第27話 * 1/6の徒花の花弁
テレビの前で膝を着いた僕には今や、落として割れた湯飲みも撒き散らした緑茶も胡蝶の笑みも見えなくなっていた。頭痛に伴って視界が明滅し、何もかもがまっさらになる。近くに彼女がいるのに、あまりにもカッコ悪い。分厚い鉄扉を殴りつけるように、ガンガンと頭の内側を殴られている。
誰かが遠くで溜め息を吐いた。
――声がした。
聞き覚えなんてないはずなのに、思い出すだけで泣けてくる。その事実だけで身体が病に侵されてしまったかのように痛む。明滅の中に夕日のようなオレンジの光と、夕焼けのような赤黒い影が混ざる。
燃えるようなベリーショートをモデル体型の上で揺らす少女がいた。
『オレと付き合ってくれ。オマエが望むのなら、オレはどんなオレにでもなってみせるから』
――愛する人が思ってくれるのなら、自分の生まれ持った姿さえ捨てられる。
自らを〈整形〉する変身能力の〈愛の力〉を与えられた少女は、何も成せずに心臓を穿たれた。
亜麻色のボブカットを下げる、眼鏡の似合う少女がいた。
『私を貴方のものにしてよ。貴方に恩を返すにはもう、一生貴方に尽くすしかない』
――愛する人と、一時たりとも離れたくない。
致死の傷さえ治癒可能な包帯を操り相手を〈束縛〉する〈愛の力〉を与えられた少女は頭を射抜かれた。
日本人形を思わせる黒髪ロングと明るい色の瞳を曇らせる少女がいた。
『あたしは、蒼斗が好き。頭のてっぺんからつま先まで好き。良いところも悪いところも全部大好き。あたしは蒼斗のこともっと深く、ちゃんと理解したい。もっといっぱい蒼斗のことが知りたい』
――愛する人のことはすべて、知っていたい。
透明化と索敵を使う〈追跡〉に特化した〈愛の力〉を与えられた少女は一番長く苦しんだ。
墨汁をぶちまけたような黒髪ツインテールと月の如き瞳を持った少女がいた。
『私もう、センパイがいないとダメみたいなんです。蒼斗センパイ以外は全部、嘘なんです』
――愛する人は、記憶の中ではもっと愛おしい。
〈妄想〉を具現化させる〈愛の力〉を与えられた少女は、長刀で縦半分に断ち斬られた。
新雪のような銀色のセミロングと冬の空にも似た青い瞳の少女がいた。
『私は今日この日まで貴方のことだけを考えて生きてきました。両親が決めた婚約者だからというだけでなく、一人の女として貴方を愛しています』
――愛する人のためなら、どんな困難でも乗り越えられる。
〈一途〉に理解した相手の異能さえ真似ぶ〈愛の力〉を与えられた少女は最も凄惨な死を遂げた。
テレビの音は遠く、背を擦る手に彼女の存在を思い、震えた。心臓の脈動が脳に流れ込む。荒ぶる呼吸を噛み締める。フローリングの上には無価値な涙が降り続けていた。
「ねえ、胡蝶」
「はい、なんでしょう?」
「僕は、ちゃんと君に相応しい――誠実でカッコいい奴に成れているかな?」
「ええ、もちろんです。蒼斗様は約束を果たしていますよ?」
何かが僕の涙に寄り添った。あるいは、舞い落ちたというべきか。
僕の傍にいるのは、蕩けるような笑みを浮かべる黄昏を象ったような堕天使だろうから。食い縛った歯の痛みも溜まった唾を気に留めるより先に、沸々と湧き上がる怒りが体内の空気を押し出した。
「アスターッ……!」
「はい、如何いたしました?」
アスターは平然と答えた。
みんな、それぞれの性格にあった愛の力を与えられていた。美しい変化を果たそうとしていた楓の能力が不思議とわかる。知らないはずの〈愛の力〉を僕は知っていた。〈愛する人が思ってくれるのなら、自分の生まれ持った姿さえ捨てられる〉。アスターはその能力を用いて、胡蝶に成り代わっていた。
すべて、思い出した。
「うーん……どうも蒼斗様と私の記憶操作は相性が悪いみたいですねえ……」
五人の少女が僕を求めて殺し合った。
僕のせいで、殺し合った。
――いや、結果的には六人が殺し合ったのだ。
五人の殺し合いを生き残った胡蝶は屋上に辿り着き、アスターと戦った。決意を新たにした胡蝶は〈愛の力〉の性能を如何なく発揮して善戦した。僕を救い出して、校舎の中を逃げまどいながら戦った。
なまじ強くなった分だけ、彼女は凄惨な死を遂げた。
フラッシュバックに嗚咽する。
そのとき、胡蝶は両手足を切り落とされていた。
そのとき、胡蝶は磔にされて足元から焼かれた。
そのとき、胡蝶は校舎に押し潰された。
やっとの思いで届いた攻撃は巻き戻された。
青い瞳を涙と絶望に、白い肌を自らの血と臓物、赤黒黄色に汚して――僕自身の目で、胡蝶の凄惨な死を目の当たりにした。
殺し合いは初めからアスターのための出来レースだった。全てが無駄だった。思い出した。きっと思い出さない方が幸せだった。でも思い出さずにはいられなかった。アスターに向けた怒りが八つ当たりに過ぎないことだって思い出していた
僕のせいだ。
――僕が殺した。
行き場を失くした握力はフローリングを掴み、爪がパキリと割れて血が滲む。理不尽ともいえる怒りを向けられたはずのアスターが慈しむように僕の背中を擦る。
「大丈夫ですよ、蒼斗様。万事オッケーです。貴方には私だけいればいいのです」
「僕はそんなこと望んでいない」
「何を言いますか、まったく。貴方が望むのなら私はどんな私にもなれるのですよ? 〈愛する人が思ってくれるのなら、自分の生まれ持った姿さえ捨てられる〉と。どんな困難も乗り越えてみせましょう――ねえ、蒼斗さん?」
最初は教会の鐘のような荘厳さと可憐な鈴の両方を思わせるような声で、後ろの方はフルートのような清澄な音色を思わせる、胡蝶の声だった。
ずっと背中を擦ってくれていたはずの手が、今は酷く冷たい。
花開くような笑顔が脳裏を過る。
――蕩けた。
頭を抱え目を閉じ俯いて耳を塞ぐ。それでも僕は許されなかった。許されていいはずがなかった。彼女たちの声が優しく僕を責め立てる。
誰かに背中を叩かれた。
「ほらアオト、見ろよアオト。オマエの為ならオレはどんなオレにだってなってみせる。不満なんてねえだろ?」
にかっと歯を見せた男らしい笑顔が脳裏を過る。
――蕩けた。
「違う! お前は誰でもない! 楓は死んだ! 胡蝶も! カンナも! 葵も掟先輩もみんな! みんな、もういない! 僕のせいで――僕が! 僕が殺したんだ!」
誰かが、僕の背を舐めるようになぞった。
「何を言っているの、私はここにいるじゃない。こうすれば貴方はいつどこで誰とでも私と一緒にいられるのだから。貴方は私にお世話されるべきなのよ、ね? 二年一組三十六番、水無月蒼斗君」
妖しい笑顔が脳裏を過る。
――蕩けた。
誰かが恐る恐る、僕を慰めるように背を押した。
「別に、アンタがそういうなら強制はしないけど……でも、失くしちゃったものを数えても仕方ないでしょ? 安心しなさい。あたしは全部わかってる。アンタの欲しいもの全部わかるし、わからなくてもわかるように頑張るから、ね。蒼斗?」
不愛想な顔が脳裏を過る。
――蕩けた。
背に触れる手が消え、代わりに二つの突起と柔らかさが背中を押した。僕を後ろから抱擁する手首には薄っすらと、無数の傷跡が浮かんでいた。
「だいじょうぶですよ、センパイ。全部全部サボっちゃえばいいんです。世界中がセンパイの敵になったとしても私だけはセンパイの傍にいますし。センパイのためなら私、どんなことでもやっちゃいますし」
不敵な笑みが脳裏を過る。
――蕩けた。
気が付くと、芸術的な造形の裸足が目の前にあった。膝小僧一つとっても美しいと評せそうな完璧な姿は、自らが神に作り出されたものであると主張しているようだった。やっとのことで見上げると眩しい日差しに網膜を焼かれる。五人分の幻想が光の中に溶けていく。
特別な装飾があるわけでもないのに豪奢な雰囲気を纏った両手の平が僕の頬を包む。てらてらと輝いているのが唇だと理解したのは声が出せないことに気が付いたあと、
「これで今日からは私と一緒に一途で誠実でカッコいい愛を証明できますね」
「……わからないよ、もう。駄目だ、僕は。どうしようもない」
「ご安心ください。蒼斗様がどんなに駄目になったとしても私が面倒を見て差し上げます」
「みんながいなくなった世界で僕一人が幸せに生きることの、どこに誠実さがあるんだ。そんなカッコ悪い真似するくらいなら死んだ方がマシだ」
「なら、確かめてみましょうか。彼女たちが不幸かどうか」
「お前の見せる幻想はもうこりごりなんだ。もういないんだ。みんな死んだんだ。僕が殺したんだ。もう、僕のことなんか放っておいてくれ」
「いえ、ですから、いなくなっていないんです」
「……え?」
情けない声が出た。すぐに、その意味を理解した。アスターが何か干渉したのだろうか、明らかに不穏な雰囲気の事件だったのに、テレビはすでに違うニュースに移り変わっている。しかし、よくよく思えば忘れるわけがない。
「生きてるのですよ。二人の少女が、貴方との未来に賭けたのです」
間違いなく、五人は一度命を落とした。けれど、報道された死者は五人ではなく三人だった。敗者は僕との記憶を抱いたままで死ぬ。あるいは僕に関わる記憶を失って生き返れる。
また妙な勘違いでも起こしていなければ、葵と楓は生きている。気づいたときには僕は外へと駆け出していた。
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