第11話 * 堕天使の心臓・その壱

 卵と砂糖の焦げる匂いがする。我が家の卵焼きが甘いのは僕の好みによるものだ。


 僕が僕の家でキッチンに立っている。それだけなら何もおかしなことはないのだが、僕はこの時点でこれは走馬燈であると理解した。僕は胡蝶を想うあまり、胡蝶のことを夢に見てしまっているのだろう。


 火を止める。横から水面を叩く音がする。隣で胡蝶がお茶を淹れてくれているのだろう。今までと変わらない何てことのない日々を思うだけで頬の緩みが止まらない。このままではいずれ蕩けてしまうだろう。


 水の音が止まる。そうだ、僕らは元々婚約者だった。思春期に憧れるようなあれこれは結婚したあとだとか、学生で付き合ったところでナニをするのか、なんてことを悩むことに意味はない。僕と彼女は正真正銘、恋人なのだから。


 手を繋ぐことも、抱き締め合うことも、キスをすることも、そこから先だって、僕らは何だってできる。これが夢であるなら、なおさらに。


 卵焼きを菜箸でひっくり返していると脇に皿が一枚、用意された。僕らは同じ皿の卵焼きを食べる仲だ。氷細工のように真っ白な手に一瞬、気をやってしまう。とはいえ、胡蝶の前でカッコ悪いところは見せられない。慎重に、慎重に卵焼きを載せた。

 ――できた。


 緩む頬をなんとか微笑みに誤魔化してありがとうを伝える、はずだった。


「流石です、見事なお手前で」

「……そんな台詞、胡蝶は言ったことないよ」


 夫婦のように隣り合って料理をしていたのはアスターだった。


「ふふ、構いません。冬馬胡蝶の真似事をしたかっただけで、わたくしはわたくし以外になろうとは思いません。許嫁に幼馴染、親友、後輩、先輩、同級生。思いを寄せる者の絶えない蒼斗様と言えど、心臓になった女はわたくし一人です」


 ……どうやら僕は本当に、神に殺されてしまったらしい。


「その件に関しましては本当に申し訳ありません。わたくしの油断と慢心が引き起こした事態です。棚から牡丹餅ですね」


「命を救ってくれたことには感謝してる。でも人の心と会話するな。最後の最後で建前を覆すのもやめろ」


 彼女にとって、僕の心臓になるということはそういうことだ。


 本当はわかっていた。これが走馬燈ではないことは。走馬燈であればいいと思っただけ。僕は胡蝶に現実逃避をしていたのだ。


 胡蝶を想う、といえばカッコよくないわけじゃない。けど、それが胡蝶を悲しませることになるのなら話は別だ。カッコ悪い。


「走馬燈、というと語弊があるかもしれません。ここはわたくしと蒼斗様だけの世界。死の間際ではない、死後の世界の一歩前。貴方の心臓たるわたくしが、貴方を無になど流したりはしない」


 臨死体験、というのだろうか。病床に伏した患者が、一度停止した心臓を再び動かして生還を果たした場合に語る〈死の間際〉。アスターの言に従うならば、走馬燈というよりは三途の川というべきか。


 考え込む僕を余所に、アスターがお茶を差し出した。

「これ、味見してくださいませんか?」


 匂いからしてほうじ茶だろう。受け取った湯飲みは人肌より熱く、しかし取り落としてしまうほどではない。ちょうどいい温かさ。両手で受け取った湯飲みをあおると、胡蝶ほどではないにせよ好みの味が出ていた。


 涙が出るより早く菜箸で卵焼きを一口大にして、夕日のような瞳の前に差し出した。

「自信作だ。食べてみてくれ」


 アスターは唇を開き、啄むように口に含んだ。二口で頬張り、もくもくと咀嚼する。


「んんっ♡ おいひいれふぅ♡」


 嘘偽りない――下心はありそうな――笑顔だった。頬が落ちるという慣用句があるが、本当に頬を抑えながら咀嚼する奴は初めて見た。愛した男の生き方を確かめるために五人の少女に殺し合いを強いるようには見えない。


 口を塞いでいる内に誠実さを押し付ける。

「ありがとう、僕を救ってくれて」


 幸福そうな笑みのまま、アスターがいう。

「わたくしはわたくしがしたいことをしたまでです」


 そういうと思っていた。

 そして、肯定されるとわかりきったお願いをした。誰に卑怯だといわれても構わない。胡蝶を愛するためなら、卑怯じゃない。


「僕にも神を殺せる力を――〈愛の力〉を貸してくれないか?」


 アスターの笑みが歪む。少し、寂しそうに見えた。ちゃっかり僕に差し出した湯飲みの、僕が口を付けた部分に口を付けて喉を潤した。緑色の水面を眺めながらいう。


「もちろん〈愛の力〉を授けるのは構いません。ただし、愛によって何を為すかは蒼斗様次第でございます」


 どこか含みのある言い方だった。何が引っかかっているのか思考を巡らせた段階で、胸の内の全てが伝わってしまう。


「あの殺し合いの最中、彼女たちに授けたのは〈種〉に過ぎません。〈開花〉させたのは彼女たち自身。人の命が一人一つであるように、根源たる思想に基づく力が花開くのです」


 要するに、授けた異能がどう作用するかはわからないということか。でも、だとすればいくつか理屈に合わない要素が出てくる。


「彼女たちに発現した異能は、わたくしに覚えのあるものでした。使い方は開花と共に無意識に理解できるように調整を施させていただきました」


 貰った武器の使い方もわからないようでは戦いになりませんからね、と湯飲みを仰いだ。僕はもう一つの違和感を問う。


「一人一つというのなら〈千里眼〉と〈地獄耳〉は?」


 あの戦いの中、僕にも一つの力が付与されていた。口上こそなかったが、あれのおかげで、僕は殺し合いから目が逸らせなくなってしまったのだから。忘れることなどできない。アスターはふうと落ち着き払った息を吐いた。


「あれはわたくし自身が用いた上で、感覚を共有していたに過ぎません。まあ、一度体感はしているので、今後もきっかけさえあれば使用できる可能性はありますが」


 アスターが卵焼きに手を伸ばした。

「蒼斗様がやりたいことは神殺しですか? そんな愛を、信じていますか?」


 指先で掴んだ卵焼きは僕の口に押し付けられていた。蕩けるような笑みは何度見ても意図が読めない。口を開いて卵焼きを受け入れると、指ごと口腔を犯される――甘すぎる。僕よりも胡蝶の方が、僕の好みを理解しているらしい。


 指を引き抜き、湯飲みを取り上げ、口を付けていない場所から湯飲みを干した。ふっ、と息を吐く。


 どんな生き方をしてきたか。どんな愛を成したいか。

 そんなのかれるまでもない。


「殺すよりもまもりたい。誰かが傷ついているのを見ているだけで何もできないくらいなら――」


 死んだ方がマシだ、と喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。それでは僕を救ってくれたアスターにあまりにも不誠実だと思ったのだ。


 でも、

「――たとえ誰かにとって不誠実でも、僕が傷つく方がずっと誠実だ」


 胡蝶が同じように僕のために命を投げ出すようなことがあれば、僕は命を投げ出してでも胡蝶の命を救うだろう。相手が望まないことをやるのは誠実とはいえない。ただのエゴだ。でも、どちらかが死ななければならない救いのない選択肢なんて死んでもごめんだ。大切な人が誰も死なない可能性があるなら、それを選ぶのが誠実だ。カッコいいとはそういうことだ。


 彼女が誰かに取られてしまうなら、彼女を殺してでも僕だけのものにする。願わくば。彼女を傷つけるのが神様だとしても、死んでも彼女を守り抜く。そんな力が欲しかった。


 アスターは笑っていた。

 そこでようやく気がづいた。


 彼女は、こんな未来を夢見ていたのだ。僕と過ごす何でもない日々を夢見て、頬の緩みが止まらなくなっていたのだ。


「やはり、たなぼたでした。わたくしの愛した貴方が、わたくしの愛する姿を、わたくしにだけ見せてくださる」


 今度は僕の指がアスターに咥えられる番だった。手を掴まれると箸を取り落とし、あっけなく指を咥えられてしまう。僕に〈ちょっとした洗脳〉をかけ、過去に遡ったときを思い出した。


 ――これで、僕にも〈愛の力〉が植え付けられたのだろうか。


大丈夫ですらいひょうぶれふ死んでもわたくしがひんへもわらふひが恭しくお出迎えさせていただきますのでうひゃふひゃひくおへむふぁいしゃふぇふぇいふぁらきまふのへ


 他人の指をしゃぶりながらいうセリフじゃないな、と思った。


 チュポッ、と人差し指と中指と薬指が引き抜かれる。べったりと付着した涎が唇とのあいだに橋を架けている。


「戦いはすでに始まっています――いってらっしゃいませ」


 窓の外から差し込む淡い光が白から黄金色に変わる。世界は茜色に包まれて、僕の魂は現実に還る。

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