第20話 * サファイアの大禍刻

 あの人の曖昧な笑みがアスターと重なる。だまりの自称天使と黄昏時の自称堕天使が一つになる。ふっと現れてふっと消えたあの人は、これから死にゆく人なんかではなく、すでに死んでいる人だったのだと思っていた。

 僕は昨日、一夏の不思議な思い出と再会していたのだ。


「蒼斗様は約束しました。誠実に一人を愛せるようなカッコいい人間になると。そして、あなたがその約束を違えたとき、わたくしが導くことを望んだのです」


 逆光の中、アスターが僕に背を向けたままで僕との過去を語り、僕にも当時の記憶が鮮明に蘇った。だって、目の前の堕天使があの人であるなど、少しも思いやしなかった。

 たしかに昨日、僕を迎えたアスターは「蒼斗様と一緒になるべく」だとかいっていた。いつどこで出会ったかも、初めましても聞いていない。肩甲骨の辺りから翼の生えた背中は寂しげで、こんな状況じゃなければ心配の一つでもしたかもしれない。


「まったく、それにしても蒼斗様からわたくしの記憶を奪うなんて、神の野郎、やはり一度ぶっころしておくべきかもしれませんね」


 けれど、だからこそまだ交渉の余地があると思った。


「……僕は誰にも誠実であろうとした。でも誰かに誠実であることは誰かに不誠実であることだった。誰かを傷つけることを恐れて、誰かを傷つけたことで僕自身が傷つくのを恐れて誰も選べなかった」


 僕が裏切った彼女たちに、僕が殺してしまったような三人に、僕はまだ償うことができるかもしれない。取り返しがつくかもしれない。アスターはそれだけの力を持っていると、この永遠にも思える黄昏時が物語っている。


「でも、それでも、約束は不誠実な僕を誠実に導くことだ。これは君と僕の問題で、みんなが殺し合わなきゃいけない理由にはならない。こんな殺し合いに意味はない!」


 しかし、笑顔は揺らがない。

 いっそ無表情にでもなってくれたら怖がるだけで済んだだろう。むしろ怒ってくれれば僕も張り合うことができただろう。アスターの笑顔が変質していく。天使から堕天使へと変わるように、寂しげな微笑みが蕩けるような笑みへと昇華する。 


「いいえ、意味はあります。蒼斗様は自分に向けられていた一途な愛の重さを知り真なる誠実さを学ぶことができます。だからまだ足りません。まだ殺し合って頂きます。蒼斗様が一途で誠実でカッコよく在り続けるために彼女たちは殺し合うのです。私も蒼斗様も間違っていないと証明するために殺し合って頂くのです。蒼斗様のために、最後まで殺し合って頂かなくては!」


 死生観の差。価値観の相違。性差。人間と天使との考え方の違い。それさえも仕方ないと溜め息を吐いて笑って見過ごせれば良かった。そうすれば、きっと僕はアスターにすべて委ねて僕が誰かを傷つけることも自分が傷つくこともなく、表面的には誠実でカッコ良さげに終わらせることができた。


 ――そんなの、全部お前のエゴじゃないか。

 そんな言葉が喉まで出かかって、嗚咽に取って代わる。

 僕じゃないか、誰よりもエゴで動いていたのは。


「は、ははっ」


 乾いた笑いが出た。何が正しくて何が間違っていたのか分からなくなる。生き方が間違えていたのか、それとも昨日の選択が間違えていたのか。どうすれば一途で誠実でカッコよく、五人に答えられた?

 そうして、やっとの事で口から零れたのは誰にも言えずにいた一言。


「狂ってる」


 自分の声とは思えないほど憎悪に満ちて、うつろだった。


「おっしゃる通りです!」


 依然としてアスターの表情は明るい。


「この世界に正常など御座いません。異常こそが正常で、患っているからこそ恋で、病んでいるからこそ愛なのです。勝者の下には無数の敗者が倒れているように、幸せの背景には不幸があるように、成功は失敗の上に成り立つように、貴方が誠実であろうとして不誠実を成したように――あるいは、あんな風に」


 *


 視界が切り替わる。そこは階段と踊り場……の、はずだった。映し出されたのはだった。しかし、屋上手前の階段と踊り場に教室など存在しない。不存在の教室の窓際に二人分の影を見る。

 黒髪ツインテールは彼女の聡明さをぼかし、医療用の眼帯は痛々しく美しい右目を隠し、背丈の割に起伏の激しい身体は彼女の幼さを偽っていた。対面する後ろ姿に激しいデジャブを覚える。なんせ、カンナと対面しているのは僕だった。自分の後ろ姿をこうして見る機会などなかなかない。

 しかし、それは。だって僕は未だ、こうして他人事ひとごとのように戦いの行く末を見ている。見届けることだけが今の僕に許されたことで、聞き届けることだけが今の僕の責任だった。

 夕日と純白のカーテンが揺れる放課後の教室で、窓を背にしてカンナが微笑む。不敵な笑みに吐息がえへへと付随したとき、対面している僕にカンナの両手が迫る。ずれたブレザーから除いた手首の傷は包帯で隠されていた。二人の距離がゼロになる。伸ばされた両手は背中に回されて、カンナは僕ではない僕をぎゅっと抱きしめた。


「私と付き合ってくれるって……ほんとですか? 嬉しい、嬉しいなあ……まさかセンパイと両想いだったなんて……これからもよろしくお願いします、蒼斗センパイっ」


 どうやらカンナの頭の中では、僕とカンナは両思いになっているらしい。

 それから僕ではない僕の左耳を食むように囁いた。


「あはっ、ダメですよ。センパイは一生、私の傍を離れちゃダメなんです。でも安心してください。世界中の誰もがセンパイを見放しても、私だけはずっとずうっと傍にいますから、ね?」


 耳をくすぐる吐息が熱いのに、背は凍りつくようだった……いや、そんなはずはない。だってアスターが僕に付与したのは〈千里眼〉と〈地獄耳〉だったはずだ。背が凍ることこそあれど、熱い吐息なんてありえない。カンナがなめくじのように絡みついているのに吐息がくすりと笑って、熱はアスターによるものであると知る。


「嫉妬しますか? 自分の偽物に」

「……少しね」

「お望みであればわたくしが代わりに」


 太腿を覆う濡れた感触に身体を退こうと試みるが、僕の足は椅子の足に括り付けられてしまっているから動きようもない。


「それより、あれは何なんだ。カンナの能力か?」

「ええ、彼女の〈愛の力〉は〈愛する人は、記憶の中ではもっと愛おしい〉。自らのです」

「それは、たしかに――」


 ――カンナらしい能力だ。常に頭のキャパを持て余している彼女に相応しい。

 彼女にとって現実はあまりに生き辛く、ゆえに彼女は天才だった。

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