第8話 * 妖しく笑う先輩・碇谷掟

 駅を出て十分余り歩くと三階建ての校舎が見える。数年前に建て替えたばかりの学び舎まだ屋上が解放されていて、僕らは時折、そこで昼食を摂ることもあった。昨日の放課後も僕は屋上にいた。屋上の出入り口前の小さな屋根の下で、僕は――、


 ――僕は、現実の彼女から目をそらすべく、昨日の屋上に目をやっていたのかもしれない。ウィスパーボイス、というのだったか。吐息のように響いて心を揺さぶる声がした。

「あら、水無月君じゃない。おはよう」


「おはようございます、おきて先輩」


 生徒の模範となるべき笑顔が妖しく歪む。亜麻色のボブカットを揺らすその人を無視できない。恐らくこの学校に通う者なら生徒だろうと教師だろうと彼女を無下になんてできないだろう。表面上は僕らを平等に扱う彼女は一緒に校門をくぐった四人にも声をかける。


「おはよう。一年三組出席番号六番、倉石カンナさん。今日はちゃんと登校してきたのね。偉いわ。水無月君離れ出来る日もそう遠くないわね」


「別に、私の勝手ですし」

 カンナは僕の後ろに隠れ、ワイシャツの背をぎゅっと掴んだ。


「おはよう。二年一組出席番号三十番、緋鉈葵さん。今月の新刊、もう入ってるかしら?」


「……おはようございます」

 葵は俯いたままで答える。

「今日、入ります」


「そう、嬉しいわ。お昼休みに借りに行くわね」

 模範的な笑顔に圧倒されて、浮かんだ笑窪は苦しげだった。カンナの表情筋がプラスチックだとしたら、葵の表情筋は錆びた鉄だ。


「おはよう。二年二組出席番号二十二番、冬馬胡蝶さん。そろそろ生徒会に入ってくれる気にはなった?」


 表面上、模範的な笑顔と模範的な会釈が拮抗する。恐らく、僕の知り得る中で掟先輩に真っ向から対抗できるのは彼女だけだ。

「おはようございます。生徒会長。他にどうしてもやりたいことがあるので、ご遠慮させていただきます」


「そう、残念」

 一言で済ませて颯爽と次に向き直るのは決して諦めが良いという訳ではない。本当は胡蝶を生徒会に迎え入れる気がないからだと、きっと僕だけが知っていた。


「おはよう。二年一組出席番号二五番、七海楓さん。びっくりしたわ。イメチェン? もしかして水無月君のためかしら?」


 つま先からつむじまで舐めるような視線を受け、楓は居心地悪そうに後頭部をかいて照れ隠しをしていた。

「はよざっす! まーそんなトコっす!」


「へえ、モテモテじゃない。二年一組三十六番、水無月蒼斗君」

 挨拶を済ませたことで安心して靴を脱いでいたところを呼び止められてしまった。辛うじて微笑むことができた。模範的な笑顔に対して、僕には渇いた笑いを返すのがやっとだった。僕の表情筋にも油が必要かもしれない。

「今日の放課後、必ず屋上に来るのよ。絶対、絶対、ぜぇったいよ? いいわね?」


 碇谷掟いかりやおきて、先輩。

 昨日、僕に告白してくれた少女の一人。


 昨日の返事を催促されて、謝って、先延ばし。五人目にして僕の予想は外れた。掟先輩は次々に来る生徒に目もくれず、言葉だけは挨拶を交わしてじっと僕の答えを待っていた。

「……了解です」


 笑ったままの掟先輩の目が左右にぶれた。僕と一緒に立ち止まった少女たちが、そこにはいた。掟先輩はくすりと笑い「そう。楽しみにしているわね」と、模範的な笑顔を次に登校してきた生徒に向けた。

「おはよう、二年一組一番、天谷あまがいカガリさん。二回女子トイレのゴム手袋、昨日の内に補充しておいてって言ったわよね?」


「……ごめんなさい。今日、変えます。ごめんなさい」

 明るい色の長髪を波打たせる少女、天谷さんは俯いたまま、こくりと頷いた。立ち止まることもなく、耳を赤く染めて。極度の人見知りなのだろう。授業中を除いて初めて聞いた彼女の声は鈴虫が鳴くようだった。


 最後に僕を一瞥いちべつした掟先輩はやはり挑発するように、妖しく笑っていたような気がする。嫌な予感がした。足元に置かれた黒いエナメルバッグが昨日の告白を彷彿させる。


 人気のない屋上。

 一つだけ放置された学習椅子。

 鉄扉に被さる小さな屋根の下、僕は掟先輩に告白された。


 亜麻色のボブカットは毛先が外に跳ねて怒髪天に。眼鏡は不自然に輝いて獲物の足を縫い留める獣の瞳に。その奥の赤茶色の瞳と、僕と鏡写しのような左目の下の黒子。彼女を構成する全てに強い威圧感を覚え、そこから抜け出すだけで僕は強い疲労感を覚えた。


 あのときの妖しく陰る掟先輩の向こう側には今と同じように曖昧な空があった。閃く遠雷、半開きのエナメルバッグ。僕の見間違いでなければ、あれは革製のベルトに鎖、ロープに手錠? 陸上部でも生徒会でも使うべくもない品々が詰め込まれていたように見えた。

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