第28話 * vs束縛・散
時間の止まった放課後。
不存在の体育館。
前門の神、後門の天使。
あいだに挟まれた僕ら。
僕と楓、カンナはステージ側のコートに。葵と天谷さんは出入り口側のコートに分断された。
砕けて立ち上がった床材、舞い散る埃の向こう側、葵の瞳が異様に赤く輝いていた。目を凝らすと、僕らを分断しているのは床材でも埃でもなく、極細の糸のようだった。
カンナがいち早く神が悠々と待ち構えていることの危うさを感じ取り、葵が危険をたしかめ、カンナと楓が僕を救ってくれたのだ。
糸を操る能力に覚えはない。
でも、包帯を操る能力には覚えがある。
アスターはいっていた。
異能〈愛の力〉は、与えられた者が〈種〉を〈開花〉させることで発現すると。
ガーベラはいっていた。
翼を生やした天谷さんを見て〈七分咲き〉ではなく〈満開〉だと。
つまり、コートを分断した極細の糸は――
ドガガガッ、と床材が剝がれ始める。糸が動き始めているのだ。破壊の痕跡は葵と天谷さんに迫っていた。
――僕らを分断し二人を襲っているのは、神によって強化された掟先輩の〈愛の力〉だ。包帯の糸を解き、その一本一本が金属を細長く引き伸ばしたような、まるでワイヤーのような硬度を得た糸を床材に引っ掛けて捲っている。あの糸は人肌程度、簡単に引き裂くだろう。それが彼女の異能であると彼女の指が語っている。妖しい笑みの前で走る指は合唱の指揮者のようだ。
助けなければ。止めに入らなければ。力にならなければ。見ているだけなのはもう嫌だ。溢れ出る感情が二人の名前として喉をせり上がるも、一番近くで肌を刺す殺意に息を飲む。
その必要はなかった。
それどころではなかった。
ワイヤーの破壊が止まる。葵が消える。天谷さんが赤い雷光の走る夜空を広げ、掟先輩に肉薄していた。掟先輩のエメラルドのような緑色の翼と天谷さんの翼が衝突し、けたたましい音と火花が散る。
あら、と掟先輩が微笑む。
「私の邪魔をするの? 二年一組一番、天谷カガリさん」
つうっ、と天谷さんの唇から血が滲む。
「ごめんなさいはいいません。わたしは、葵ちゃんを傷つけようとしたあなたを許さない」
エンジンのないチェーンソーがぶつかり合う。衝突が連続する。ギャリギャリギャリギャリ、少女が飛び、羽が舞い、火花が散って包帯が駆ける。
一番近くの殺意は僕に覆い被さる闇から放たれていた。新月は僕を見ていない。振り返った楓と共にステージ側を向いていた。
スカートの中身を覗かれるのも構わず、カンナは僕の頭を跨ぎ、ステージ側に寄る。中腰になったカンナの背中に鏡のような鈍色の翼が現れる。ブレザーを引き裂かず、翼があるべき空間を引き裂くように、翼は硝子の割れる音を伴って右側にだけ生じていた。
楓は身体を半身に開き、木刀を神に向けて中段に構えている。
二人の一歩後ろで僕は立つ。
神は小さな一歩を繰り返し、大仰に両手を広げて僕らの元に近づく。
両手のひらが歪んで見える。
白銀のポニーテールを揺らしつつ、少年めいた神は飄々と笑う。
「変わらないね、キミは」
あと一歩で楓の間合いに入る、というところで神の歩みが止まる。
言葉の意図が読めず、読むことを恐れ、何かできるわけでもないのに身体が強張る。
神はいう。
「周りに助けて貰うばかりで自分は手を汚さない。キミがやっていることは自己犠牲なんかじゃない。責任からの逃避だ」
僕は何も言い返せず、下唇を噛んでいた。
神は続ける。
「家族愛、友愛、異性愛。多くの愛を受けながら、キミはキミを想うがゆえに手を汚す少女たちの遥か後方で悲劇のヒロインごっこをしているだけ。少しは罪の意識を持ったらどうだ?」
僕は拳をぎゅっと握り込んでいた。何か言わなければ不誠実な気がした。何を言っても言い訳にしかならないような気がした。
言葉を探しているうちに楓が答える。
「罪の意識のない奴が自己犠牲なんて選ぶかよ」
木刀の切先が神の眉間に迫る。
ぴたり、直前で止まる。
「アオトは、オレたちと同じ痛みを抱えてる癖に、一丁前に『まだ』だなんていいやがる。そんなことをほざくのは、オレたちに対して罪を感じてる何よりの証拠だろうが!」
飄々と笑いつつ、神は一歩退く。
神が退いた分だけ楓は詰める。
「だいたい試練なんざとっくにクリアしてんだわ、カミサマ。変態の天使と操り人形のヒナタ。オカマの天使とスパイのクライシ。三人どころか四人、なんなら剣にされたアマガイも足して五人も倒してる」
気づけば、神はステージに背中を預けていた。ぴたり、木刀の切先は白い額の数ミリ前から微動だにしない。
「だからさっさとトウマを返しやがれ」
クツクツと神は笑う。
「いいね。自分本位で都合のいい解釈だ。嫌いじゃない。たしかにボクは三人の刺客を倒せといった。でも残念、キミたちが戦った中で刺客は二体の天使のみ。水無月蒼斗の武器たる少女たちが、水無月蒼斗だけが使役できるわけではなかったというだけだ」
「はあ? そんな屁理屈が通るかよ」
神がいう。
「
神が消える。
楓の牽制をすり抜けるようにして、背伸びをすれば唇が触れる距離で飄々と笑っている。
「覚えておくといい。自分の理屈を通すということは、相手の理屈を通されるかもしれないということだ」
移動した瞬間を捉えられなかった。
移動する直前、右手はチョキの形をしていたように思う。
楓がたじろいだ隙に、神の左手のひらが僕に向けられる。
「神たるボクに敗北を認めさせてみろ」
ズガン、何かが体育館を震わせた。カガリ、と風鈴をかき鳴らしたような叫びが響く。神の視線がそれた先、天谷さんがバスケットゴールに引っかかっていた。腰に包帯が巻き付いているあたり、ネットの下から伸びた包帯に捕まり、引き寄せられたのだろう。お尻がリングにはまっている。
掟先輩は蜘蛛の巣のように張り巡らせれた包帯の上で頬杖をついていた。
「あらあら、許さないだなんていったわりに呆気ないのね」
天谷さんは息を荒げながら、葵を抱いて離さない。
「あなたが本気を出さないから調子が出ないだけです。あなたがわたしを殺す気なら、あなたはとっくに死んでます」
葵の瞳は炯々と輝いている。
「カガリ! あたしのことなんていいからあたしを置いて戦って! このままじゃみんな殺されちゃう!」
天谷さんは首を振る。
「大丈夫。葵ちゃんだけは、わたしが死んでも守るから」
「お願い……もう、誰にも傷ついてほしくないの。あたしのためだっていうなら、あたしを置いて戦って」
逡巡があった。
「大好きだよ、あおちゃんのそういうところ」
天谷さんが消える。
葵がバスケットゴール裏の回廊に内股で座り、轟、と風が走る。床に叩き落とされた掟先輩が靴を鳴らしながら滑る。天谷さんが掟先輩と接触した瞬間の残像が見える。もはや目で追うことすら難しい。
「やればできるじゃない。よほど大切なのね。緋鉈葵さんが。参考までに貴方の愛がどれくらいか聞かせてもらえるかしら? 私の水無月君への愛は地球一周分より大きいけれど貴女はどう? 四○○○○キロより大きい? 小さい?」
底冷えのする声がする。
「わたしの愛は、数字なんかで測れない」
あっち側のコートの中央にクレーターが生じた。
「っ、センパイ!」
振り返ると、僕と神のあいだにカンナが立ち塞がっていた。鈍色の翼が神の左手から生じる何かを防ぎ、火花が散る。
神がいう。
「
何かは見えない。
カンナがいう。
「見えない、剣?」
楓が何かに向けて木刀を振るうと阻まれる。左手の形が何かを握るような
「あ、おと先輩……?」
神とのあいだにカンナが立っていた。
カンナに新たな傷はない。
新月のような目に怯えが見える。
向こう側で、神が飄々と笑っている。
楽しげに。
「カンナ、どうし……?」
どうした、といいきることができなかった。新月は僕の右半身に向けられていた。食い気味に告げられたカンナの言葉に、僕の視線も吸い寄せられる。
「右……痛くないんですか?」
見下ろした先に、包帯の巻かれた右手はなかった。僕の上半身は、首より右が歪に抉り取られていた。目で傷を捉えた瞬間は、それが僕の身体であると理解できなかった。肩から先が消失し、絵の具のような血や琥珀のような油が僕のものであると理解したとき、形容し難い激痛が脳を焼いた。
楓とカンナが信じられないという目で見ていた。僕は耐えられず――耐えた。口の中が切れるのも構わずに噛み締めて叫びを上げるのを耐え、身体が崩れ落ちるのを耐え、右半身を失う致死のダメージを〈先送り〉にした。
死は免れた。
痛みは消えない。
身体の震えが止まらない。
脂汗が目に入り、涙が出る。
これで、さっき〈先送り〉したカンナの死と合わせて二回、死は蓄積している。まだいける。まだ動ける。まだ、アスターに頼らず戦える。
思えば、今までは自分の傷をほとんど自覚しなかった。死を傷という形を持って目の前に晒された瞬間、僕はいっそう臆病になってしまったのだと思う。
大丈夫。
その一言が出てこなかった。
躊躇いのなさからして、神はすでに僕を人間ではないと判断しているか、新たな〈罪〉を見出している。七戒律に突破口は見出せない。
ずいぶんショックを与えてしまったらしい。ギリリ、と歯の軋む音がする。
カンナの背に、影を立体化させたような光のない翼が出現していた。鈍色の右翼と闇色の左翼が弾け、弾丸のように射出された羽が神を襲う。
そこから戦闘は激化した。
カンナは一対の翼と〈妄想〉の暴力を振るい、楓は秋の色をした天使の霊体と霊体の持つ巨大な二本の両刃剣を振るい、僕は楓がネクタイから整形した抜き身の小太刀を振るった。
僕の知る限り、神に関する知識のすべてをカンナに話した。時間停止と、僕と違って固定するタイプの因果律操作。それだけなら何とかするとカンナはいってくれていた。
僕が不確かな情報を与えたせいだ。
カンナに罪の意識を与え、悲しませた。
楓は僕をフォローしてくれた。
けど図星だったのは事実だ。
僕はずっと、戦うことから逃げていた。
思う存分に戦う神は舞うようだった。
尾を引き閃く白髪に胡蝶の幻を見てしまうともう、堪らない。
戦いの最中でありながら、僕は胡蝶を思ってしまう。
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