四章 * 天使殺し・蕾
第20話 * 幼馴染ラプソディ
誰かが僕を呼んでいる。
清澄な音色は聞こえない。フルートよりは風鈴。遠く、そよ風に鳴る風鈴。いつからか、風鈴は何者かの手によってかき鳴らされた。
目の前に、涙を流す少女がいた。
元より赤みの強い瞳がいっそう赤く輝いていた。ぽろぽろと涙を零しているが、輝きの理由は涙ではない。異能〈愛の力〉、ストーキングに躊躇いのない幼馴染の〈追跡〉が僕を見ている。
既視感を覚える。
昔もこんなことがあった。
あのときはぼこぼこにやられて、ただカッコつけただけのカッコのつかないやつだった。けれど、今度は倒れていない。膝枕なんてされていない。ちょっと膝をついていただけだ。壁に背中を預けていただけだ。肩を揺すられていただけだ。
「ごめんね……蒼斗……あたし……」
あれから七年近く経っているのに葵の泣き虫は相変わらずだった。
「大丈夫、ちょっとぼうっとしてただけだ。それより僕は――」
けれど、何も変わっていないわけでもなかった。
僕が言葉遣いの好みを語るより先に、葵がこういった。
「ありがとう」
砂糖を焦がしたような匂いがした。
冷たい。狭い額が、僕の額に触れていた。八重歯に弾む下唇が涙に濡れて煌めいている。僕が胡蝶を思っているあいだぶつかっていたはずの視線は今や一向にぶつからない。
「こんなになってまで、あたしのことを助けてくれて」
赤い瞳は額を合わせたとき、僕の額を見ていた。こんなになってまで、といったときは僕の腹部を見ていた。
「見えて、るのか?」
小さな手が慈しむように不存在の傷痕を撫でた。癖一つない黒髪が涙で頬に張り付いている。
別に、お前を助けたかったわけじゃない、とはいえなかった。
ふふっ、と吐息がこそばゆい。
「別に? どうせアンタは冬馬を助けるために無茶してるんでしょ?」
葵なりに心配かけまいとしているのだ。
「敵わないな、葵には」
「当然でしょ」
硝子のような透明感と芯のある声。
「あたしはアンタの幼馴染なんだから」
葵の口角が少し、上がっていた。
「んんっ」
咳払いに背を伸ばす。
自然、僕らは離れることになる。
振り返ると、僕と同じ壁に楓が背を預けていた。咳払いをしておきながら続く言葉はなく、明後日の方を見て頬を掻いていた。代わりに、知っている声が知らない調子で答えた。
「そろそろ葵ちゃんから離れてもらってもいいですか? 水無月くん」
天谷さんは葵の後ろに立っていた。
「いや、離れるも何も」
葵から勝手にやってきたことだ、というのは不誠実な気がしていえなかった。
「葵ちゃんも。自分をふった男なんかにそういうことするの、どうかと思う」
半開きのたれ目が呆れたように葵を見下ろしていた。
「べっ、べべ、別に、幼馴染ならこのくらい普通でしょ?」
唇を吹こうと口を窄めているが、空気の通る間の抜けた音が聞こえるばかりだ。
「それで、水無月くんは動けるんですか?」
「ちょっと、カガリ」
「葵ちゃんは黙ってて」
静かなのに圧のある、唸るような声。葵は、はい、と俯いてしまった。
「水無月くん、七海さん。葵ちゃんを助けてくださって、ありがとうございました。お二人がいなかったらわたしたちはあの変態の玩具にされていたかもしれません。そこに関しては感謝してもし足りません」
天谷さんは立ったまま、僕の目の前に立った。
「ですがそもそも、こうなった原因は水無月くんにあるんじゃないですか?」
「アマガイ、オマエ、助けてもらっといてその言い方はねえんじゃねえか?」
楓が僕の隣に立っていた。
睨み合う二人から目をそらす。
泣きそうになっている葵と目が合ってしまう。
葵はなぜ、そんな目をしているのか。僕の感じる痛みが見えているからだとしたら少し嬉しい。それ以上に、そんな顔をさせてしまっているのが悔しい。情けない。
「いいんだ、楓。天谷さんは間違ってない」
楓の肩を掴む。
「けどよぉ」
楓は身を屈め、肩を貸してくれた。
「わかってる。楓だって間違ってない」
立ち上がり、天谷さんを見据える。
僕と天谷さんはただのクラスメイト。葵のほかに幼馴染なんていないし、天谷さんの家庭事情も、校舎裏の告白も知らない。だからといって知らないふりなんかできない。
何せ僕は、記憶を失くして繰り返していた。
三度の繰り返しでようやく神の策略を抜け出し、一途で誠実でカッコいい選択を成した。
はずだった。
「間違っていたのは、僕の方だったんだ」
*
こうなった原因について話した。
できるだけ他人事のように、原因が僕にあることは強調して。罪から逃れたいわけでも、同情してもらいたいわけでもなかった。
「ヴェロニカは楓と同じ能力を持っていた。ほかの天使も同じように誰かの能力を持っているとすれば――最悪なのは胡蝶の〈コピー能力〉と、カンナの〈想像を具現化する能力〉。正直、この二つと真っ向から戦って勝てるとは思えない」
はっ、と楓が笑い飛ばした。
「勝てるかどうかなんて考えるだけ無駄だろ。どっちにしても戦わなくちゃならねえんだ。勝つためにどうするかだけ考えてりゃいいんだよ」
肯く。
理想論も根性論も嫌いじゃない。間違ったことはいってない。けど、今の僕に必要なのは〈最大級の障害でも退ける手札〉だった。
天谷さんは僕を見てくれない。
「都合のいいことをいってるのはわかってる。けど、この状況から抜け出すには僕が死ぬか、僕が勝つしか手段がない。僕はまだ死ぬわけにはいかない」
できる限り背を伸ばし、手のひらを差し出した。
「力を貸してくれないか?」
答えたのは葵だった。
「バカじゃないの? そんなの考えるまでもないじゃない」
天谷さんが顔を上げる。
「でも、葵ちゃんが戦う必要はないですよね?」
彼女の目を見て、ひとつ確信を得る。この子は、愛する人のためなら人殺しも厭わない。
なあ、アオト。
と、楓が答える。
「オマエのいうことが事実だとするならよ、アマガイはなんなんだ? ヒナタと一緒にいたから巻き込まれただけじゃねえのか? 手を借りる必要あんのか?」
「……時間を巻き戻したとき、記憶は失われる。たぶん、神の策略で。同じように失われているのだとすれば、天谷さんの存在は神の意表を突くきっかけになるかもしれない」
なあ、アオト。
と、楓が睨む。
「オマエを疑うわけじゃねえんだがよ、逆ってこともあるんじゃねえか?」
楓は天谷さんを疑っているようだった。
「〈武器〉じゃない。〈スパイ〉を仕込むってこともあるんじゃねえか?」
何も言い返せなかった。
たとえば、天谷さんとぶつかったときに見た記憶が神によって作られた〈不存在の記憶〉だったとしたら、たしかめる術はない。でも、あれが全くの偽物とは思えない。
一周目の記憶をほとんど失くしていたにも拘わらず、僕は二周目で使われなかった楓の〈愛の力〉を覚えていた。存在しないはずの校舎裏の告白だって同じじゃないか?
ねえ、カガリ。
と、葵が立ち上がる。
「あたしは大丈夫。あたしは……蒼斗の彼女じゃないけど、力になれるかわからないけど、少しでも力になりたいって思う。でも、カガリが無理をする必要もないと思うの」
そういって葵が天谷さんの背に抱き着いた。天谷さんがびくりと震える。ブレザーの袖が捲れて露わになった手首は簡単に折れてしまいそうで、正真正銘、人間のものに見えた。
葵がいっているのは、天谷さんが嫌ならやめてもいいという旨だった。自分が好かれているという可能性をまるっきり失念している、彼女らしい不器用な表現。
天谷さんも巻き付いた手を握る。
「っ、ぅ、わかりました。わたしも手伝います」
ふっ、と楓が歯を見せて笑う。
「お? だいたい戦えんのかよ? オマエ」
天谷さんのたれ目がかっと見開かれる。
「は? 仲間になってあげたのにそういうこというんですか? わたしは別にあなたから殺してもいいんですよ?」
挑発するように首を傾げる姿を見て、僕はいう。
「大丈夫、天谷さんは強いよ」
「けど、そいつが能力を使えるかどうかだって……」
「でも僕は信じてる」
楓は舌打ちを飲み込んでくれた。
「で、どうするよ。ご主人様?」
聞き間違いかと思った。
「……ご?」
「オレたちはオマエの武器なんだろ? ならオマエはご主人様じゃねえのか?」
聞き間違いじゃなかった。
天谷さんがいう。
「恥ずかしくないんですか?」
「黙れ。喋るな。で、オレたちは何をすればよろしい?」
メイドか何かを意識したのだろうが、明確に真似る対象が定まっていない楓は相変わらず妙な敬語を使う。
「まずは葵。敵の位置、わかる?」
赤い瞳が煌々と輝く。
「……視聴覚室」
肯く。
「楓、僕の目を押さえてくれ」
しかし、楓は僕に肩を貸している。
「わたしがやります」
天谷さんが僕の目を覆う。正面から被せられた手のひらには必要以上に力が込められていたが、ここで声を荒げるとまた面倒なことになりそうだから黙っておく。不存在の傷の痛みよりはましだ。
耳に吐息がかかる。
楓と逆、左耳から唸るような声がした。
「わたし……
できるだけ口を動かさないよう、静かにいう。
「ああ、僕の幼馴染は葵だけだ」
「葵ちゃんを泣かせたら殺しますから」
「覚えておくよ。死なないけどね」
〈千里眼〉
視界に校内の見取り図が映し出される。
「オーケー、どうやら僕らは同じものを見ているらしい」
風鈴の音に似た声がする。
「蒼斗も、見れるの……?」
同じ能力を使えると知ったら葵は自分の存在意義に疑問を抱くかもしれない。
「ん、透明にはなれないけどね」
杞憂だった。
「そっか……そっかぁ……ぇへ……えへへへへへ……」
ぎりぎりぎり、と眼球への圧が上がる。
「蒼斗とお揃い……っ」
目が取れるかと思った。
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