第34話 きれい寝取べにいろあじさいあめふラレ

 雨が降っていた。黄昏時の霧雨が夕陽を透かし、紫陽花あじさいの色を曖昧にしている。七色のそれは黄金色とも、瑠璃色とも、紅色ともつかない。


 神は契約を終えると、幾つもの緑色の光の粒子となって空気に溶けた。粒は入り口の鉄扉に向かい、粒子の消失と共に鉄扉も薄っすらと緑色に輝きはじめた。湿った空気に誘われて僕も鉄扉に歩き出す。一刻も早く胡蝶の安否をたしかめたかった。スマホの充電は切れていた。


「冬馬胡蝶はすでに解放している――未来で会おう」

 神は別れ際、そういって消えた。


「ぁ……」

 怯えるような声に振り向くと、葵がバスケットゴールから抜け出して、一階に降りて来ていた。切れ長の眼の中を、赤みの強い瞳が溜まった涙の中を忙しなく泳いでいる。視線を追うに、僕に駆け寄りたいが天谷さんのことも放っておけないという感じだろう。


 全員、無事だった。楓も、カンナも、天谷さんも、死んでいない。全員、傷ついたはずの場所に包帯が巻き付けられていた。体育館の隅で力尽きている掟先輩を見るに、彼女が全員の傷を手当してくれたのだろう。包帯は左手首にしか残っておらず、それすらもなんだか消耗して見えた。


 ふらふらとこちらに向かってくる葵に、僕はこういった。

「本当に申し訳ないんだけど、ひとつだけ頼まれてくれないかな。葵にしか頼めないことなんだ」


 神の作り出した不存在の校舎が、いつまでその形を保っていられるかわからない。恐らく大きな問題はないとは思うが、念のために全員のあとのことをお願いしたのだ。すると、葵は快く引き受けてくれた。


「もう、仕方ないわね……蒼斗はあたしがいなくちゃダメなんだから♡」


 恥ずかしそうに添えた手のひらの向こう側で、心なしか口角が上がっていた。少なくとも目が輝いていたのだけはたしかだ。ぼろぼろと溢れる涙は滝のようだった。僕も思わず微笑んで、ありがとうと体育館をあとにした。


 体育館を出た途端、世界は喧騒を取り戻した。ホイッスルの音に振り返ると、鉄扉の向こう側では運動部が元気に走り回っていた。似て非なる場所で血が流れていたなんて誰も思いやしないだろう。天井の照明で汗が迸っていた。ステージ脇の時計を見ると、思ったより時間は経っていなかった。まっすぐに帰れば日が暮れる前には家に着くだろう。


 胡蝶が待ってる。

 逸る足を、頭に響かない程度に急いで前に出す。


 ……胡蝶はどうしているだろう。

 荷物を取って帰路に就きながら、彼女を思う。二人称の彼女ではない。誰にも異論は言わせない。正真正銘の彼女のことを想う。


 今日の夕飯はなんだろう。たまには一緒に台所に立ってみるのもいいかもしれない。胡蝶は嫌がるかもしれないが、このくらいには慣れてもらわなければ困る。胡蝶がいなければなにもできないと思われて、いずれ愛想を尽かされてしまうかもしれない。それが嫌だといえば許してくれるだろうか。

 

 お詫びと労りの気持ちを込めて、僕が台所に立って胡蝶には待っていて貰うのもいいかもしれない。これこそ泣き出してしまうかもしれないが、きっと気持ちはわかってくれるだろう。


 そして、たくさん話をしよう。時間が来るまで、婚約者らしく、恋人らしく、誰かに先を越されないように。急がず焦らず、一歩ずつ前に進んでいこう。


 昨日みたいに、アスターのように、僕を迎えてくれるかもしれない。おかえりさない、ご飯にしますか。お風呂にしますか。それとも――


 ――そうしたら、僕も戯れてみてもいいかもしれない。ご飯でもお風呂でもなく君がほしい。たまには、そういうのもいいだろう。嫌われることを恐れるばかりじゃ、好きより先に進めない。


 赤信号が夕陽に紛れていた。歩行者信号の向かい側に立つ人影を見て、思わず胸が高鳴る。


 夕陽を受けて輝く、雪白のセミロング。霧雨に濡れて頬に張り付き、陰の中で虹色にすら見える。


 ……ああ、だめだ。

 にやけるのを止められない

 でも、それでも別に構わない。


 彼女も僕を見つけて、ぱあっと花開くような笑みを浮かべてくれたから。

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