五章 * fast love【持つ者と持たざる者】
第21話 * 「永遠の旅」
倉石カンナと出会ったのは、高校進学から一月経ったゴールデンウィーク明けの放課後、久しぶりに一人でゲーセンに来ていたときのことだ。ある格闘ゲームのアーケードモードを遊んでいると店内対戦の申し込みがあった。
七割を超える勝率に裏打ちされた自信を持って意気揚々と挑戦を受けるも、二点先取制の勝負は僕の敗北に終わり、僕が挑戦者になってからも何度やっても勝てなかった。
いよいよ財布の中身が尽きようというとき、相手の顔を一目見て帰ろうか迷っていると相手が先に声をかけて来た。
「楽しかったです。対戦ありがとうございました」
ガチ勢が煽りに来た、とは思わなかった。まず対戦相手が女の子だったことに驚き、次に背丈と顔は葵……小学生と見紛うほど小さいのにパーカーの胸部分に描かれたキャラクターが今にも横に張り裂けそうになっていることに驚いた。胸に目を取られていたことに気付いて顔を見ると、ストレスは心地よい疲労感に変わってしまった。
これは勝てなくても仕方ないと思った。青白い肌、濃い隈と色素の薄い唇、右目の眼帯、黒すぎる左目。膝まで伸びっぱなしでぼさぼさの黒髪、スウェットとパーカーに裸足でクロックス、ちなみに色は全て黒。おかげで顔の造形の良さと不敵な笑みを際立たせている。この時の僕には彼女が人知を超えた何かに見えた。
モノクロの少女が――手首には血の滲む包帯が雑に巻かれていた――手を差し出しているのに気がついて、僕も得意の笑顔を貼り付けて手を握る。手は汗でべったべただった。
「こちらこそ。それにしても強かった。ログインすれば良かったのに」
「アカウントはないです。初めてでしたし」
「……このゲームは初めてだったってことだよな?」
「いえ、私は今日、格ゲー処女を卒業しましたが」
「……天才か?」
カンナが身体を曲げて僕の顔を覗き込み、目をそらすのを許さない。
「悔しくないんですか? 初心者にボコられて」
「……僕も似たようなものだし」
「対戦数三桁越え」
「……」
「二段階降級」
「実はやったことあるだろそうなんだろ!?」
思わず手を離し、腕を組むふりで手を拭いた。小さな手は名残惜しそうに虚空を掴んだ後、パーカーのポケットに隠れた。
「ついさっきまで処女でしたし。で、貴方の年齢と職業は?」
「……十五歳、学生です」
「私は十四歳、ひきこもりです。名前は鎌倉幕府の倉と
「水無月蒼斗。
「では改めまして水無月さん。年下にわからせられたままで、カッコ悪いと思いませんか?」
――カッコ悪いと言われて僕が耐えられるはずがない。
「いいだろう、やってやる。僕はどうすればお前をわからせられる?」
「うち、この近所なんです。よかったらどうですか?」
「……逆ナン?」
「水無月さんは楽しくなかったんですか? 私は楽しかったですけど」
「僕だって楽しかったさ。認めるよ。こんなに楽しかったのは初めてだ」
「ならいいじゃないですか。どうせ私しかいないですし」
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
カンナは地元で一番大きな建物の最上階に住んでいた。外の景色でも見ていてください、という言葉に従って近づいた窓からは地上の星が一望できた。
しかし、窓ガラスに映る部屋の中は酷い有様だった。フローリングにゴミの山、ソファに洗濯物の山と毛布、フロアデスクに食べかけのカップラーメン。あちこちに転がるくしゃくしゃのティッシュ。
華やかな街明かりは遠く、薄汚れた虚像は背に迫る。
「これでも週一でハウスキーパーさんに来てもらってるんですけどねー」
「天才的だな」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
思わず溜め息が零れ、背筋が震えた。効きすぎた冷房が原因ではない。雑に巻き付けられた包帯だらけの
「……これが、君をわからせる方法か?」
「ええ、私を一人の女だとわからせてください」
正直なところ、期待していなかったといえば嘘になる。健康的な男子の劣情を煽るスタイルで、
勘違いかもしれないと思っていたことが勘違いではないとわかった。彼女をわからせるということを想像する。色素の薄い唇を、形のいい頭を、豊かな胸と尻を、何もかもを僕の自由にできる。けれど、いつの間にか脳裏に浮かぶ女の子が変わっていて、僕は包み込む両手に指を絡ませた。
「人を
「いません。私は四歳のときから独りです」
誕生日をふまえると誤差はありそうだが、カンナが嘘を吐いていたり計算が間違っていなければ――
「……十年?」
「ええ、交通事故で」
「でも、親戚とか……」
「たしかに、はじめのうちはそういう人もいました」
「じゃあ、義務教育も終えてない、右目が不自由な子が、ひとりで……?」
カンナは自嘲気味に笑った。
「もう、この右目にも慣れました」
窓ガラスに映るカンナが、僕の肩に顎を乗せた。自ら外した眼帯の下には不敵に歪む真っ白な瞳があった。
「気持ち悪いでしょう? 右目だけ真っ白なんです」
「僕は好きだよ。満月みたいで」
「嘘です。水無月さんも私を気持ち悪いって言う癖に」
「そんなこと思ってない」
「身体目当ての癖に」
「それは否定できない」
「じゃあ、私をめちゃくちゃにしてください」
左耳に熱い吐息がかかり、ぬるりとする。カンナは僕の耳を食み、穴の奥に舌を入れていた。僕は思わず突き放すように振り返り、しかし辛うじて手を掴んだままでいられた。彼女は下着以外に何も身に着けていなかった。
「それはできない」
「なぜです? 身体は正直みたいですけど?」
「……僕みたいな、会って間もない男が君を犯せば、天国の両親も、君の友達だって悲しむだろう?」
「私、友達なんかいませんし」
「いるだろ、大切だと思える人の一人や二人」
「いませんし。私、中学に入ってから丸々二年、一度も学校行ってませんし」
「なら、小学校以来の幼馴染だとか」
「いないですし。私、リア友なんか一人もいたことないですし」
――彼女は九年間、一人で生きてきたという。近くに誰かがいるのが当たり前だった僕にとって、それは天地がひっくり返るような衝撃だった。
世の中には、精神的に強いからこそ痛みを耐え過ぎて壊れてしまう、強かで儚い人がいる。彼女はまさに、そういう人だった。すると、手首の傷も盲目の瞳も、どこか愛しいもののように思えた。
「信じて貰えないかもしれないけど、僕は本当に君を綺麗だと思った。それこそ、犯してしまいたくなるほどに。でも、君が逢って間もない男に犯されたりなんかしたら、僕は悲しい」
「嘘です。私にはパパとママの遺産があるから、私に都合のいいことをいっているだけです」
「なら、一つだけたしかなことがある」
僕は彼女をソファに押し倒した。肩も腕も、見た目よりもずっとか細い。強がりな笑みに、やはり敵わないと思った。
「思い出せ。僕らは時間が経つのも忘れてゲームをした、あの瞬間だけは嘘じゃない。あの楽しさだけは本物だった。だから僕を――僕を、一人目の友達にして欲しい」
「……童貞以下のナンパですね」
「……僕もそう思う」
このあと滅茶苦茶ゲームした。
僕は既に、問題を後回しにしていたのだ。でも、あの
*
八月十九日。
彼女の誕生日を知った日が彼女の誕生日だった。彼女の誕生日は彼女の両親と弟の命日だった。まるで何でもないことのようにそれを明かされて、僕にできたのは何が欲しいか聞くくらいだった。
逡巡する間もなく指差したのは好きなゲームのストラップが景品のクレーンゲームだった。
「……これでいいのか?」
「私が一プレイで二個取れたら、二つお願いを聞いてください」
それから。
カンナはあっさり条件をクリアしてみせた。
「じゃあ、学校に行った日は、いい子いい子ってしてください。それから……今日は一日、私とゲームをしてください。あとこれも差し上げますので大切にしてください」
「……これは?」
「うちの合鍵です。お揃いのキーホルダー付き」
「受け取れるか」
「私の出席日数、知ってますか?」
「ありがたく使わせていただきます」
ふふん、と胸を張られても嫌味に感じないのはカンナの胸のサイズの問題ではなく、僕の器のサイズの大きさゆえだと思いたい。出席日数がどうとか言っていたが、彼女は僕と遊び回っていながら、あっさり僕のいる
*
そうして
ぼさぼさの髪は墨のような艶を取り戻し、耳の斜め後ろで二つの尾を描いていた。部屋は小綺麗になって、包帯の面積も減っている。
ひざを抱えて座るカンナを
「蒼斗センパイ。覚えてますか? 私と出会った日のこと」
「ああ……友達いないのによく話しかけられたよな。僕だって迷ってたのに」
「一目惚れ、でしたし」
「だから、ゲーム以外で人を揶揄うなって」
「勇気を出して、話しかけたんですよ? あんな出会い方でしたけど、私の処女は、処女のままです」
「お前、何を」
「まだ、私は友達以上になれませんか?」
ようやく目が合う。痛々しい満月と吸い込むような新月が、消えない隈の上で
「私もう、センパイがいないとダメなんです。蒼斗センパイ以外は全部、嘘なんです」
―― だから、私と付き合ってください。
それが二度目の告白だった。胡蝶の告白を先送りにしていた僕は例に漏れず、カンナの告白も先送りにした。
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