」


 その人はいつも通りに昇降口に立っていた。全校生徒の手本のような笑顔は努力の賜物たまものだ。にこにこと浮かべられたよそ所行きの笑顔を受けて、僕も膝に手を着いたままで微笑み返す。


「おはようございます。掟先輩」


 掟先輩は満足げに頷くと、手を離してなお僕の右腕に縋るカンナに視線を投げた。


「おはよう。一年三組出席番号六番、倉石カンナさん。駄目じゃない、水無月君に迷惑かけちゃあ。ちゃんと自分で起きて、自分で支度して、自分で学校に来ないと。いつまでも水無月君に頼ってばかりじゃ社会じゃ通用しないわよ? 彼だって、いつまでも貴女の傍にいられるわけじゃないんだから」


 カンナはいつも通り、無視を徹底している。掟先輩の狐のような瞳が僕を射抜く。彼女の妖しい笑顔を見ると自然と背筋が伸びてしまう。

 ぬっ、と距離を詰められたかと思えば、左耳を温い吐息が襲う。


「水無月君」


 背筋はむしろ凍るようだ。


「今日の放課後、屋上に来なさい」

「いいですけど……珍しいですね。屋上なんて」


 まだ文化祭は先だったはずだが、屋上でやるべき仕事なんてあるだろうか? まさか掟先輩に限って告白なんてことは、なんて考えていると右腕がカンナの胸から引き抜かれた。掟先輩は新鮮な汗がしみ込んだ包帯を舐めるように見つめ、手のひらの感触を確かめた。節のはっきりした冷たくてしなやかな手だ。右手の傷が熱を持ち、思わず顔をしかめてしまう。


「これ、ちゃんと治療したの?」

「とりあえず応急処置は……」


 まさかカンナと揉めたなんて言えるわけもなく、言葉を濁した。何よりそこから先を言うより早く、掟先輩は僕の手を引いていた。


「駄目よ、きちんと手当てしないと。遅刻願いは発行してあげるから今すぐ保健室に行くわよ」


 しかし、僕が掟先輩に連れていかれることはなかった。僕の意思を示すより先に、包帯だらけの腕が掟先輩の手首を握り締めていた。

 

「なら、私も一緒に行ってもいいですか? 碇谷センパイ」


 カンナは不敵に笑い、掟先輩は余所行きの笑みを浮かべている。


「貴女には保健室へ行く必要がないように見えるけど?」

「それは私が決めることですし」

「あら、やっぱり手首が痛むのかしら。なら良い精神科を知っているから紹介してあげましょうか?」

「見た目で決めつけないで下さい。私、こう見えて酷い片頭痛持ちですし。あーつらいなー保健室のベッドで蒼斗センパイに看病してもらわないと治らないかもなー」

「嘘は良くないわね、倉石カンナさん。片頭痛持ちだなんて記録はなかったけれど?」

「当たり前ですし。だって誰にも言ったことないですし? だいたい嘘だなんだっていうなら碇谷センパイが蒼斗センパイに付き添うのも意味わかんないですし」


 掟先輩の顔が歪み、僕の手首を掴んでいた手が離れる。きっとカンナがそういう力の込め方をしたのだろう。カンナはわざとらしく両手を広げて溜め息を吐いた。掟先輩は自らの手首を擦り、二人の視線は火花を散らし続けている。


「生徒会の仕事だとかかこつけて蒼斗センパイを連れ回すの、やめてもらっていいですか? 束縛癖は嫌われますし」 

「あら? あらあらあらあらあらあらあらあらあら? 束縛なんてしてないわ。きちんと水無月君に了承を得ているもの。被害妄想は頭の中だけにしてもらえるかしら?」


 二人を取り繕うものは何もなかった。掟先輩が辛うじて笑顔の体裁を保っているのは経験値の為せる業だろう。 カンナの不敵な笑みは本来の役目を果たしたというところか。

 取り戻した右手の感触をたしかめる。遅刻しないために必死で気が付かなかったが、しばらくは板書に苦労しそうだ。胡蝶の世話にならなければ。

 始業の鈴が鳴る。火花散る五分間に終止符が打たれる。駄目押しに、僕はすかさず二人の間に割り込むように、掟先輩に向けて深々と頭を下げた。


「ご心配おかけしてすみません」

 顔を上げると、掟先輩は狐につままれたような顔をしていた。

「ちょっと擦りむいただけなので大丈夫です。それよりほら、生徒会長が遅刻じゃ示しがつかないでしょう。僕らも授業に行きますから、心配しないでください」


 カンナの腰を掴み、そそくさと掟先輩とすれ違う。


「放課後、待ってるからね? ずっと、ずっと、ずうっと」


 背を叩く吐息めいた声に生徒会長の威厳は含まれていない。


「行きますよ。必ず」


 家庭科室や保健室の並ぶ南棟とは逆、各学年の教室が詰め込まれた北棟に向かう最中、カンナの腰から手を離す。ごめん、と。言うより早く、カンナが僕の腕を抱き締めた。手のひらは労るように触れず、腕だけをぎゅっと力強く。


「どうせ止めても無駄でしょうから、これだけは言っときます。あの人、やっぱヤバいです。たぶん『できる』と心の中で思ったなら、そのときすでに行動を終えているタイプの人間ですし」

「……覚えておくよ」


 抱き締められた腕を半ば強引に引き抜いた。嘆息に似た言葉を残し、背を見せた。だってもう階段の前だ。別れなければならない。センパイ、と背を叩く声に振り向くと人差し指が頬に刺さる。むにっ、と。カンナは自分の頬を上げて不敵な笑みを不安げに歪めながら、僕の頬を突いていた。


「―—約束、忘れちゃダメですからね」


 僕は言葉の上澄みだけを汲み取って「わかってるよ」と指をそっと退け、届かない苦笑を浮かべた。

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