第34話 * カンナを摘む
カンナを迎えに行く旨を告げると二人は快く見送ってくれた。コンビニ前の路地は相変わらず陰鬱な空気が漂っていたけれど足取りは軽く、あまりの軽さに9階まで階段で駆け上がって当たり前のように後悔した。けれど血行が促進されたのか、陰鬱な天気と裏腹に頭痛は軽くなっていた。
倉石家の玄関をくぐると珍しく身支度万端のカンナがいた――ふと、出会った頃の彼女を思い出す。ぼさぼさの髪は墨ような艶を取り戻し、耳の斜め後ろで2つの尾を描いていた。部屋は小綺麗になって、包帯の面積も減っている。
ひざを抱えて座るカンナを訝る。
「……カンナ?」
すると、カンナは意を決したように立ち上がり僕の胸に縋った。甘い香りが吹き抜ける。
「蒼斗センパイ。覚えてますか? 私と出会った日のこと」
「ああ……友達いないのによく話しかけられたよな。僕だって迷ってたのに」
「一目惚れ、でしたし」
「だから、ゲーム以外で人を揶揄うなって」
「勇気を出して、話しかけたんですよ? あんな出会い方でしたけど、私の処女は、処女のままです」
「お前、何を」
「まだ、私は友達以上になれませんか?」
ようやく目が合う。痛々しい満月と吸い込むような新月が、消えない隈の上で煌きらめいた。
「私もう、センパイがいないとダメなんです。蒼斗センパイ以外は全部、嘘なんです―― だから、私と付き合ってください」
それは二度目の告白だった。ようやく目が合う。痛々しい満月と吸い込むような新月が消えない隈の上で煌き、どきりとする。だって、今の僕には彼女を傷つける以外の選択肢はない。
カンナのことは好きだ。傷つけたくはない。でも、カンナか胡蝶のどちらを選ぶか問われれば、僕は何度でも胡蝶を選ぶ。傷つけないために、傷つかないために、きっと迷いもするけれど。
「……ごめん。他に好きな人がいるんだ。だから、僕はカンナとは付き合えない」
表情筋の強張りを感じた。きっと僕は今、ぎこちなく笑っていた。もしかしたら不敵な笑みにだって見えるかもしれない。少しでも誠実に、少しでもカッコよく、彼女の気持ちに答えられないことを謝れるように足を揃えた。阻むもののなくなったドアが閉じて、室内はいつもの薄暗がりに還る。俯かれると、形の良い
――これで、嫌われてしまったかもしれない。僕らの愉快な放課後は二度とこないかもしれない。もし僕が胡蝶に拒絶されたら、と思うとさらに胸が痛み動悸が走る。そんな仕打ちを今、僕はカンナにしてしまっている。
小さな溜め息が聞こえた。
「冬馬センパイですよね? どうせ」
「ああ、今朝、僕から胡蝶に告白した」
「やっぱり」
すると、カンナは僕に背を向けてダイニングキッチンの方へ歩き出した。ゆらゆらと揺れるように歩く様は夜道を彷徨う幽霊のようだ。おかげで手の甲をドアの枠組みや壁にぶつけてガツガツ嫌な音をさせていた。
そのとき、今朝起き抜けに感じたものと似た不安が脳裏を過る。カンナもどこか遠くへ行ってしまうような気がした。その理由が手首の傷と台所にあると考えると逡巡する暇もない。
「カンナ?」
靴を脱ぎ散らかして後を追う。やはりカンナはキッチンに立っていた。虚ろな瞳の先では包丁が鈍く輝いていた。刃紋の揺らめきを確かめるように指先で撫でる様は、到底これから料理をするようには見えない。
「ねえ、センパイ。どうしたら私と付き合ってくれます?」
それは無理だ。僕は胡蝶が好きだから。そんな言葉を選ぶ時間をカンナは許さない。
「私、蒼斗センパイと会ってから掃除、得意になったんです。邪魔なものを全部、ぜんぶぜんぶぜんぶぜんぶぜーんぶ片付けたなら、センパイは私と付き合ってくれますか? たとえば冬馬センパイを殺したなら蒼斗センパイは私だけを見てくれますか? 私と貴方だけの幸せな世界は、どこですか?」
胡蝶がいない朝を想像すると僕が僕で無くなっていくような喪失感に襲われた。カンナがいない夜を想像すると胸に穴が開くような喪失感に襲われた。それでも気持ちは変わらない。でも、誰かを殺してでも大切な人を自分だけのものにしたい気持ちも理解できた。
絶対に許さない。そう言えば永遠に忘れられることがないと喜んで僕を殺すかもしれなかった。胡蝶以外は選ばない。そう言えば蒼斗センパイは誰のものにもならないと喜んで胡蝶を殺すかもしれなかった。それらを全部ひっくるめても、彼女は自らの脳内に存在する永遠の為に誰かを殺すかもしれない。
だから――
「カンナが僕の大切な人を殺したなら、僕はカンナを嫌いになる。そうして、好きな人も嫌いな人も全部忘れる努力をして、二度と人を好きにも嫌いにもならないだろうね」
――僕が提示したのは嫌いになった上で、無関心になることだった。実際の僕がどうなるかは問題じゃない。そういった可能性を提示することでカンナは僕が二度と自分にだけ振り向かなくなる可能性を捨てられないと思ったのだ。
本当は、君のことだって大切だ。なんて言えるわけがなかった。きっと言わなくても不安でも、彼女は理解している。彼女のことだけを思えばそれを伝えるべきだろう。それでも、今の僕はそれを口にするわけにはいかなかった。 きっと頭の良い彼女はすべて想定済みだった。僕と二人で生きる、存在したかもしれない未来さえ。
――もう少し、カンナのことも大切だと伝えていれば、違う未来もあったのだろうか。
「やっぱり」
不敵な笑みが浮かぶ。
「センパイは優しいですね」
包丁が突き込まれる。
言うより早く、手を差し出していた。右手に感じたことのない激痛が走る。内側から焼かれているような感覚。零れた熱が僕らの間にぽつりぽつりと広がっていく。
遠くへ行ってしまう予感は当たっていた。あの日のような破滅願望めいた衝動ではない。希望を見出した故に、それを手に入れる為の自殺衝動。
包丁はカンナの喉に突き立てられようとしていた。僕の右手が辛うじて間に合い、壁になったのだ。喉の奥から湧く悲鳴にも似た息を噛み殺し、開いたままの左手でカンナの手ごと包丁の柄を握る。
やはりカンナは見かけによらず
本当は僕なんかにカンナを止める権利はないんじゃないか、とも思った。一緒にいて楽しいから、一番じゃないけど大切だから、死んでしまったら悲しいから、だから死なないで欲しい。そんな正論はきっと彼女に響かない。どんなに正当化してもこれは僕のエゴだ。何を言えば良いかわからなかった。
「ほら、優しい。センパイ今、何を言えばいいかわからないって顔してますし」
不敵な笑み。涙の浮かんだその顔は勝ち誇っているようにも、優しく微笑んでいるようにも見えた。一年前なら考えられなかったことだ。それに応えられないことが情けなくて、悔しかった。
もう、これしか意味のある言葉が見つからない。
「ごめん、カンナ。本当に、ごめん」
「ほんとですよ。もっとちゃんと謝ってください」
「ごめん……ごめん……っ」
「私、センパイに会わなきゃ誰かを好きなんてならなかったと思います。強いままの私でいられたと思います。貴方に出会って、貴方を好きになってしまったせいで、私、弱くなっちゃったんですよ……?」
視界がぼやける。それは彼女だけに許されたもので、僕にその権利はないのに。
「だから――だから、センパイは責任を取らなくちゃいけないんです。お願いですから、どんな言うことでも聞きますから、ちゃんといいこにしますから、だから……!」
――私を愛してください。私に愛を教えてくれたように。そんな言葉を空想するのは容易かった。決して叶わない空想ほど辛いものはない。それが限りなく存在し得た可能性であれば尚更に。
今やカンナの手に力は入っていない。まるで僕に全てを委ねるように。痛くないようにそっと重ねた手をカンナの頭上に持っていく。血の止まらない右手で古傷だらけの両手首を掴んだ。
「ごめん。それでも僕は、胡蝶を一番愛してる」
抱きしめる代わりに、綺麗なままの左手でカンナの頭を撫でる。
「だから、今はこれで。今日の分で、許して欲しい」
髪を梳くように。
傷付けないように。
いいこいいこと言外に。
「……そんなのズルですし、チートですし」
「ごめん」
「そんな風にされたら私、何も言えないじゃないですか」
「本当に、ごめん」
「私、諦めたりしませんから」
「……ごめん」
無駄だなんて言えるわけがなかった。でも「わかるよ」なんて、もっと言えるわけがなかった。
「もうリスカなんてしませんから、離してください」
「リストっていうかネックだったが?」
恐る恐る手を離すと、瞬く間に満月のような右目と新月のような左目が僕に迫る。抱き付かれてしまった。絡み付く両手足にもう逃さないという強い意志を感じる。
「ネックカットしてない私、偉いですか?」
「……もう撫でてる」
なんせ、褒めて褒めてと言わんばかりに頭を押し付けている。すると、ガリッと、耳を噛まれた。
「いてえ!」
不意打ちには耐えられず叫んでしまう。舌と吐息が左耳をくすぐった。
「冬馬センパイに
「っ……ああ!」
「今夜もオールで付き合って貰いますから」
「いいよ。明日また会えるなら、いくらでも」
その後。
カンナは手慣れた様子で僕の右手を処置した。
「お揃いですね」
不敵な笑みが緩んでいた。
少しだけ許されたような気分になる。
それが僕の都合のいい勘違いでなければいいなと思う。
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