第3話 * 忘却されなかった約束

 菊池さんの言葉を皮切りに教室がぞっと冷え込んだ。声はまばらになり、湿度がいっせいに吹き飛んだような錯覚に陥る。続いた舌打ちが急遽きゅうきょ到来した冬を氷河期に変えた。


「なあ、アオト」

 鏡越しに見慣れた般若はんにゃの影を見た。鏡越しの僕に視線を投げている。


「うん――」

 楓は言外に、もう限界だと訴えていた。楓は言うべきことははっきりと口にするし、それと同じくらい手と足が出る。

 正直は美徳だ。シンプルなのは良いことだ。でも、正しいだけでも美しいだけでもシンプルなだけでも正しいとは限らない。正論を聞いた誰もが傷つく可能性を孕んでいるし、暴力に訴えても誰もが不幸にしかならないことだってある。


 ここで一番正しいのは、菊池さんの一番の関係者であると思われるところの僕が、菊池さんの正体を明らかにすることにある。楓もそう理解して、自分が言うより早く僕にたしかめてみろと言っているのだ。


「――ねえ、菊池さん」


 名前を呼ばれてから少しの間があった。いぶかるように頭を上げると、お手本のような笑顔が返ってくる。

「はい、なんでしょう?」


 やはり、僕はどうしてか彼女のことが得意ではないらしい。湿度の高さでは説明のつかない汗が背中を濡らし、喉が鳴る。


「君は――どうして出会って間もない僕のことを好きだなんていうんだ? もし僕が大切なことを忘れているようなら、教えて欲しい」


 慎重に言葉を選んだ。出会って間もない相手に、こんなにも苦手意識を持つものだろうか。苦手なタイプではないはずだった。自己主張が強い知人にも生まれの違う知人にも僕に重めの愛を向ける知人にも覚えがある。だとすれば、僕は相手を疑うだけでなく、自分のことも疑わなければ誠実ではないと思ったのだ。


 笑顔が凍り付いた。

「……ええ、そうですよ。蒼斗様は大切なことを忘れています」


 菊池さんは微かに唇を噛み、。間もなく気まずさを隠すみたいに顔がほころぶ。


「十年前、約束したではありませんか。一途で誠実にカッコよく生きる。そういう人もいると証明する。それができなければわたくしがそう導くと」


 ――思い出した。

「君が、あの時の?」


 確かにそれは十年前、旅行先の湖畔で自分を天使だと語る当時の僕と同じと交わした約束だった。てっきり彼女は重い病で、直視し難い現実とヒロイン願望が混ざった結果、死後の話だとか天使だとかの話をしたのだと思っていた。


 僕の生き方を定めた少女が、すでに死んでいるものだと思っていた少女が生きていた。言われてみればあの日の面影があるような気がした。


「いえす! 要するにわたくしと蒼斗様は幼馴染のようなものというわけです」

 ふんす、と豊かな胸を大きく張る菊池さんを余所に大きな音がした。近くで椅子の倒れていた。幼馴染と聞いて黙っていられなかったのだろう。十年前、と聞いて自分よりも早かったことにショックを受けたのかもしれない。


 自分の居場所が奪われたように思っても不思議はない。勢いよく立ち上がった葵は自らのスクールバッグを抱え、教室の外へと駆けて行ってしまった。


 硝子を掻きむしるような悲鳴を上げていたような気がした。言葉にならない、口の中で声を噛み締めていた。僕が葵を追うより、彼女が駆け出す方が早かった。


「葵ちゃん!」


 彼女の叫び声は初めて聞いた。天谷さんは蚊の鳴くような声を精一杯に張り上げて、葵に続いたのだ。葵の席の前に立ち、唯一まっすぐに切り揃えられた前髪の下からおずおずと僕らを見ていたと少女とは思えない。肩甲骨まで伸びる髪が尾を引く様は飼い主の元へ駆ける忠犬の尻尾を彷彿とさせた。

 一瞬の静寂があった。


「マジか。アオト。マジなのか?」

 楓は振り返り、僕と菊池さんの間で目を右往左往させていた。


「マジだよ。そんな約束をした相手は一人しかいないし、それを知っている相手も一人しかいない」


「思い出していただけましたか?」

 菊池さんが僕らのあいだに割って入り、僕の顔を覗き込んだ。


「うん、悪かった」

 余所行きの笑みは揺るがない。

「でも、それならそうと早く言ってくれれば良かったのに」


 余所行きの笑みが陰る。

「ええ、大変傷つきましたので誠実に償ってください」


 きつく締め付けられたワイシャツの胸元にそっと手を置く様は心臓の音を確かめているようにも見えた。ともすれば唇と唇が触れてしまいそうな距離感に、思わず両手で肩を押した。


 ――ずきり、頭が痛む。


 どきりと胸が跳ねたのは気のせいだ。正体がわかってもなお苦手意識は健在らしい。辛うじて、微笑むことができた。

「約束は覚えていたし守っているからノーカンだよ」


 そういうと菊池さんは葵の席に前後逆で跨った。

「じゃあせめてご一緒しても? お昼ご飯、忘れてきてしまいましたので」


 隣の席の友人は教室で昼食を摂らないから――もし僕の席に人が集まるせいで他の場所にいっているのだとしたら申し訳ないが――椅子だけ拝借して、僕の席を三人で囲む。

「そのくらいなら、まあ」


 今から購買に行っても大したものは手に入らないだろうし、僕は彼女のことを忘れていたし、何より恐らく妥協してくれたのだ。誠実な対応として恋人になって欲しいだとか、夢を叶えてお嫁さんにして欲しいだとか言われたら断らざるを得ないが、そういうわけでもない。


 と、思っていたわけだが結局、胡蝶とのあいだに期待していた付き合いたてほやほやの彼氏彼女らしい初々しく甘ったるいイベントは菊池さんに取って代わられてしまった。


 *


 午後の授業の予鈴が鳴った頃、スマホが二度震えた。どちらも知り合いからのメッセージだった。


 一件は胡蝶から。

『申し訳ありません。放課後も部活の関係でご一緒できなそうです』

 僕はそれに、了承と気にしないで欲しい旨を返した。


 もう一件は、掟先輩からだった。

『放課後、生徒会室に来なさい。ずっと、ずっと待ってるから』

 僕はそれに了承の旨を返した。


 葵と天谷さんは戻ってこなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る