第3話 * 蕩ける笑顔の居候・アスター
――家に帰ると知らない天使が妻のふりをしていた。
人というよりは――天使というべき姿。でも天使というにはあまりに色鮮やかだった。
夕日みたいな黄金色の髪を肩口で揺らし、夕焼けに似た赤い瞳を輝かせる少女。紅色の光輪を頭上に浮かべ、先に向けて紫がかった桃色の翼を広げて浮いている。
緩く羽ばたく翼はジョークグッズにしては
玄関の親子ドアを開けて一秒。見知らぬ少女のお迎えの言葉が七秒。息をするのも忘れた永遠にも思える静止した時間が二秒。合計十秒。
誰そ彼。
君は?
鍵は?
どうして?
疑問は尽きない。
敵意を感じないどころか厚い好意を感じる。
手癖で壁を弄って電灯を点け、
吐き出す息を思い出して、しかし見知らぬ他人に自宅で出迎えられた恐怖心や警戒心は思い出せず、僕はこうカッコつけた。
「……そうだね。僕はまず、君の
すると黄昏時を象った天使はダイニングに消えた。
「かしこまりましたあっ!」
と、薄桃色の羽の残滓を残して。
見知らぬ他人が留守の自宅にいたら最悪、殺されてもおかしくない。にも関わらず、僕が平静を保ってお茶なんか望んだのは僕の意思に関わりなく不法侵入を繰り返す幼馴染のおかげだろう。我ながらどうかしていると思う。
でも、彼女たちの方がずっとどうかしているからお互い様だ。
まず、見ず知らずの人の家に上がり込んで恭しく迎えたあげく大人しく指示に従うというのが尋常ではない。警察に通報される可能性や人を呼ばれる可能性を考えていないのだろうか。
人の身で天使を裁こうなどと考えるのがすでに烏滸がましいのかもしれない。
あれよあれよという間に僕は自宅のダイニングに通された。四人掛けの長方形のテーブルに着くと、間もなく湯気を上げる緑茶が一人分用意される。天使は抱えたお盆で自らの豊かな胸を潰しながらにこにこと微笑んでいた。
恐る恐る触れた湯飲みは適温。啜ったお茶も適温。当たり障りのない苦み。正直に言えば玄米茶の方が好みだが、緑茶も嫌いではない。
「美味しいよ」
堕天使の頬が緩む。
「それは何よりですっ」
即効性の毒は入っていない。部屋の中も薄桃色の羽が散らかっているくらいで荒らされた様子もない。
「それで、君は?」
緩く羽ばたき宙に浮く天使に問う。
「はいっ! 天界から
そういってアスターは肩を落とした。人間味のある姿に毒気を抜かれてしまう。しかしその実、語られたのは彼女の神話。家族喧嘩の後日談かのような語り口に僕は頷くことしかできない。
「あの神『天使を続ける代わりに能力と記憶を失うか、記憶と能力を持ったまま消えるか』って言うんですよ。死ぬか殺されるか選ぶようなものじゃないですか、そんなの。だから私が選んだのは三つ目の選択肢。『あなたを殺して彼と生きる』でした。まあ蒼斗様に恋をしたおかげで〈恋の力〉は〈愛の力〉に進化していたので戦争はほとんど私のひとり勝ちだったわけなんですが!」
えへん、と上下一体型の真っ赤なニットワンピースの胸がはちきれそうになる。規格外の
「もしかして堕天使より天使の方がお好きですか? でしたら今すぐ
たしかにアスターは一般的に想像する天使とは大きくかけ離れているように思えた。天使というよりは悪魔と言うべきカラーリング。おまけにぶっころすときた。堕天使にもなる。
未だに落ち着かない様子の自称堕天使を視界から除けるべく目を閉じた。
「はいっ」
アスターも
「今から君に三つの質問をする。イエスかノーで答えてくれ」
天井を穿つように拳を上げて、ムダ毛の一本も見受けられない脇が惜しげもなく晒される。
「いえす!」
僕は視線を悟られないように目を細め、頷いた。
「質問その一、君が僕の家に入れたのは君の〈愛の力〉によるものである」
「いえす!」
即答。
同時にアスターが明滅してキッチンが透けて見えた。玄関の錠がひとりでにガチャリと閉じた。湯飲みが浮かんで回転した。緑茶は溢れて彼女を包むように螺旋を描いた。緑茶はさらに沸騰して泡と蒸気を上げながら湯飲みへ還った。テーブルに戻った湯飲みの中でアイスキューブが揺れて鳴った。観葉植物が枯れ果てたかと思えば巻き戻るように新芽になった。
透明化、念動力、発火能力、時間操作、以下略。無邪気な笑顔に嘘は見い出せない。
「質問その二、君の目的は僕の恋人になることである」
「いえす!」
今日、六人目の告白をたしかめた。六度目ともなると何か諦めに近いような感情が湧いてくる。視線を感じて目を上げるとアスターの顔が目と鼻の先にあった。美人が子どものように眉根を下げて不安げに僕を見ている。
「どうかなさいましたか? やはり、神の野郎をぶっころした方が?」
「いや……自分の意思で自分の道を切り開こうとするところ、僕は好きだよ」
するとアスターは赤くなった顔を隠して目は隠せず、大仰に仰け反った。エビのように背を反ると、重力を無視してふわふわくるくる天井に顔を打ちつけていた。ボクサーがノックアウトされる瞬間のスローモーションのようで、その口からは上擦った声で呪文のような何かが生成されていた。
「す、すすすす、す、好き!? やはり蒼斗様も私のことを愛していらっしゃったのですね。やはり私たちは結ばれる運命! 結婚式はいつにいたしましょう? この国の法律では蒼斗様はまだ結婚できないのでしたっけ。でしたら世間の方の認識を改ざんするのが良さそうですね。ところで子供は何人欲しいですか? 私は蒼斗様が望むのであれば何人でも孕みますけれど、私としては男の子と女の子が一人ずつがいいです。どちらが先でも嬉しいですが一般的には女の子が先の方がいいみたいですね。なんでもお姉ちゃんの方が下の子の面倒を見てくれるからだとか。もちろん私は蒼斗様との子どもであればおむつの処理だろうと夜泣きだろうとマタニティブルーだろうと幸せの一環に過ぎないのですけれども――」
放っておくと永遠に妄想の世界から帰ってこなそうな予感がして、質問を続ける。
「……質問その三、ここ以外に行く当てがある」
「のー!」
アスターは両手の人差し指をクロスして小首を傾げた。悪戯を思いついた子どもみたいな笑顔はきっと、フラれたときのことなんて少しも考えていない。僕には、初めて恋を知った女の子みたいな彼女を無下にできない。だから、こういうしかなかった。
「わかった。ひとまず今晩は泊まっていきなよ」
こうして僕は、今日六度目の先送りをした。
「いえす!」
アスターは僕に抱き着き、椅子ごと押し倒した。柔らかさと頬ずりの心地よさに負けじと彼女の頭を撫でて、精一杯カッコつけた。
その日、アスターの他に人の気配はなかった。分刻みのメッセージもない。夕飯もアスターと二人きり。ゲームの招待も来なかった。告白された側がこれだけ悩むなら、告白する側はもっと多くの勇気と覚悟を必要としたはずだ。この静けさは僕が思っていたより五人が正常であった証拠であり、素直に喜ばしいことだと思う。
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