第25話 * vs一途&妄想・散

 誰かが手を握っている。


 冷たい。

 指の絡まる右手。


 温かい。

 包まれる左手。


「あ、起きました?」

 漆黒の夜空と新月が広がっていた。


「寝落ちしてたみたいにいうな」

「でも、同じようなものでしょう?」

 

 たしかに、今の僕には死に対するセーフティラインが三つある。〈愛の力〉で死を〈先送り〉に。次に〈堕天使の心臓〉で死から戻る。一途で誠実でカッコよくあるために死ぬわけにはいかない。


「昨日までの僕なら目覚めなかった」

「でも今の蒼斗センパイですし」


 口角が上がる。青白い唇の奥、うっすらと見える白い歯並び。僕以外は誰も変化の読めない、震える瞼。不敵な笑みは揺るがない。


 立てばほうき、座ればモップ、歩く姿は成長期(諸説あり)。カンナは仰向けに倒れる僕の上に跨り、右手に指を絡めていた。墨汁をぶちまけたような黒髪が天蓋となり、僕の世界にはカンナしかいない。


「じゃあ心配ないから離れてくれ。鼻息が当たってんだよ」

「キス、したっていったら怒りますか?」


 照れ隠しであって欲しいと切に願う。羞恥心を覚えてしまうことに胸が痛む。僕にはカンナにときめきを感じる資格はない。


 急加速的に流転する思考を落ち着けるべく、細く、長く、息を吐いた。

 カンナはすぅっと息を吸い、新月が瞼に隠れる。


 ちろり、舌先が覗く。

 眠りに落ちるように、幼い顔が迫る。

 

 両手が塞がれている。僕は冷たい左手に指を絡め、漆黒から抜け出した。カンナを遠くに押し込むようにして上体を起こした。左手ごと肩を押しても、繋いだ手は放してくれない。左側――目をそらした先に威嚇する犬のような目を見つけ、解いた右手のひらでカンナの頭を撫ぜる。


「……お、驚き過ぎて言葉も出んわ」


 カンナはぺたんと座り直し、不敵に笑う。


「さて、じゃあ続けましょうか」

 手のひらの下に浮かぶ不敵な笑みは、心なしかいつもより緩んでいるように見える。

「聞くまでもないと思いますケド」


 何かに包まれたままの左手側。この世の終わりのような顔をする天谷さんの向こう側。さっきまで僕が座っていた丸椅子で頭を抱える楓を呼ぶ。


「っ、ああ、大丈夫だ。今度こそぶっ殺してやるよ」


 にかっ、と楓は歯を見せて笑う。目の周りは赤い。カンナに負けて泣きそうになりながら強がるのはいつものことだ。でも、その涙の痕が僕の〈先送り〉によるものだしたら。


 僕は首を横に振る。

「いや、いいんだ。楓は少し休んでてくれ」

「休めってオマエ、まさか。やめろ、オマエが勝てる相手じゃ」

「そうだね。勝てないよ。僕も、楓も」


「ならどうすんだよ。オマエ」

 楓が立ち上がる。

 丸椅子が倒れる。

「死ぬんだろ? 負けを認めたら」

 楓がしゃがむ。

 襟首を掴まれる。

「そんなの、認められるわけねえだろうが!」


「僕だって嫌だ」

「だったら!」

「諦めないよ」


 左手。

 温もりを握り返す。

 

 光の消えた瞳にいう。

「ねえ、天谷さん」

 目はそらさない。

「僕は諦めたら死ぬ」

 瞳は僕の左手を見ていた。

「君は愛する人のために何ができる?」


 栗色の髪の下、たれ目の瞳孔が開く。

「あなたがそこまでクズとは思いませんでした」

 噛み締められていた唇から溶け出した声に寒気が走る。


「僕も君の立場なら、似たようなことをいったと思う。でも――」

 これが正しいとは思わない。

 でも、間違いじゃない。

「――君が僕の立場なら、同じ選択をしたはずだ」


 ぴくり、たれ目が動いた。


「もう一度いう」

 左手を胸に抱く。

「君はまた見ているだけなのか? 愛する人を悲しませるだけ悲しませて、何もできずに指を咥えて見ているだけか?」

 温もりを、葵を引き寄せる。

「僕ですら命を賭けた。君はクズにすらなれないのか?」


 安い挑発だ。死んでもどうせ生き返る。一言ごとに喉に魚の骨がつっかえたような思いをした分、僕のダメージの方が多かったかもしれない。


 でも、やるだけの価値はあった。


「わたし、やっぱり水無月くんのことが嫌いです」

 天谷さんは微笑んだ。

 無害そうな輪郭の奥に、強烈な殺意が覗いている。

「わたしに振り向かせたら、あなたを殺しますから」


 天谷さんは大股で僕のそばに近寄り背後に立った。底冷えのする声がする。

「許さない」

 声は遠いのに、間近で冷気を吹きかけられているような気がする。

「何度も彼女を泣かせたあなたを。一度でも彼女に愛されたあなたを」

 小さな声。

 僕だけに向けられた殺意。

「絶対に許さない」


「いいよ、それで」

 左手を離す。

「でも一つだけ約束してほしい」

 温もりが失せる。

「僕のことは信じなくていい。君は君の、大切な人を信じてくれ」

 袖を引かれる。


 天谷さんは何も答えず筐体に座った。モニターが閃き、彼女は消失する。画面上、真っ暗な世界で体育座りをする姿は、この世界で見慣れた姿と相違ない。


 筐体に寄りかかっていたガーベラがため息を吐いた。

「ダメね。アナタの愛、理解できないわ」 


 ガーベラは背筋を伸ばし、両手を胸の前で組んだ。

「一途で誠実にカッコよくありたい? そうなることを彼女が望んだの? それとも嫌われるのが怖いのかしら?」

 ガラスのテーブルに肘をつき、両手のひらに顎を埋めた。

「相手が望むものを与える。相手が望まないのであれば与えない。それが愛。望んでいないものをあたかも望まれていると勘違いして行動するなんて、一人でするのと同じじゃない?」


 理解されたいわけじゃない。

 でも、そんな風にいわれて黙っていられるほど大人でもない。 


「言い方は気に食わないけど、その通りだよ」


 ふっ、と息を吐く。馬鹿にしたわけじゃない。沸々と湧き上がるものを鎮めるための溜めの数秒。

「相手が愛してくれるかわからないから、愛されるため変わろうとするんだ」


 胡蝶がいっていた。

 葵はわかろうとした。

 カンナは多くを望まない。

 楓が成そうとした。

 掟先輩は歪んでしまった。


「重いわね。相手に自分と同じだけの愛を求めるなんて」

「いいんだよ、重くて。愛は重くて然るべきだ」


 ふっ、とガーベラが息を吐く。

 間はなかった。


「危うい関係だと思わない? 片想いを相手に押し付けるくらいなら、両想いの空想にでも浸っている方が健全じゃない」


 エメラルドの瞳がカンナを流し目で見る。カンナの頭に僕の右手が乗り、右手にカンナの両手が乗っている。ガーベラからすれば僕が押し付けて、カンナがそれを振り払おうと抵抗しているようにも見えるだろう。


 カラスのような髪を梳きつつ、僕はいう。

「信仰と愛は違う」


 信仰は自分を救う行為だ。自分を救うために、誰かのために自分を犠牲にし続ける歪な愛だ。相手のことだけ考えて自分を抑えることが、正しいとは思えない。


 胡蝶は台所に立つ僕を見て、自分の愛が足りなかったのではないかと不安に思い、泣いたのだ。胡蝶が僕を生きる理由にするのなら、僕も胡蝶を生きる理由にするくらいでなければ釣り合わない。


 だとしたら――

「一方的に相手を思うのは恋で、互いに想い合うのが愛。その変化の過程を恋愛と呼ぶんだ。僕と貴女の愛の形に大きな差はない」


 ――どこまでが恋で、どこからが愛か。

 その程度の違い。


 どちらも正しくない。

 どちらも間違っていない。

 

 ガーベラが腰をくねらせる。

「アタシの愛を否定しておきながら自己愛を愛するなんて。ずいぶんと愛に明るいのね。十三番目の天使はアナタで決まり――」

 

 エメラルド色の瞳をした天使は顎をさすり、ちょっと熱くなりすぎちゃったかしらと呟いた。


「――やっぱり苦手だわ。アノ子を狂わせたアナタも、神殺しなんて企てたアノ子も」


 ふと、思う。

 アスターは天谷さんと同じようにみんなと僕の因果を――過去を失くせば、僕と愛し合うことも難しくなかっただろう。そうしなかったのは僕と愛し合う以上に、僕が誠実であることを望んだからだ。そのためには、アスターが僕の元に来て、僕は生き続ける必要があった。


「僕らはきっと、愛を知らない神を殺すためにこの三日間を三度繰り返したんだ」


 ガーベラは顎をさすりながらいう。

「……アノ子が、そういったの?」

「ああ、そうだ」


 記憶に関する操作が上手くいかないから、代わりに思考を操作し、僕は今日に辿り着いたのだ。


 ガーベラが両手で顔の下半分を隠した。かと思えば両手で顔の上半分を隠した。引きつるほどに口角が上がり、綺麗な歯並びが覗く。

「傑作ね。不安だなんだというくせに、アノ子のいうことは信じているだなんて」

 指が開き、エメラルド色の瞳が顔を出す。不気味な放物線。

「アナタ、騙されてるわよ」


 手が腰に向かう。

 表情が消える。


 くねくねとカンナに近づく。

 巨大な手は蛇のように細い肩を覆い隠し、親指は牙のように首にかかる。


「さ、カンナ。楽しいことシましょ」


 細い首は親指に力を加えるだけで簡単に折れてしまいそうで、いいようのない不安に襲われる。


「ぇ……へ……? ぁあ……当然ですし」


 びくり、カンナが震え、頭に押し付けていた手を振り払う。僕を見上げる新月は相変わらず、不敵に笑っていた。

 くすり、ガーベラも笑い、モニターの放つ光に飲まれた。


 カンナは僕に背を向けて、立ったままの丸椅子に飛び乗った。僕も後を追い、倒れた丸椅子を起こす。左手の重さを置いていかないように、それでいて身体運びが不自然に見えないように。


 サイレンの音が聞こえる。

 野次馬の声が聞こえる。

 次のステージは公園だった。

 近くで交通事故があったらしい。


 突如、カンナが口を押えた。

「っ」

 ゲホゲホと嗚咽を繰り返す。


「カンナ?」

 丸まった背に手を伸ばすと、カンナは汚れた手のひらをかざして静止した。

 いえ、大丈夫です。と、新月をにじませながら。


 ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返し、カンナはいう。

「それじゃ、第二ラウンド開始ってことで」


 画面に数値が表示される。


 体力の120。

 制限時間の60と30。

 

 向き合う二人。

 光の加減で銀と灰に見える翼の大男――の姿をした天使、ガーベラ。対するは、ごめんなさいが口癖の弱気な少女ではなく、神や天使に匹敵する力を持つ少女――天谷さん。その背中にも今、翼が現出する。


 ……翼なのだろうか。

 背中から一対に生える様は翼めいているが、形は歪。作りかけのジグソーパズルのようにも見えるし、はためくマントのようにも見える。端に向けて赤い雷光が走る、破り取られた闇夜の曇天。天使や鳥の羽というより、力の奔流。


 あるいは、赤黒い血。

 満開の嫉妬が咲いていた。

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